暦の上では秋になった。
 十五夜まで残すところ数日、しかしどういうわけか最高気温は一向に33度を切らない。たまに思い出したように秋の夕べが訪れたりするのだけれど、かなしいかな、目が覚めると元気よく蝉が鳴いている。さすがに数は減ったようだけれど、一匹一匹の威力は衰えていない。

 風の通らない空気の篭った部屋で、ゆっくりと身体を持ち上げる。ぎしぎしと体中が軋んだように感じるのは、きっと扇風機を付けたまま眠ってしまったからだ。は濁った思考回路のまま部屋を出ると、顔を洗うために洗面所へ向かった。

「お、早いな、生徒会か?」
「・・・・ん、ぶんかさい、ちかい」
「なるほど、頑張れよ」

 さっぱりとした表情の父とすれ違っても、頭は冴えてくれない。蛇口を捻って水を出し、それをばしゃりと顔に打ち付ける。
 途端、クリアになる思考回路。
 霧散していた記憶が一気に元の形へと戻っていく。

 高校一年の、夏が終わった。










「あれ、ちゃんだ」

 最寄駅から校門までの道のりを重たい足を引きずるように歩いていると、後ろから声をかけられた。決して高くはないけれど、女の子らしい雰囲気の独特な声の持ち主は、中学からの友人だった。頭だけ振り返ってみると、元気よく走ってくるのが見える。

「おはよ」
「おはよー、生徒会?」

 文化祭の準備で忙しい人が多いからだろう、普段この時間はそんなに生徒が多いわけではないはずの通学路には、等間隔で同じ制服を着た生徒がいる。もそのうちの一人で、いつもよりも1時間以上も早い登校に、違和感を覚えている。時間が違うだけで、こんなにも別空間に見えるのかと驚いた。

「うん、何だかよくわからないけど、やること多いみたい」
「わからないのかよ!」
「だって生徒会なんて実行委員の雑用みたいなもんだから。工藤ちゃんは朝練?」
「そだよー。新人戦近いからね、頑張らないと!」

 三年生が引退して試合のスタメン入りを果たしたらしい、拳をぐっと握り締めるとを振り返って笑った。二人の横を通り過ぎた女の子が、おはようと手を振る。

「部活の友だち?」
「そう、可愛いでしょ?モテモテなんですよ、男子に」
「確かに、あの顔に生まれていればきっと人生楽しいね」
「なーに言ってんだか!ちゃんには郭くんがいるでしょ?あんな良い男捕まえといて楽しくないとは言わせないよー?」

 最近どうなの、と肘で小突いてくる友人を曖昧に誤魔化しながら、は歩く速度を速めた。上手くいってないわけではないし、彼は自分を大切にしてくれているんだということはわかるけれど、最近どうも、もやもやする。



 出会った時のように、きらきらして見えた世界から、色が少しだけ消えた。



「・・・・何か悩んでんの?」
「うーん・・・・」
「校門まででよければ今相談に乗りますよ。がっつりがよければ、文化祭終わってからの放課後になりますがいかがでしょうか」

 じゃあ今で、とが言うと、気の良い友人は真顔で頷いた。
 じっとりと汗ばむ背中が気持ち悪い。暑さと、早い時間が思考を溶かす。回転がどうも悪くなってきたそれの速度を無理矢理上げた。

「工藤ちゃんはさ、どれくらいの頻度で彼氏に会いたいと思う?」
「頻度?んー、週1かなあ。同じ学校なんだったらもっと会いたいかも。でも、これ、二人には当てはまらないんじゃない?ちゃんも郭くんもそういうの、あんまり求めるタイプじゃないでしょ?」

 さすがは中学からの付き合いというべきか、きちんとこちらの立場を理解してくれている。それは間違いではないし、自身もそうだと思っていたことだ。



 しかし、その前提を、覆さなければならない。



 けれど、いざ言おうとする口をなかなか開けなかった。
 上手くまとめられないこともあるけれど、認めてしまうことが恐ろしかった。自分の中に渦巻くように長いこと居座る黒い感情を、吐露することに対する、躊躇い。



 郭に出会って、世界は鮮やかに色づいた。



 些細なことさえもまるでドラマみたいに劇的なことに変化して、嫌だと思っていたことは消えていった。
 今までだって楽しかったけれど、それとは比較できないくらい、世界が変わったのだ。



