いつも彼がここに来ることは知っていた。 透明な視線 中庭の見渡せる渡り廊下。 一つの、白いベンチ。 教室の私の席から見下ろせる唯一の場所。 週に一度、放課後にやってくる彼。 名前も、知らなかった。 「香ー置いてくよー。」 「あーごめん先帰っていいよー。忘れ物したぁー。」 今日の晩御飯は何を作ろうかなと思い手帳を取り出そうと鞄の中を見てみたら持って帰ってきたと思っていた数学の問題集が入っていなかった。 いつもならこんなもののために取りに戻ったりしないけれど、明日確実に当たることがわかっていたので、予習をやらないわけにいかない。 仕方がないのでまた、もときた道を戻り出した。 教室に入ると中には誰もいなかった。 珍しい。 いつも何人かの女子が話しこんでいることが多いのに今日は誰もいなかった。 とゆうか最近はあんまり見かけなかったな。 部活動を引退して、部活開始まで時間を潰さなくてもよくなったからかな。 誰もいない教室をボーっと眺めていたら何だか異様に寒気がしてきたのでさっさと問題集を取って帰ろうとした。 一番後ろの一番左。 窓側の席。 結構お気に入りの場所だった。 意外と人気のあるこの場所。 机の中の問題集を引っ張り出すと鞄の中に乱暴に詰めた。 ふと、いつもの癖で下を見下ろす。 真っ白なベンチに座って一人、いつもの彼が本を読んでいた。 珍しいな。 勉強していることが一番多いのに。 ただ私が一方的に見ているだけで、名前も顔すらよく知らない男の子。 その表情はここからじゃ見ることはできないけれどいつもなんとなく不思議な雰囲気を漂わせていた。 淋しそうとはちょっと違う、でもそんな感じ。 会って、みたくなった。 教室を出て右にまがりさらに次の角も右に曲がる。 一日中あまり日の差さない階段を気が付けば足早に駆け下りていた。 職員室の前を颯爽と通り抜け、生物室の中に入る。 渡り廊下に行くには生物準備室の奥にある小さな扉を使うと大分近道になる。 多分、この学校の中で、この扉を知っているものはごく少人数だと思う。 黒い暗幕をそっとめくると中にあの小さな錆びた鉄の扉が顔を出した。 ノブをひねって引っ張るとギィっとあまり使われてない鉄の扉を開ける時特有の音を出した。 そっとその扉から顔を出すともうそこは渡り廊下の目の前。 パタンとゆっくりドアを閉めた。 声をかけようと思ったけど何故かそれはやってはいけないことのような気がして黙って彼が本をめくる姿を見つめていた。 その横顔はなんだかとても整っていて。 長い前髪が風に揺られてさらさらと彼の頬をかすめる。 惚れた、わけではなかった。 魅せられた。 そんな、感じ。 どれくらい時間がたったんだろう。 とりあえず彼が半分以上本を読み終えた時だった。 「何か、用?」 思っていたよりもちょっと低めの声で、彼は本を見つめたままそう言った。 私に声をかけているのかどうか一瞬迷ったけれどここには私と彼以外誰もいなかったので私に向けられた言葉だったと判断した。 「別に、用があったわけじゃないんだけど・・・・・。」 何て言えばいいのかよく判らなかったので私はそう返事を返した。 「そう。」 やっぱり本を見つめたまま彼は答えた。 「見られてるの、嫌、かな、やっぱ。」 「いいと思う人はいないんじゃない?」 「ごめんなさい。」 「嫌とは言ってないんだけどね。」 そう言って初めて彼は顔を上げた。 ゆっくりと。 視線がぶつかる。 「用がなかったのなら何でこんな所にいるのかな。」 言ってから彼は本を閉じ、まっすぐ私を見て、ちょっとだけ笑った。 たぶん彼はいつもこんな風に微笑みを浮かべてるタイプの人間なんだろうな、と思う。 私もまっすぐ彼を見つめる。 「よく、見てたの。」 「何を?」 「貴方を。」 「どこから?」 嫌そうな顔一つせず、彼は言った。 「教室の、私の席から。」 「ふぅん。今日はどうして教室からじゃないの?」 「話して、みたかったから・・・。」 「それが、君がそこから俺を見てた理由?」 「そう。」 そっちに行ってもいいかな、という私の質問に対してやっぱり彼は微笑んだまま、いいよ、とだけ答えた。 ゆっくりと彼の方に歩を進める。 何だか消えてしまいそうな人だと思った。 「名前は?」 「。」 「そう。俺も名乗った方がいいのかな。」 「できれば。」 「幸村精市。座ったら?」 別に座らなくてもよかったのだけれど立っていたかったわけでもないのでお言葉に甘えて彼の隣に座ることにした。 もうそろそろ下校の時刻を迎えるようで、見下ろした校庭では運動部が片付けを始めていた。 「二年生?」 彼が、言った。 「うん。貴方も?」 「そうだよ。結構朝礼とかで表彰されてるんだけど、知らない?」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ごめんなさい。」 「謝ることないんだけどさ。」 ちょっとだけさっきよりも明るく彼は笑った。 「ちょっとしばらく出れなくなりそうだし。」 「何で?」 「色々。」 また、あの笑顔で微笑んだ。 知ってる。 少し拒絶を含んだこの笑顔。 「君ともこれが最後だったりして。」 「会うのが?」 「そう。」 「私は案外、また、会えると思うけど。」 「だといいけど。」 完全下校、十分前のチャイムが鳴った。 しばらく、二人とも動かなかった。 「じゃぁ、私もう帰るね。夕飯作らなきゃいけないし、宿題やらなきゃいけないし。」 「そう。」 「貴方はまだ帰らないの?」 「待ってる人がいるから。」 「そっか。それじゃ。」 立ち上がって一礼すると、私は鞄を持って足早にその場を去ろうとした。 ちょっと長くいすぎたようで、今から帰ってどんなに早く夕飯を作っても妹が帰ってくるまでに間に合わなさそうだと思った。 「。」 呼び止められて、私は進めていた足をとめた。 「また、ね。」 幸村が、そう言って、笑った。 またいつか。 会えることを。 END +++++++++++++++++++ 06年2月21日 |