何か、忘れているような気がしてはいたのだけれど。
 



都合主義万歳
 



 「 ー!」
 窓の外から呼ばれて、 は顔を上げた。
 「 ー! ってばー!」
 「 ちゃーん!」
 あまりに連呼されるので、顔をしかめて生徒会室のそれから は顔を出す。高さが大分あるので相手の姿は小さかったが、明るい黄色い髪と赤っぽい黒髪は、暮れかけた夕日の中でも誰か確認するのに充分な手がかりになった。
 「うるさいわよ、ジロちゃん、岳人!」
 窓から身を乗り出してそう怒鳴りつけるが、二人は悪びれた様子もない。
 「なあなあ、まだ生徒会終わんないのか?」
 「俺たち、あと走ってきたら終わりなんだよー。一緒に帰ろうよー。」
 
 ふと、何かを思い出しかけたような気がした。
 
 でも、それは気だけだった。
 
 「どっか寄ってくの?」
 「角んとこに新しくアイスクリーム屋ができたじゃん。あそこ、美味いんだって!」
 「開店記念セールで半額だから、侑士がおごってくれるってさ!」
 あらまあ、侑士可哀想、と思ったが、そういうことなら断る手はない。あそこのアイスクリーム屋は、一度行ってみたかったのだ。
 「あと何分で走り終わるの?」
  がそう問うと、彼らは顔を見合わせた。よし、とガッツポーズをしているのが見える。
 「何・・・?」
 怪訝そうな顔をすると、二人はにこにこしながら、
 「跡部と侑士は、 がぜってー断るって言ったんだ。」
 「だから、もし が断らなかったら、二人のおごりだって約束したんだぜー。」
 と言った。なるほど、侑士のおごりというのには、括弧つきで仮、と書いてあったに違いない。結局、ちびっ子たちの思い通りになったわけだが。
 「あと三十分もあれば、走って、着替えまで終わるから、どっかで待ってて。」
 「昇降口か、あ、部室でもいいや!他のやつらはもう、着替えてると思うし。」
 「なあに、あなたたち、何か罰でも与えられたの?」
 「違うっての!掃除当番で遅れたから、最初の走りこみできなかったんだよ!」
 「終わったあと走れってさー。じゃあ、行ってきまーす。」
 ひらひら、と手を振りながら、二人の背中が小さくなる。
 「・・・というわけだから、あと十五分ぐらいしたら帰るわね。」
 振り返って、室内で他の仕事をしていた書記と会計にそういうと、彼らは苦笑しながら頷いた。会長も大変ですね、と、少し哀れみの視線を含んだ顔で を見ながら。
 
 
 
 部室をノックしようとしたときに、ちょうど中から扉が開いた。
 「わ!」
 「うっわ、あ、 先輩!」
 「うわ、おい、長太郎!」
  も驚いたが、中から扉を引き開けた鳳も大分驚いたらしい。慌てて後ろに一歩退いて、続いて出ようとしていた宍戸にぶつかった。そっちにも頭を下げている。前から思っていたのだが、この可愛い後輩は、どうも自分を恐れてはいまいか。
 自分の行動を振り替える。
 
 思い当たる節はなかった。
 
 確かにべっちはよく叩いたり絞めたり蹴飛ばしたり落としたりしているけれど、三年生にも結構手は出るけど、鳳を始め二年生には手を出した覚えはないのだが。
 ああ、何度か生徒会の仕事を手伝わせたり、赤字の部費を肉体労働で賄わせたりはしたけれど、あれは快く了解してくれたはずだ。
 
 
  の脳内には都合のいい変換機がついているらしい。
 
 
 「あ、ごめんね。ここで待ってろって言われたから。」
 にっこり笑いながらそういうと、ちょうど帰るところだったらしい彼は扉を大きく引き開けてくれた。
 「どうぞ。みんなもう、着替え終わってますから。」
 「大丈夫よ、着替えてても気にしないし。」
 「・・・俺は気になるんですけど。」
 彼の呟きなど、シャットダウンだ。
 「長太郎、無駄だって。今まで同じ台詞、何回言ってきてると思ってんだ。結局何も変わってねえだろ?」
 鳳はいつものことにため息を吐きながら、中に残っているメンバーを見た。なにやら書いている跡部部長。走っている先輩二人を待っているらしい忍足。鞄を肩にかけて帰ろうとしている日吉。それから、自分と一緒に今正に扉を出ようとしている宍戸。樺地は珍しく、練習が終わったあとに部長に何か言われて、早々に一人で帰ってしまった。
 自分たちと日吉が帰って、ここに残るのは跡部と忍足、そして のみ。
 なんとなく、嫌な予感がしたが、だからと言ってこのメンバーの中に残るのも不安だった。
 「じゃあな、 。」
 「 先輩、失礼します。」
 宍戸が手を上げて、日吉も軽く手を上げる。
 