 きらきら、きらきら、世界が光る。



 桜の花が舞う季節も、
 真っ青な青空と太陽が似合う季節も、
 木々が赤に衣替えをする季節も、
 白い雪が世界を覆う季節も、





 全部が、きらきら輝いていた。





 楽しかった、嬉しかった、素晴らしかった、彼が世界に存在する、ただそれだけで。





 それが、そういうわけにはいかなくなったのは何故だろう。
 貪欲になる自分の感情に対するブレーキのかけ方がわからなくて、けれどもその感情を上手く吐き出す排気管もわからなくて。それでもアクセルだけは、確実に全開へと近づいていく恐怖。
 片想いは、楽しかったなんて、そんな淋しいことを思った日もあって、泣いた。
 いつも涙をどこかへ消し去ってくれる人は、今回ばかりはそうしてくれない。贅沢で傲慢な悩みだとわかっていたから、誰に告げることもできなかった。膿んでしまった気持ちは、人に見せることなど、できない。



「・・・・ちゃん、大丈夫?」

 ぐるん、と反転するような感覚が急激に身体を襲い、はその場に蹲る。慌てた友人が何度も背中をさすりながら、大丈夫、と呟いた。混みあがってくる吐き気をどうにか呑みこんで、立ち上がる。

ちゃん、保健室行った方がいいよ、顔色悪い。寝てる?」
「・・・・昨日、生徒会の仕事、遅くまでやってたから、実はあんまり寝てない」
「寝不足だよ、それで、たぶん思考まで落ちてる。寝て、元気になって、そうしたらもう一度、考えよう。ね?」

 だけど、と突然腕を掴まれて、は驚き手にしていた手提げ鞄を思わず落としてしまった。

「だけどね、郭くんに、相談した方がいいよ。何考えてるのか知らないけど、きっと郭くんならきちんと受け止めてくれるから。嫌われる、とかそういうの考えちゃだめだよ、そのまま放っておいたら、きっとだめになる」

 あたしの知ってる郭くんは、素敵な人だったから、きっと大丈夫だよ。

 そう言って友人はの頭を何度か撫で、最後に少しだけ力を込めて背中を叩いた。

 鞄の中で、携帯電話が振動し、メールの新着を告げる。そっとファスナーを開けて確認すると、差出人の名前は、「郭英士」だった。










 さらさらと髪を攫っていく風は、昼間の暑さなど嘘のように冷たい。
 は、昔よりも少し小さく感じる公園のブランコに揺られていた。ギイ、ギイ、と鎖が変な音を立てる。ハイソックスとスカートの間から覗く足が、風に吹かれて少しだけ肌寒い。街はすっかり夜の顔になっていて、つんとすましたままだった。夜、人は淋しくなるというけれど、それはきっと昼間のあの温かい街が、消えてしまうからなのだろう。

「ごめん、待たせたね」

 じゃり、と音がして、が顔をあげると、肩で息をした郭が公園の入り口に立っていた。肩から斜めにかけられているのはエナメルバックで、どうやら選抜かユースの帰りのようだった。駅からここまで、走ってきてくれたらしい。ゆっくりとした足取りでブランコまでやってきて、その間に呼吸は整えられていた。
 そういう気遣いに、はいつも感謝を言えない。

「気持ち良いね、今日。思わず走りたくなる。気温下がると、走りたくならない?」

 タイミングを、いつも逃してしまうからだ。もしかしたら意図的に郭が言えないようにしているのかもしれないけれど、真意はわからない。そうかなあ、と返事をするのが精一杯だった。

 郭は、ブランコから少し離れたところに鞄を下ろすと、の隣のブランコに腰を降ろした。もうほとんど漕いでいないとは反対に、地面を一度思い切り蹴ると、軽やかにスピードをあげて高く上がっていく。

「懐かしい、好きだったな、ブランコ」
「そうなの?なんていうか、意外」
「そう?従兄弟が好きで、毎日近くの公園に遊びにいってたよ」
「従兄弟?・・・・ああ、ユン、だ」
「当たり」

 これ以上は上がれない、というところまで一気に漕いで、そこで郭は足を振るのを止めた。しばらく高いところを行ったり来たりを繰り返す。は、漕ぐ気にはなれなくて、一番下からじっと彼を見つめていた。ギイギイ、と不規則になる鎖が、少しだけうるさい。
 ゆっくりと降りてきた郭が、完全に停止するまで、二人とも無言だった。



