始まり。









Without a prelude










私がこの世で一番嫌いな化学のレポートを何とか形になるように仕上げた所で私は力尽きた。
レポートを書き始めた頃は確かまだ月が見えていたはずなのに、気が付けば太陽が立ち並ぶ住宅の向こう側から少しだけ顔を覗かせていた。
不気味な色をぼんやりと鈍く放つそれが、ひどく幻想的に見える。
こんなことをしても意味がないと頭ではわかっているはずなのに、
私は薄っぺらなカーテンでその光を遮断しようとした。
案の定それはまったく意味を成さなくて、カーテンの向こうからその光はこちら側に細々と、でもその存在感は確かに強調されながら入ってきた。
私の今の心境としてはこれから夜を迎えたい度100%なのだけれど、今から寝るくらいならいっそ徹夜してやるか、と開き直った。
時計を見上げるとちょうど朝の五時を指していた。
秒針の刻む音がやけに大きく聞こえる。
その音をかき消したくてラジオのスイッチを入れた。
やたら喝舌のいいおじさんの声が部屋に籠もる。
チャンネルを変えてもどこも同じような調子だった。




「何やってんの?こんな朝っぱらから。」




カーテンで閉ざしたはずの窓の向こうからそんな声がして、私は宿題をしようと俯いていた顔をあげた。
白地に黄色とオレンジのチェックが入ったカーテンを払い除けるようにして勢い良く開ける。

「いつも朝遅いのに。」

そう言って薄笑いを浮かべながら立っていたのは一つ年下の幼なじみの幸村精市だった。
ゆっくりと窓の鍵を開け、それよりさらにゆっくり窓を引く。
外の、肌にへばりつくような熱気が中に入り込んできたのに気付き、私は顔をしかめた。

私の部屋は前の道路に面した一階の部屋で、うちには塀とかがあるわけではないので少し入れば窓を叩ける距離なのだ。
娘の部屋をそういう位置にする親の思考回路を疑う。

「レポート仕上げてただけ。あんたこそ何やってんの?」
「朝練。」

当たり前のように彼はいう。
朝五時から朝練を開始するなんてどういう神経してんだ、と私は思って呆れた。


「全国前なんだよ。」


私の気持ちに応えるように彼は言った。
今から練習を開始するのだろうか、彼は汗一つかいていなかった。

「全国前だからってこの早さはどうなの・・・?」

私がそう言えば心外だと言いたそうな表情でこっちを見てきた。
条件反射で謝りそうになる自分に規制をかける。

「入院して皆に近づかれたからね、離さないと。そのためには他の人よりもっと練習しなきゃだめだろ?」

部活の朝練は普通にあるからね、と付け足す。
皆と離された、と言わずに近づかれた、と絶対的な自信を持って言った彼の様子は、小さい頃から見慣れるほど見てきた、誇らしげなものだった。

「高校生は大変なご様子で。」
「うるさいよ黙れ。」

そう言って彼を見ればくすくすと笑っていた。変わらないね、と私に一言。

入院して心なしか痩せたように見える。
ただでさえ健康的には見えなかったのに、さらに病弱さがましたように見えた。

「また白くなったね。」
「香こそ相変わらず引きこもりみたいだね。」

可愛くないことをいけしゃあしゃあと言ってのける年下の幼なじみを、思いっきり睨み付けた。
それでも彼は黙って微笑んでいるだけ。
無駄に落ち着いた彼が時々知らない人のように思えてしまう錯覚に陥る。
私の友人が彼のことを、いつかふっと消えてしまいそうな人だね、と評価したけど、私はむしろその存在の強さが恐くなる時がある。
どうやったらここまで自分を強調できるのか私にはわからない。

「立海大目指してるんでしょ?」
「はぁ?いやもっと上に行きますから。」

冗談で言ったのをわかっているだろうに、彼は私を見て鼻で笑った。

「絶対立海なんて行かないわよ。あんたいるし。」
「浪人してから入っておいでよ、同学年だよ。」

無視した。

私と彼は一度も同じ学校に通ったことがない。
知り合ったのはそれこそ彼が生まれた時だが、私は保育園、彼は幼稚園に通い、
小学校はたまたま、私の家と彼の家を隔てている道路を基準に区分されていて、
中学は私は普通の公立に通い、彼は大学付属に通っているので、本当に一度も同じになったことがない。
その後私は女子校の公立高校に進学したため、高校も同じになることはありえない。

まぁ少し、同じ学校に通ってみたい気もするけど。


少し。










「香は俺のこと嫌い?」










唐突だった。
本当に唐突に予想をしてなかった言葉を当たり前のようにさらりと彼が言ってのけたので、
その言葉の意味を理解するのに少なくとも五秒はかかったように思える。

「好きではない。」



「うわ。人がせっかく告白してるのに。」



さらに不可解な言葉が彼の口からするりと述べられる。
ぽかんと口を開けて彼を見る。
笑っている。
理解するのに今度は十秒かかった気がした。

「えーっと。これは割と真面目に告白されてる感じなのかしら。」
「何野暮なこと聞いてんの?」

そんなこと言われても。

徹夜明けの頭でぼーっとしている意識をどうにかしてフル稼働させる。
もう一度同じことを聞こうとして慌ててやめた。
告白とかいきなり言われても、急すぎる展開にイマイチついていけていなかった。
大体雰囲気とかもうちょっと考えないんだろうかこの男は。
朝日が大分高い所まで昇っていて、彼を不思議な色で照らしている。
いつかテレビで見たどこかの教会のキャンドルを思い出した。

「別に嫌いではないんだけどさ・・・。」
「他の人と同じ位置にいる?俺。」

相変わらず少し微笑んだままの彼がなんだかひどく遠い存在のように感じた。
あまりにも昔から近くにいたから改めて彼の存在を定義付けたことなどない。
今初めて幸村精市という人間に出会ったような気がした。


「あー、精市が好き。」


「いきなり?」
「うるさいなぁ。」

何年も前から彼を知っているのに今のこの感覚は一目惚れという言葉が一番似合いそうだった。

「さて、じゃぁすっきりした所で朝練開始しようかな。」

何がどうすっきりしたのか聞きたかったが何となく今はそんなことを聞くべきじゃないような気がして、言葉を喉の奥まで出しかけてやめた。
傍を通った中学生らしい男の子が不思議そうな目でこちらを見ていた。

「香からの告白も聞けたことだし。」
「は?私からじゃないじゃん。」
「何言ってんの。好きだって言ったのは香だろ?」

「・・・・・・?」

意味がわからない。
しばらく考えてようやくその意味を理解した時に生まれたこの感情が殺意というものなんだと私は確信した。

「訂正する。私はあんたなんか嫌いだわ。」
「何を今更。」














「愛してるよ、香。」














自分が彼より年上なのだということが偽りの事実のような気がした。

END
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甘いもの目指したつもりだったのに・・・。

06年2月25日


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