ぐしゃり。
彼は、美しく整った顔を歪ませた。ただ一点、同じ場所を、いつか教室で蝶の死骸が発見された時と同じように、ぐしゃりと顔を歪ませる。見たくないものを見たとでも言わんばかりの表情で、露骨な嫌悪感を隠そうともせずに。
ああ、出てきてしまった。
私は自分の心が急激に冷えていくのを感じた。
人間には必ず、所謂「裏」と呼ばれるものが存在する。「底」と言っても、あるいは「本性」と言っても構わない。私個人の意見としては、裏、という表現が一番しっくり来るので、もう大分前からこれを使っている。
誰もが持ち得る、心の奥。
基本的には、他人に見せてしまえば、相手を不快にさせる確率の高い感情。
だからといって人間が皆、本当は薄汚い生き物なのだ、とかそんなことを言うつもりは毛頭ない。社会に適応して生きて行くにあたって、それは押さえなければならない感情であるし、抑えなければならない感覚であるからだ。
ただしそれは表に出てこないよう、日々私たちがほとんど無意識下で――ときたま大変意識的に――行っているだけであって、存在しないものではない。従って、ふいに、そう、例えば読んでいた文庫本から顔を上げたその一瞬などの些細な時に、私たちがかけた鎖からするりと抜け出して、姿を表す時がある。
それがひどく美しく見えるのが、幸村精市だった。
凛としたいつもの彼をぶち壊すからなのかなんなのか、実際のところはよくわからない。
いつもは人形のように整えられた美しさで全てを覆い尽くしている彼の人間らしさが、見られるからなのだと私は思っている。
今もまた、そんな彼が目の前にいる。
これでもかという程にぐしゃりと顔を歪ませて。
否、実際は本当に些細な表情変化なのだけれど。
いつもが一定であるからなのか、大多数の人間が見落としてしまうであろうその変化に、気付いた者は驚くのだ。
私もその一人だった。
彼の目線の先には、彼と同じ部活の後輩たちがひしめいている。
彼はそのうちのたった一人の足元を、食い入るようにじっと見つめていて。
少年の足元には無造作に放り出されたテニスコートのネットが横たわっている。きっと少年本人だって気付いていないのだろう。踵で、ほんの数センチ、踏み付けている。
幸村は、どうやらそれが気に食わないらしかった。
彼の武勇伝は様々で、テニスボールをポールに叩きつけて割ったとか、テニスラケットのガットをやぶいただとか、それこそテニスコートのネットを踏み躙ったとか、そういうのを聞いている。そしてそれは、おそらく真実であることを私は知っている。あの男はそういう人間だ。
誰からも羨ましがられるテニスの才能を持っていながら、しかし彼はテニスを愛してはいない。自分がテニスに愛されていると思っているのだ。この違いは些細なようで、決定的な、気が遠くなるような違い。
だから自分が何をしようと構わないわけで。
だから他人が大切に扱わなければ怒るわけで。
だって彼とその他は違うのだから。
自分勝手で傲慢で最悪で最低でだけどそれを普段はおくびにも出さない人。
「何見てんの」
バレていないと思っていたのに、彼はしっかりと私に気付いていたらしい。
「・・・・幸村こそ何よ。不機嫌そうな顔しちゃってさ」
「してない」
「してるって」
「してないよ。俺は普段からこういう顔だからね。もし不機嫌そうに見えるっていうのなら、が普段俺のことをそういう風に見てるってことだろ?」
「なんでそう卑屈に捉えるのかなぁ」
私を振り返った幸村は、確かに先程とは全然違った、いつものすました顔だった。戻ってしまった彼に対して、私に名残惜しさと安堵感が一緒くたになってやってくる。ああいう状態の彼を見ているのはとても好きなのだけれど、しかしあんな彼と向かい合う勇気はとてもじゃないが持ち合わせていない。
「部活、もう終わり?」
「うん、今から部室で着替えるところ」
「ふぅん。真田と一緒じゃないんだ」
「別にいつも一緒にいるわけじゃないんだけど」
「私が見る時はいつも一緒だったよ」
それは貴重だな、幸村はそう言って笑った。
気が付けばさっきまでいた一年生はとっくにいなくなっていて、ぽつんと私たちだけが残されていた。
幸村は既に部室へ向かう気持ちらしくて、私のことなんかどうでもいいらしい。首にかけていたヘアバンドを無造作に取ると、持っていた鞄に突っ込んだ。
下校を促す間抜けな音楽が流れる。帰らなくちゃ、私が呟くと、幸村もゆっくりとそれに同意した。
結局のところ、幸村の世界は、幸村とほんの一握りの人たちとその他大勢に分類されていて。
もちろん言うまでもなく私もその他大勢のうちの一人なのだけれど。
彼を満たすことができるのは、ほんの一握りの人たちだけ。
だから私は、幸村の裏に、ひかれたのだ。
私は幸村の見せるびっくりするくらい優しい笑顔とか、泣きそうなほどに何かに耐える顔とか、そんなものを引き出せる力はない。
だけど違う彼を見たいという欲求は止まらない。
恋なんていう、そんな生易しいものじゃない。
裏でもいい。
醜くてもいい。
あいつの根底が見てみたい。
多分、これは恋心に最も近くて、そして最も遠いもの。
私の 裏 。