始まりの音


 先に殻を破ったのは、彼だった。



 幸村くんに仁王くんとダブルスを組むように言われてから1週間近く経とうとしていた。未だに数えるほどしか練習などしたことがなく、正直な話このままでは新人戦の団体戦でチームの勝利に貢献できるとはとてもじゃないが思えなかった。一応そのことは幸村くんに知らせておいてが、聞いた彼は「別にいいよ県大まではお前らが負けても他が全勝できるから」とさらりと言った。頼もしい限りではあるけれど、それを理由に私たちのダブルスを無しにしてくれるのではないかと密かに期待していたので、複雑な心境だ。
 しかし実際のところ、仁王くんとのダブルスは思っていたよりも遥かにやりやすかった。性格云々の問題はともかく、プレースタイルや技量はそれなりに似通っているわけだし、当然の結果と言えばそうなのかもしれない。それでもやはり、多少のやりにくさを感じてしまうのは、入部当初から彼に対して抱いている苦手意識のせいなのかもしれなかった。

 第一印象は、最悪だった。
 特に何かしたわけでもされたわけでもなかったが、一体何に対してあんなに嫌悪感を抱いたのか、とにかく彼とは関わらないでおこうと思ったのを覚えている。向こうからも特に接触が無かったことを考えると、おそらくは仁王くんも同じことを思っていたのではないか。幸い、立海のテニス部はかなりの部員数を誇っているために、仁王くんと接触せずとも何の問題も無しに時は流れていった。
 だがしかし、彼とはなるべく接触しないようにと思っていても、そう上手くは行くはずもなく。保っていた他人に近い均衡が崩れ始めたのは、意外にも早く、一年の晩秋だった。新人戦も終わり、これから冬期練習に入るという時に、メニューを組み立てる関係で、一年は全員がレベル分けされた。その際に仁王くんとは同じグループにされたのだった。決して交わることがないと思っていた彼との思わぬ接触に驚いたものの、それでもやはり特に関わることなく一定の距離を保ち続けていた。自然と、ではない、故意的に。
 これからもそうしていくつもりだった。例えば同じクラスになったとしてもそれでやっていけると思っていた。

 けれど。



 ダブルスは、そうはいかない。



 ベタベタに馴れ合うべきだとは思わないけれど、さすがに相方との距離を、どんな形であるにせよ縮める必要はあると感じていた。それでもあまりにも今まで避けて通ってきた人であるが故にそう簡単には近づけない。近づきたいとも思わない。
 近づけば近づくほど嫌悪感を感じることは解っていたからなおさらだ。なんとなく言われるがままにダブルスを組んでしまったけれど、このままの状況が良いとは思えなかった。

 部員たちも、気にしている。

 ならばいっそ思いっきり喧嘩でもして修復が不可能なくらいの関係になってしまえば、幸村くんも諦めてくれるだろうか。

 在り得ない。

 勝つために私たちを組ませたと言った時の彼の目は随分と真剣で、冗談や妥協で決めたことではないのだと改めて思い知らされた。彼が紡ぐ言葉に、意味のないものはない、と思っている。嘘か真かはまた別として、どうでも良いようなことを吐く男ではないことくらい、さすがにもう知っている。決して全てを理解できたわけではないが、それだけは学んだつもりだった。そういう彼だからこそ、部長として付いていくことを決めたのだ。










 朝の不気味なほど静かな廊下に足音を響かせながら歩いていく。一度、幸村くんを探すために一年生の頃に入ったことのある、中庭のさらに奥にある小さな池を目指してただひたすらに進んでいく。渡り廊下を通り過ぎたところで、手に持っていた外履きと上履きを交換して、朝露の光る芝を踏みしめた。大きな木を背もたれにして腰を降ろす。別にこの場所がお気に入りというわけではない。ただなんとなく、朝ここを思い出して行ってみようと思い立っただけだった。
 未だに夏の余韻を残す生暖かい風にあたりながら空を見上げる。と、ほぼ同時に、ふと影が降りてきて、私は反射的に振り返った。