 止まる、振り返って、



、やっと話してくれるんだね」



 郭が、笑った。



 彼の笑顔で、息が詰まる。呼吸の仕方さえも忘れそうになる、というのはこういうことを言うのだろうとは妙に冷静に考えた。うん、と小さく頷くと、郭からそっと視線を外した。

「色々、考えたんだけど、」

 ぽつりぽつりと呟くと、自分の中にある何かが少しだけ崩れたような気がした。それは不安を駆り立てるようなものではなく、むしろ軽くなっていくような感覚。

「どこから話せばいいかわかんないし、頭こんがらがるし、っていうかイライラするし、イライラさせるだろうし、ってことでだね、一言にまとめました」
「まとめすぎ」
「いいの!それで、ね、英士!」

 ぐるん、と勢いよく振り向くと、驚いたらしい郭が、少しだけ上半身を逸らす。そんなことはお構いなしに、両腕をがしりと掴む。少しだけ、震えていることに、気づく。けれど、気づかないフリをする。





「英士が、足りないです」





 沈黙、後、

「・・・・っ!っはは!あはは!何、それ!」

 爆笑。

 滅多に声をあげて笑うところなど見たことがないは、しばらく驚いて呆然と見てしまった。小さく微笑む彼は、驚くほど美しいけれど、感情を露にして笑う彼も、可愛らしかった。

 ではなく。

「・・・・ひど!ひどくない!?すごく悩んで悩んだ末に一番しっくりくる言葉だと思ったのに!」
「だっ・・・、深刻そうな、顔、で、何言うかと・・・はははっ」
「・・・・勇気を振り絞ったのに」
「うん、そうだね・・・っ、うん、それ、俺はよく言ってるけど」
「違う!そういうんじゃなくて、」
「なに?」





「・・・・・・・・・もっと、会いたい」





 笑い声も止んで、再び静寂が訪れる。さすがに気まずくなって、は慌てて手を離すと、ぱ、と顔を逸らして俯いた。先ほどまで肌寒いと感じていたはずなのに、今は妙に身体が熱く、掌には汗がにじんでいる。緊張、なのかどうなのか、にはよくわからない。

「忙しいのはわかってる。最近はより忙しくなったのも知ってるし、疲れてるのも知ってる。だけど、会いたい、会いたいです。ごめんね、今まで大丈夫だったものが、だめになった。困るよね、ごめんなさい。それでも、それでも会いた」

 言いかけた言葉は、突然阻まれた。

 ぎゅう、と背中に腕が回る。俯いていて、いつ郭が目の前にやってきたのかわからなかったは、突然の展開に驚いた。どくどくと心臓が、波打つ音が鼓膜を破ってしまうのではないかと思うほどに響く。





「ありがとう」





 まったく予期しない言葉が、耳元に降ってくる。ただでさえ緊急警報を鳴らしてパニックになっている思考回路は上手く言葉を繋ぎ合わせてくれない。自分は謝ってばかりだったけれど、彼の口から紡がれた言葉はそれではなかった。何を言えば良いのかわからなくて、答える代わりに、目頭を肩に押し付けた。

「困るわけないでしょ、嬉しいよ、だからありがとう」
「・・・・うん」
「会いたくなったら、呼んでくれればすぐに行くから。確かに忙しいし、もしかしたらそのまますぐに行くことは難しいかもしれないけど、」

 目の奥が熱くなる。両腕を、郭の背中に回して、ワイシャツをぎゅっと握った。その様子を見ていたかのように、同じタイミングで強い風が吹き抜ける。





「俺にできる限りの最速で、会いに行くよ」





 もう随分と昔に、郭のことを好きになった。多分、これ以上ないだろうと思うくらい、好きだと思ったけれど、



「・・・・好きです」



 不安になって一度落ち込んで悲しくて淋しくて泣いて、それでも。





 もう一度、君に恋しました。








まりそういうことでした






   

笛!再熱委員会さまへ
【03ネバーランドに恋焦がれ】→【04つまりそういうことでした】


遅くなってしまいましたが、提出致します。
どさくさに紛れて一度書いたことのある子の続きものです。前の話を読んでいなくても問題ないようにしたつもりなのですが、どうでしたでしょうか。
英士と付き合ってる子は、きっと一度不安になる時期が来るのではないかな、という勝手な設定。だけどもう一度戻ってくるのです。
そういう意味で「再」「熱」というテーマに沿って書かせていただきました。
これからもずっと笛!を愛しています。

主催の優咲さんに、たくさんの感謝を込めて。

10/10/12 HP再録


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