「馬鹿は嫌い。神様は何で馬鹿を造ったんだろう」



 目の前の男は窓の外を見てながら、そう吐き出した。その目は憎悪を含んでいるような、でもそんなことないような、なんとも言えない光の加減で、少しだけ首をあげて彼を盗み見ていた私は何となく居心地が悪くなって、視線を戻す。

 目の前には、14、という赤い文字。

「・・・・喧嘩を売られているのでしょうか」

 その、赤い文字――つまりはテストの点数に向かってそう呟くと、幸村は3秒空けて盛大にため息をついた。

「お前、そうやって理解するんだ?馬鹿じゃないと思ってたけどやっぱり馬鹿なの?」

 ぐしゃりとテストを握りつぶされて呆然とする。というか呆然とするしかない。
 私は今、赤点を取った数学の追試のために勉強をしている真っ最中で、前回のテストのやり直しをしようと問題とにらめっこをしているところだった。教えてあげようか、と私の前に座った男が、教えてもらう予定だった紙を突然握りつぶしたのだから、これはもう呆然とするしかない。

「あの・・・・あたし、それ、教えてもらいたかったんだけど」
「こんなの教科書見ればわかるだろ」
「わからないから追試なんです」
「わからない?」
「そうです。馬鹿だから」
「馬鹿っていうのは勉強ができないやつに使われる形容詞じゃない」

 握りつぶした私のテストをそのままゴミ箱に投げ捨てて幸村は、ぐいと私の腕をひっぱった。その力はとても強くて、もちろん払うことなどできるはずもない。突き刺さるように感じる視線と、それからシャツの上から伝わる彼の熱に、私は顔をあげることができずに俯いたまま。



 わあっ、という歓声が、扉を隔てた向こう側から流れ込んでくる。続いて「よっしゃー!!」という大きな声、おそらくは切原の。分厚いようで実は外の声が筒抜ける部室の壁に、幸村は背を預けてとんとんと指で壁を叩く。



「馬鹿は嫌いだ」



 本日二度目となる台詞を幸村は吐いた。いい加減面倒になってきて、私は彼に視線をこれっぽっちも遣らないで、冷たい部室の中で息を殺していた。



 幸村が苛立つ理由はわかっている。



 それでも、私から言ってなんかやらない。



 それこそ、幸村は馬鹿ではないから、私が気づいていることくらい、気づいているはずだ。性質が悪い、本当に。



「泣けば?」



 しばらく幸村が壁を指で叩く音だけが響いて、それからぽつりとそんな言葉が降ってきた。幸村に握られた左腕だけが熱くて、冬の指先みたいに感覚がなくなっていた私の脳が、それを理解するまで、少しだけ時間が掛かった。なけば?泣けば?繰り返し繰り返し頭の中で反芻してどうにかその言葉を飲み込むと、あまりに驚いて、「泣けば?」と口に出していた。

「そんな世界が終わるみたいな顔されても、迷惑」

 幸村の視線は相変わらず窓の外に向けられて、こちらから窺うことはできない。ただ、全身から伝わる雰囲気はいつもと変わらなくて、さすがに真意を量りかねた。全国常連校のテニス部部長にしては華奢なその体つきをなんとなく眺めていると、振り返ったわけでもないのに、「何見てんの」と指摘を受ける。別にと返した私の言葉には何も返してくれなかった。



「好きなんだろ、真田が」



 気づかれているとは思っていた。仁王が気づいたくらいだから、この男が気づかないわけがないと思っていた。それでも面と向かって言われたのは初めてで、さすがに全身が強張ってしまう。仁王に言われた時とは違う緊張。腕から伝わる熱が、じわり、私の中に溶けていく。

「・・・・俺だけじゃない、皆、心配してるよ」

 私の緊張を読み取ったのか、幸村が幾分優しい口調で言った。





 真田に、彼女が出来た。

 それはそれは可愛い女テニの1年生で、誰からも愛されるような女の子だ。小さくて壊れそうな体で男テニの部室までやってきて、皆の前で真田にはっきりと告白した、「好きです、私とお付き合いしてくれませんか」と。あたふたする真田を見ていられなくなって、思わず「ほら、どうなの付き合うの付き合わないの」と聞いてみたら、まさかの肯定。驚いて多分私はとんでもない顔をした。自分では覚えていないけれど、後から幸村にそう言われた。



 私は1年生の頃から真田が好きだった。どこが、とか、どうして、とか聞かれても困る。マネージャーとして男テニに入部して、それから1ヶ月もしないうちに恋に落ちた。文字通り、落ちた。すとん、と、それはもうストレートに。男子にも引けを取らないくらいの体力と精神力で男テニのマネージャーとして走り回る私なんかが彼の眼中に入るわけもなく。というか、彼が恋愛をするkところなんて想像ができなくて、だからそれなら別に何もなくていいやと高を括っていたことが、敗因。



 嘘。



 臆病で、言えなかったことが、敗因。



 仁王と幸村と、それから柳が気づいているなとは思っていたけれど、相談したことなんてなかったし、しようと思ったことさえなかった。だから1週間前に真田に彼女ができたときだって、一緒になっておめでとうとか言っちゃったし、切原とはやし立てたりなんかもした。





 ガラガラと、音を立てて何かが壊れていくのを感じていた。





「お前を馬鹿だと思うけど」

 幸村が、こちらを向いたのを感じた。それでもまだ顔はあげられない。

「真田はもっと馬鹿だと思うよ、

 お前を選ばなかった、と続く。泣く、と思ったけれど、意外にも涙はなかなか出てこない。目の奥が熱くなるのを感じたけれど、どうしてか一向に涙は現れなかった。



 留めている、無意識に。



 この男の前でだけは泣いてはならない。





「だから、俺にしとけばよかったのに」





 馬鹿だよお前も俺も、と呟いた幸村の小さな声は、放課後の喧騒に紛れて消えた。










 









END
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幸村→ヒロイン→真田

10年03月10日

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