「何しとるん?」



 仁王くんが、立っていた。

 まさか彼が現れるとは露ほども思っていなかったためにすぐに返事を返すことはできずに言葉に詰まる。しばらくしてからやっと「特に意味はないです、今朝起きたらたまたまここを思い出してなんとなく来てしまったんです」と答えた。

「ふうん、ここ、俺とブン太の昼寝場所」

 仁王くんは私の話には対して興味がなさそうに、視線はどこか他に遣りながらそう言った。幸村も知っとる、仁王くんは、眩しそうに目を細めた。座ってええ?と隣を指差して尋ねられ、私はどうぞとだけ答え、視線を逸らす。
 考えてみれば、部活以外でこうして話すのは初めてだった。特に話すことなどないだろうに、何故今このような状況になっているんだろうと理不尽な思いだ。ちらりと横に座る彼を見ると、いつもと変わらない、何も考えていないような顔をしていた。驚くほど、普段と変わらない彼の様子に、意味のわからない怒りが込み上げてきそうになる。

「明日の放課後、予定ある?」

 ふいに、彼はそう言って振り向いた。朝の日の光を浴びて色の抜かれた銀髪が透けて見える。その毛先に目を向けながら明日の予定を考えた。

「特には。練習が急遽無くなってしまいましたから、自主練でもやろうかと思っていたくらいです」
「奇遇じゃな、俺もそう思っとった」
「そうですか」

 また沈黙。

 それでも耐え難いだろうと思っていた彼とのテニス以外の会話も、思っていたほどではなく、ただ無意味に時だけが過ぎていく。しばらくの間ただひたすらにその場で座り込んでいた私たちは、登校してきた生徒のざわめきが耳に届くまで、お互い微動だにしなかった。
 普段、他の友人といる時にはある程度気を使って何かを話した方が良いだろうかと考えたりすることもあるが、相手が仁王くんともなればそれもない。
 心地良いとは言えないけれど疎ましく思うほどではない空間だった。
 キーンコーンと予鈴が鳴る。その鐘を全て聞き終えてから、私は立ち上がった。仁王くんは立ち上がらない。

「それでは」

 たった一言それだけ言って立ち去ろうとすると、ちょい待ち、とくぐもった声が聞こえてきて立ち止まる。彼は俯いた状態で、どんな表情をしているのか、何を考えているのかまったくわからなかった。

「何か?」

 声をかけてもその体勢は変わることがなく、返事も返ってこないので、そのまま立ち去ろうとすると、また呼び止められる。何ですかと先ほどよりも語尾を強めて言えば、やっと「明日」と彼が言った。

「明日、がどうかしたんですか」

 自分でも驚くほどの冷たい声が響く。本当はこんな声なのかもしれないと考えて、つくづく彼は縁がないなと思った。だってこうして私の本質を垣間見ることになっているのだから。

「明日、放課後、話さんか」

 意外な言葉が彼の口から紡がれた。しっかりと顔をあげて、私を射抜くように見ている。



「このままじゃ、まずいと思っとるのは、お前さんもじゃろう」


 
 やられた、と思った。

 思っていたことは確かだけれど、それを彼に言う気などさらさらなかった私は、先に踏み込んできた彼に、負けたような気分になる。それでも私から言うことなどなかったに違いないのだから、むしろ感謝をしなければならないのかもしれない。
 きちんと、真正面から彼を見据える。今まで見たどの表情よりも真剣で、ああ多分もう逃げられないなと悟った。
 肯定の返事も否定の返事も返さずに、私は彼に向かって少しだけ頭を下げるとその場を後にした。





 動き出している。

 見えないけれど、近くで何かが。



 そっと、始まりを告げた。





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以上、仁王柳生ペアができあがるまでのお話でしたー。2009年来ちゃん誕用。
元々縦書きで書いたものなので所々違和感。仕方ない。
来ちゃん、私の我侭で異常に長くなってしまったこの作品を受け取ってくれてありがとう。これからも28好きを貫いてね!

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