※幸村が病んでるので苦手な方は回れ右をお願いします。
真っ赤だった。
開けた視界に入ってきた、広がる赤。血の海が目の前に広がっているのではないかと思えるほどの、その単一色に、は息を飲んだ。ひゅ、喉の奥が変な声をあげたけれど、気付かないフリをして、ゆっくりと息を吐き出す。
今度は改めて、じっくりと、その芸術とも言える赤を見つめた。その赤が夕日だと言うのを認めるのに、少しだけ時間が必要だった。一面の赤は全て、西側から入り込んでくる光のせい。とにかく全てを、まるで支配するかのように赤に染め上げている。
は、2〜3分そこに魅せられたように立ち尽くし、それから緩慢な動きで首を右へと移した。視界に捉えたそれは、本当に赤に沈んでいるように見える。そしてその表現はあながち間違いではないようだった。
何故、血の海のように見えたのか。
はそこで初めて気が付いた。
紙だ。
紙、紙、紙。
無数に散らばる真っ白な紙が床のタイルを埋め尽くすように散乱している。そしてその量は、とても正常だとは思えなかった。市販で売っている家庭用のコピー用紙一束なんてものではない。まるで波のようにゆらゆらと揺れだしそうなのだ。
真っ白なはずの紙が全て真っ赤に染まって部屋を埋め尽くす様は、一種の怯えさえも感じた。
その紙を、ぐしゃりと踏み潰して、先程視界に捉えたものへと近づいていく。埋もれいて半分も見えない。
「幸村」
小さく呼ぶと、赤と同化していたそれが、ゆっくりと覚醒した。
の良く知る幸村精市だった。
「―――?久しぶり」
さも当たり前かのように片手をあげてそういう幸村に、は怪訝そうに眉根を寄せた。
「今日会ったでしょ。あんた、何してんの」
怒りを含んだかのような刺のある口調では言う。幸村はさして気にした風でもなくシニカルな笑みを浮かべた。そして興味がそがれたかのようにまた目蓋をゆっくりと閉じた。
「この紙、何」
自身で踏み潰した紙になげやりに視線をやりながらは言った。ちらりと一瞥しただけで、またすぐに視線を赤色に染まった男へと戻す。
「見ればわかるよ」
相変わらずに凛と響くその声に、は少しだけ安堵しながら、言われた通りに一枚拾い上げてそれを見た。真っ白だと思っていたその紙は、何かの文章の裏側だった。
テニス部の公式記録だった。
「・・・どうしたの、これ」
「今日、冊子にして配る予定だったんだけど」
「なんで配らないの」
そうが聞いても、幸村は目を閉じて眠っているかのように何も答えなかった。
はもう一度視線を床へと落とす。やはり先程が見た時に思ったように、散らばる紙は白紙に見えた。全てが裏返しになっているからだった。
ぞっとする。
ばらまいたのなら、全てが裏向きになどなるはずがない。つまり、意図的に、この男が、床を埋め尽くすほどの紙を裏返して散乱させたことになる。いつも教室で、ただ一人圧倒的な存在感を誇って微笑む幸村精市など、ここにはかけらも残っていなかった。
裏側の彼が、全て曝け出されている。
――来週から、入院するんだ。
つまらないことでも呟くようにそう彼が言ったのは、この間の水曜日だった。と幸村精市は取り立てて仲が良いわけではない。たまたま今学期隣の席になっただけだった。我関せずと、いつもぼんやりと空ばかり見上げていると、一定の距離を常に保ち、他人を踏み込ませない幸村は、どこかしら似ていて、引かれていたのかもしれない。特に話すわけでもなく、二人並んで休み時間に同じ空間にいると、しんとした空気に包まれて、何故か異空間を作り出しているかのようだった。
あの時も、いつもと同じようにがぼんやりと校庭を見つめていた時だった。
ぽつり、と隣から届けられた言葉に、はゆっくりと振り返った。は特に何も感じなかったために、にゅういん、と小さく繰り返した。
――うん。
幸村はそう返事をして、そしてそれっきりだった。
「どうして、」
はやっと幸村の側まで歩いていった。さらりと幸村の前髪を彼女が梳くと、彼はそこで再び覚醒した。開かれた瞳の奥はいつもと変わらない。眼だけはいつも幸村の内側が現れていたのかと、は妙になっとくした。
「って、何かに必死になったこと、ある?」
幸村はの言葉を待たずにそう言った。ゆるゆると首を振る彼女に、彼は笑う。
「俺もない」
真っ赤な夕日が照らす教室は、何か幻覚でも見ているような気持ちを起こさせた。は大して興味がなさそうに、赤く染まった幸村の手に、自分の手を重ねながら言う。
「テニスは?」
別に、そう答えた幸村には少しの迷いもなかった。それが本当だとは思えなかったが、かと言って嘘だとも思えなかった。幸村にとってのテニスはそんな一言で片付くものではなくて、根底のどろどろした部分に絡まっているのだろうなと、はそんなことを漠然と思う。
眼を覆うように手をかざすと、幸村はそっと目を閉じた。少し頭冷やせば、のその声に、返事はなかったけれど、代わりに重ねていた手がするりと抜けた。
「長いね」
の声がぽつりと落ちる。
「あたしにとって、幸村がいない期間はほんの少しなのに、」
・・・幸村が、そこまで続けては口をつぐんだ。
空間を染める赤は暖色であるはずなのにひどく無機質に二人を見せている。長いね、がもう一度そう呟いたのと、太陽が地平線にかかったのは、ほぼ同時だった。
紙が一枚舞い上がる。
関東大会決勝、スケジュール表に書き込まれたその文字は、真っ赤なペンで塗り潰されていた。