 結局、彼らに続くことにした。
 
 「先輩、さようなら。」
 にこり、とオプション付きだ。 は彼らを見て、黙っていれば可愛らしいその顔に笑顔を浮かべた。―――跡部相手には絶対見せない笑顔だ。
 「亮、ちょたくん、ひよちゃん、バイバイ。」
 ひらひら、と手を振ってくれた。本当に、口と手を出さなければ、非の打ち所のない先輩なのになあ、と心の中で思った。まあ、逆にそれが魅力だとしても。
 
 
 「 、座ってええよ。」
 侑士に言われて、 はありがとう、と頷いた。
 空いている席に座ると、跡部が、
 「ここに来いよ、 。」
 と自分の隣を指差したが、来たのは 自身ではなく、強烈なチョップだった。跡部は頭を押さえながら、恨みがましい目で を見るが、 の視線はもう侑士に移っていた。
 「角のアイスクリーム屋さんに行くんですって?」
 そう訊ねると、侑士は苦笑しながら頷いた。
 「ああー、岳人たちが誘いに行ったんやろ?」
 「一回から怒鳴られたわよ。多分、窓開けてた教室とか、完全に聞こえてたと思うんだけどね。」
 「あいつら、そういうこと気にせんからなあ。」
 「生徒会の子たちも、半分笑ってたわよ。」
 子供っぽいわよね、そう言いながら は肩をすくめた。
 
 「そういえば、今日のアイスクリーム、侑士のおごりなんでしょ?」
 
 思い出したように付け足された言葉に、侑士は片眉を上げた。驚いた顔をして を見る。
 「それ、あいつらが言うたん?」
 「そうよ。」
 「賭けの話は?」
 「してたわ。私が行くか行かないかで賭けてた、って。私が一緒に行くって言ったら、侑士のおごりなんでしょう?」
 当然のように、 が言う。侑士は少し困った顔をして、 と跡部を見比べた。その様子を見て首をかしげ、彼女も跡部に視線をやる。
 
 とても不機嫌な顔をしていた。
 
 「てことは、 、俺らと一緒にアイスクリーム食いに行くいうことやな?」
 「そうね、だからここに来たんだもの。」
  の返事を聞いて、侑士はえーと・・・、などと視線を泳がせながら、どうしたもんかと腕を組んだ。
 「なに、どうしたの侑士。もしかして、男同士の話とかがあったから、私が行かない方がよかったとか?」
 「いや、そんなんやないんやけど・・・。」
 言葉を濁す。
 
 「えーと、 。もしかして、全然覚えとらんの?」
 
 「え?何を?」
 予想外の質問だった。 は、自分自身がそんなに忘れっぽい方だとは思っていない。寧ろつまらないことまでしつこく覚えているタイプで、ときどきそんな自分が嫌になるぐらいなのだ。
 それは、まわりの人間もわかっているはずだった。 によって過去の忘れたい、もしくは忘れかけていた恥ずかしい出来事を暴かれて、悲鳴をあげた人間は数知れない。
 「あれ、私、なんか忘れてるかしら・・・。」
 「多分そうやと思うわー。」
 「えーと・・・。」
 言われてみれば。
 
 なんだかずっと、忘れているような気がしてはいた。
 今日の帰りに、お誘いを受けたときも、何かを思い出しかけた気がしてはいた。
 
 でも、それは本当に"気がした"だけで、はっきりとした形にはならなくて。
 
 どうせ、ただの気のせいだろうと思って、深く考えずにいた。
 だが、侑士のこの様子を見れば、自分はそれを思い出さなくてはならないのだろう。多分、とても重要なことを忘れているに違いないのだ。
 
 「えーと・・・うーん・・・。」
 唸りながら首をひねっていると、侑士がとうとう冷や汗をかきながら、自分と跡部を見比べているのに気がついた。
 聡い のことだ。直感的に、忘れていることは跡部に関係があることではないか、と思いつく。
 「あー・・・べっち関係か。」
 そう呟いたところで、二人が同時に顔を上げた。侑士はほっとした顔、跡部は傲慢な顔にかすかな安堵の表情を浮かべて。
 
 
 「ごめん、べっち関係だったら、多分綺麗さっぱり忘れてるわ、私。」
 
 
 そんな中で発せられた の告白は、たいそう爽やかで、ひどかった。
 聞いた侑士が固まる。それはもう、完全に見事にがちがちに固まる。ぎぎぎぎ、とさびた機械が立てそうな音をさせ、跡部を振り返った彼の目には、通常の不機嫌とは一線を画すほど何倍もの不機嫌が顔いっぱいに広がっているのがわかる。
 
