最初にひかれたのは声だった。



冷たく甘いアイスキャンディーみたいな、くせになる味。「」、と呼ぶ郭の声が全身を駆け抜けていく感覚。は教室の隅で目を瞑って雑踏に紛れて時折響く彼の声を聞くのが特に好きだった。しんと静まり返った中で、水面に波紋を描くように響く彼の声も好きだけれど、それよりもざわついた空間の中でふいに張った糸を伝って届く音のような少し異質な彼の声の方が好きだった。驚くほどはっきりと、郭の声だけが届く。



だからだろうか、最初に違和感を覚えたのも、彼の声だった。



始めは雲を掴むように曖昧で確信できなかったけれど、それは段々と揺らぐことのない事実としてに降り掛かってきた。一度気付いた違和感を取り消すのは難しい。

だから、は意を決して本人に聞いてみることにしたのだった。

「郭」

退屈な国語と、怖いと評判の教師のせいで気の抜けない社会の間の休み時間。社会の用意を机に並べ、立ち上がろうとした郭には声をかけた。ゆっくりと振り替えってほほ笑みを浮かべて、「?どうしたの」、と。ああやっぱり、とはため息をつきそうになった自分になんとか牽制をかけて、一度自分の爪先を見つめて。



「郭、怒ってるでしょう」



す、と顔を上げてはっきりと言った。郭はそんなことを言われるなんて想像もつかなかったのだろう、相当驚いていることがでも読み取れた。

始めは本当に微かに違和感を感じただけだった。
それが本当に違和感なのかどうかさえもわからないくらい微かな変化だった。

が名を呼ぶ度に、少しずつ、でも確実に郭から感じる違和感は大きくなっていく。
だからは違和感を感じ始めてから10日と3日ほどたった今日、その真偽を確かめるべく郭の元へと急いだのだった。実際彼の前に立つまでは、何を言おうかすら決めていなかったのに、名前を呼んで振り返った郭の顔を見て、すぐに。

「何に怒ってるの?あたし、何かしたっけ?」

咎めるというよりも縋るようになってしまうのはきっと惚れた方の性なのだろう。は飽く迄冷静であろうとしているが果たしてこの沈黙にあと何秒耐えられるかわからない。は別段声のトーンを落としたわけでもないのだけれど、側に居るクラスメイトたちには届いていないらしく、みな銘々に休み時間を過ごしている。郭はしばらくの間何か考えるように視線を落として黙っていたけれど、やがてゆっくりと顔を上げた。

に、怒ってるわけじゃないんだけどね」

苦笑しながら郭は言う。
そんな郭を見ての心は安心半分、それから、戸惑い半分。



「嘘。じゃあどうしてあたしが名前呼ぶ度に、あんな顔するの」



ほとんど確定に近い語尾口調でがそう言うと郭は先程よりもさらに驚いた顔をした。ざわざわとしたクラスメイトたちの話し声が通り抜けて行く。

ねえねえ今日あそこ寄っていこうよ、練習メニュー強化してもいいかなぁ、げっ俺次当たんじゃん!

もしも人間の耳に聞きたい言葉だけをピックアップして脳へ届けてくれるという機能があればどれだけ良いだろう、は黙りこくってしまった郭を前にそんなことを思った。彼が言葉を発さないというならば、他の言葉なんていらないとさえ思えてしまう自分に、さすがに呆れていた。時計の針は授業開始1分前を告げていて、いい加減席へ戻ろうとが体の向きを変えたその瞬間、



「呼び方」



と郭が呟いた。呼び方?、怪訝そうにはその言葉を繰り返して、それから再び郭の方へと向き直る。彼の表情は、あのが飽きるほど見つめてそして魅了された、いつもの芯のある強い眼差しを称えたものになっていた。こういう表情の郭を攻めていくのは自殺行為だということをはしっかり学んでいたので余計なことは言わずに聞く側に回ろうと心に決めて、は彼に問い掛けた。

「それが、何?」
「郭くん、が最初で、次は郭。で、今もそうだよね」
「うん。呼び捨てにしちゃまずかったってこと?」
「まさか。むしろと仲良くなれたと思って嬉しかったし」

郭の言わんとすることがわからなくては次に紡ぐ言葉を飲み込むことしかできなかった。とん、と背中を窓ガラスに預けて郭を見る。どんよりとした空は今にも泣きだしそうだった。



「結人と一馬」



はっ?、予想もしなかった単語には思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。「ゆーととかずま?」聞こえた通りに発音して、それからやっとその単語を変換することができた。

「結人くんと一馬くんが、何?」
「ほら、2人のことはそうやって呼ぶのに」

ぐるぐると、何かが頭の中をずっと回っていく感覚。

辿り着く場所はわかっているのに、何故かそこへ行くのは躊躇われて、無駄に時間を過ごしてしまう。落ち着けあたし、とは自分に言い聞かせた。とりあえず会話を全部思い出して、それらをなるべく客観的に考えて。それでもどんなに考えてもやはり辿り着く答えは一つだった。

「ちょっと郭さん」
「なんでしょう」
「今までの会話をなるべく冷静に、かつ機械的に考えた結果、あなたがまるで結人くんと一馬くんに嫉妬しているかのような結論に達してしまったわけですがこれは間違っているのでしょうか間違いですよねそうですね調子乗ってすみませんでした」

一気にまくしたてて退却しようと構えたを郭は無理矢理引き留めた。
恥ずかしくて俯いたまま顔を背けるの腕を郭はしっかり掴んで離さない。郭の席が教室の隅で本当によかったとは心の底から神に感謝した。クラスメイトの目には相変わらず写っていないらしい。

「顔上げてよ」

郭の声が響く。
それでも俯いたままのに、郭は再び声をかける、「顔上げて」。この声を聞くとなんだか全てがどうでもよくなってはゆっくりと顔を上げた。声に惚れるって不利かもしれない、そんなことを思う。



「そうだよ、結人と一馬に嫉妬してる。だから、怒ってるわけじゃない」



驚くほど優しい声とほほ笑みでそんなことを言われたので、の思考は完全にフリーズした。無意識のまま郭に手を伸ばして頬に触れて、





「英士」





呟いたと同時にチャイムが鳴る。はっ、と我に返るとは一目散に自分の机に駆けていった。








30.Octorber










   
written by 夜桜ココ 081115