露が明けて猛威を振るい始めた太陽の光に顔をしかめながら、は玄関を出た。昨日までは毎日泣きべそをかいていた空が嘘のように楽しそうである。青空にぽっかりと一つ浮かんだ大きな雲は、真っ白な綿菓子のようで、雨を降らせる気配はない。まだ、家を出てから数メートルしか歩いていないというのに、背中にじんわりと汗がやってきた。母に頼まれた買い物リストの中にはアイスクリームも入っているのだけれど、どう考えても戻ってくる前に溶け出しそうだ。







 大通りへの道を曲がったところで声をかけられ、その声に勢いよく振り返る。
 落ち着いた、けれど響く声。



「英士!」



 自転車を転がしながら近づいてきたのは、自分の恋人だった。進んでいた足を止め、彼を待つ。ここ一月以上の間、なにかと忙しくてきちんと会うことが出来なかったから、姿を見たのは、実に一ヵ月半ぶりだった。久しぶり、と言おうとするけれど、何故か喉につかえて出て来ない。そうこうしているうちに郭が「元気にしてた?」と側までやってきた。こくりと頷いて見せると、ふ、と彼が笑う。

「買い物?」
「そう。夕飯の買い出し。アイスに釣られちゃったんだけど、一歩家を出て後悔した」
「梅雨、明けたね」
「うん。毎日雨なのも嫌だけど、こう、いきなりカンカンに照り付けられるのも身体がついていかないよ。英士は、夏好きなんだっけ?」
「嫌いじゃないよ」

 クールビューティーとかつて呼ばれていた彼の顔は、この炎天下の中でもしげだった。さすがに汗をかいていないわけではないのだけれど、それでもそう感じるのだから不思議である。は彼の隣に並んだ。

「ユースの帰り?」
「今日は選抜」

 郭のサッカー技術は、素人であるから見ても優れたもので、従って少しそれを誇らしく思っているのだけれど、彼が所属する選抜やらユースやらの種類は未だに覚えられていない。すごいのだ、ということだけはわかっているのだけれど、今までに運動団体に所属したことのないには、漠然とした形でしか判断できないのである。

 の目的地であるスーパーは、郭の家の側にある。買い物なんて、今までは進んで引き受けたことなどないけれど、彼と付き合い始めてからは、ついつい承諾してしまうようになった。会える確率なんてほんの一握りしかないのだけれど、それでもやはり期待してしまう。大体は会えずじまいで、会えたとしても、家に入る彼の姿を見るだけだったり、買い物帰りであまり長く話せないことが多い。今日は、まだまだスーパーまでの道のり全部、彼の横を歩けることが嬉しかった。

 久々に会えたことに、自然と頬が緩む。

「そういえば、結局勧誘されてた部活には入ったの?」
「勧誘・・・ああ、ハンド部?ううん、入らなかった。やっぱり生徒会やりたいし」
「そう。生徒会って、そろそろ立候補の時期なんじゃない?」
「うん、来週演説会だよ。今年は何故か立候補者が多くてさ、投票で全部決まるから、今からすごく憂鬱」

 応援に行けたらいいんだけど、と郭が真顔で言うから、は思わず笑ってしまった。
 来てくれてもいいよ?肩を震わせたまま言うと、今度はにっこりと笑みを浮かべて「そうすればは怖いものなしだからね」と郭は言った。

「あなたさえいれば怖くない、ってこと?」
「違うの?俺はそうなんだけど」
「・・・そうですけども」

 ふいに頬が赤くなっていく感覚に捉われて、はふいと横に顔を逸らす。今度は郭が笑った。





 一斉に鳴き始めた蝉の声が、世界の境界を曖昧にする。日常生活を営んでいても、突然ここはリアルではないのではないかと、思えてくる。
 夏の暑い日のそれは、真冬に音もなく、けれど気配を色濃く残して雪が降り積もる夜に似ている。



 隣を歩く郭をそうっと見上げながら、はぼんやりとそんなことを思った。

 一斉に鳴く蝉の声と、あまり会えない愛しい人が隣にいるという事実が、逆に現実世界に線を引く。

 そうなのだ。





 の日常生活に、彼はいない。





 中学の頃はあんなにも世界を占めていた彼が、突然姿を消した。当たり前だ。別々の高校に進学したのだから、もちろん学校で会うことがない。起きている時間の大半を学校で生活する高校生にとって、学校という世界が、日常になる。

 そこに、いない。

 昔よりも離れた分、思いだけが強くなる。昔よりも、好きだ、と思う。けれどその分、不安も大きかった。
 明日、目が覚めたらまた日常世界に埋没していくことに対する安堵感と、絶望感。



 郭といると、世界が切り取られたような感覚に陥ることが多かった。それはもう随分と前からのことで、それこそ片思いをしている頃からそうだった。それは今も変わらない。変わらないけれど、昔のように純粋にそれを喜ぶことはできなくなった。昔はそう感じられることが嬉しかったけれど、今はそれに終わりがやってくることを、悲しんでしまう。

 恋は人を貪欲にさせる。

 人よりも随分と遅くやってきたその感情に、は焦っていた。

 自分だけに、留まらない。
 彼にも、同じ気持ちでいて欲しいと、思ってしまう。





、最近、何か考え事をしていることが多くなったよね」
「・・・うん」
「話せない?」

 返事の代わりに曖昧に笑ってみせた。

「・・・不安にさせてるね、ごめんね、

 謝るべきはの方なのに、そんな言葉を郭の口から聞いて、視界がぼやけそうになる。慌てて何度も瞬きをした。好きだけれど、好きだけではいられないことが、こんなにもしんどいということを、は初めて知った。

「それでも、」

 心なしか、郭の声が強くなったように感じる。は俯いていた視線をあげた。
 視線は、ぶつからない。彼は、前を向いていた。



「離す気はない、よ」



 そう言ってから郭は振り向いて、それからもう一度、ごめんね、と笑った。こんなことを言わせてしまう自分に嫌気がさすけれど、それでもどうしても心情を吐露するわけにはいかなかった。





 一斉に蝉が鳴く。





 世界が、遮断された。








バーランドに恋焦がれ






   

笛!再熱委員会さまへ
【03ネバーランドに恋焦がれ】→【04つまりそういうことでした】

10/10/12 HP再録


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