 「 ー!ただいまー!」
 「やっと走り終わったから、あと、着替えるまで待てよー!」
 「あ、あとべー、いたんだー?」
 どやどやと入ってくるちびっ子たち。タイミングとしては最悪だが、彼らは幸か不幸か、はたまた人の表情を読み取ることができないのか、跡部の顔には気付かずにいた。
 「岳人、ジロー。」
 侑士が声をかける。もう、上を脱いで制服に着替えかけていた二人は、くるりと声の主に顔を向ける。
 「 、やっぱり今日は駄目なんやって。」
 「ええー。」
 「ええー。」
 「ええー。」
 彼の言葉に帰ってきた不満な答えは、三つだ。三つ目の主である を、侑士も含め三人が振り返るが、ふい、と視線を逸らすと諭すように続ける。
 「今日は俺がおごってやるさかい、我慢してや。なあ、 にも、来週の予定のいい日に、おごるさかい。」
 なあ、ともう一度、今度は少し懇願するように言った。
 仕方ない、友の頼みだ。
 「わかった。じゃあ、来週の月曜日。絶対よ、手帳に書きとめておくんだから。」
 「おう。ほな、行くで、岳人、ジロー。」
 友人たちの背中を押して、彼は立ち上がった。
 「じゃあなー、 !」
 「また明日なー。」
 手を振って三人は出て行って、 と跡部が残される。不機嫌なまま、 がここに来てから殆ど言葉も発していない跡部と、彼の不機嫌の根源である、 が。
 
 「おい、 。」
 
  は顔を上げた。
 「ん?」
 「ほんっとうに、覚えてねえのか?」
 「だから、何のことを言ってるのか見当もつかないんだって。べっち、わかってるならさっさと教えてちょうだい。」
 跡部はため息をついた。
 
 鈍い、疎いどころか全く感じていない相手だというのはわかっていた。
 自分に手が出るのも、多分自分に非があるのであろうことも。
 それでも、この仕打ちはあんまりではないか。
 
 
 「一緒に帰るんだろうが。」
 
 
 低い声で告げられたその言葉に、 はぽかんとした顔をした。ややあって、
 「ああ。」
 ぱちん、と手を合わせる。
 「そうね、そういえば一昨日そんな約束をした気がするわ。」
 「したんだよ!忍足も見てただろうが!」
 「あー、それで侑士ってば、あんなに気を遣ってくれてたのね。そうだわ、そうね、約束してたわねー。」
 生徒会が忙しい と、部活が忙しい跡部。帰りの時間が合うことはあるのだけれど、とにかく二人とも遅いから、どこかに寄っていく時間はない。
 たまたま知った の予定と自分たちの部活の早上がりの日が一致していたから、その日のうちに半ば無理やり、一緒に帰る約束を取り付けたというのに。
 そもそも、なんで帝王たる自分がここまでやっても、気付かないのだろうこの相手は。もしかして、知っていてわざとやっているんじゃないかと勘繰りたくすらなる。
 
 「ごめんね、べっち。」
 
 少し困ったように笑って、顔の前で手を合わせる を見て、少し気が晴れた。彼女が謝ってくれるのなど、珍しい。
 だからうっかり、跡部は調子にのった。
 
 「お前がさっさと思い出さねえから、大分時間をロスしちまったじゃねえか。」
 
 彼は、どうしようもなく迂闊だった。
  の性格は、理解していたはずなのに。
 
 「・・・なんですって?」
 
 低い声に、やばいと思ったときはもう遅い。
 
 
 「だったらさっさと言え!」
 
 
 怒りの声と共に、手が出た。それは鳩尾に綺麗にヒットし、帝王跡部景吾は、ソファの上にぐったりと倒れる。
 ふん、と腰に手を当てる に、最早先程までの懺悔の表情は欠片もない。
 
 「今から走って追いかければ、侑士たちに追いつけるよねー。アイスアイス。」
 
 倒れている跡部を完全に無視して、 は軽いステップでドアに手をかける。
 
 
 「ごきげんよう、景吾。」
 
 
 ドアを閉める直前に見せた麗しい表情と優しい声だけが、やけに冷たく聞こえた。

 
 
fin

 遅くなってごめんなさい、サクラちゃんへの相互記念に氷帝の女帝を押し付けます。
 このヒロインを好きだといってくれる奇特なサクラちゃん、と言うわけで、女帝っぷりを表に出そうと頑張ったんですが、あんまりでなかった上に、跡部も殆どでませんでした。
 ごめんね・・・。書き直しは随時受け付けております。
 ずっと連載しか書いてなかったので、久しぶりに書いた短編は、今までのノリを忘れかけてて大変でした。
 でも、こっちの方が書きやすいなあ・・・。
 
 20050927 花明宵霞

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