仲良しの友達が出来た。 制服も筆箱もローファーも全てが新しくなったピカピカの世界で、は自分でも説明できないくらいに気持ちが弛緩していた。 ずぶずぶと沼地に嵌まっていくように足元から感覚が麻痺していく。 環境が代わって一ヶ月が過ぎ、力が抜ける時期なのかもしれない。 それでも、生まれてこの方授業中に集中力が欠けたことはなくて、やはり多少の驚きは隠せない。 本日も例に漏れずただ黙ってどんよりと曇った空を見上げていると、いつの間にやってきたのか、友人が窓枠に腰掛けていた。 「・・・工藤ちゃん」 「随分ぼうっとしてたね、何?考え事?」 中学の頃からのの友人は、その大きな目を目一杯開いて覗き込んできた。高校ではクラスが離れ離れになってしまい、部活動も異なるから、こうしてしっかりと会うのは二週間ぶりだった。 「なになに、郭くんのことでも考えてた?」 「そんなんじゃないよ」 「ちゃん、最近彼にちゃんと会ってる?」 会ってるよ、と間髪を入れずに答えると、彼女は怪訝そうに眉を顰め、そして「嘘だね」と断定した。 確かに、嘘だった。 もともと、も、その恋人である郭英士も、お互いお世辞にも恋愛向きと言えるようなスケジュールを送ってはいなくて、生徒会やら習い事やらで忙しかったと、サッカーに全力を注ぎ、そして幸運なことにどちらかと言えばサッカーの神様に味方されていて、予定の八割がサッカーで埋まる郭とでは、どうしてもすれ違いがちになってしまう。 お互い、そうやって自分のやりたいことに全力になれることは悪いことだとはまったく思っていなくて、だからこそ例え二人きりで会えるのが一ヶ月に一度でも、決して淋しいと感じたことはなかった。 けれど、そう思えていたのは、一応学校でお互いの顔は見れていた、という当たり前の前提があったからこそなのだ、ということを、は今、ひしひしと感じていた。 今までとは、違う。 彼の姿を、目に出来るのが、一ヶ月にたったの一度。 有り体に、言ってしまうと、淋しい。 ただ、ただ、淋しかった。 ちゃんと郭くんってドライな関係だよね、と友人にそう言われたのは、ちょうど付き合い始めて半年経った頃だった。そうかな、とが首をかしげると、問いかけた友人だけではなく、周りにいた数人までもが何度も頷いて肯定した。「例えば、どこが?」責められているわけでもないのに、はなんとなく居心地が悪くなって、この間授業中に書いた机の落書きへと目を伏せる。「んー、なんだろう、普通初めての恋人ってもっとテンションあがるし情熱的になるものでしょ」一番彼氏と長続きしている大人っぽいと評判の友人の言葉に、は目を泳がせた。 それでも、はそれで幸せだったし、確かに郭が自分を愛してくれているという自覚があったから、その時は何を言われてもへっちゃらだった。 そもそも郭も自身も、もともと人付き合いがベタベタしている方ではないのだから、それが普通だった。 普通、だったのだ。 初めて乗るローカル線に30分ほど揺られたところではホームに降り立った。新緑の香が鼻をくすぐり、大きく一つ深呼吸をする。まばらな人の流れに沿って小さな改札口を目指して歩いていると、母親に手を引かれた男の子が元気よく手を振ってくれた。2台しかない自動改札機の向こう側には、既に郭の姿がある。 改札を出ると、彼が、ひらりと右手をあげた。小走りに駈け寄ると、にこりと少しだけ笑みを深くする。 もう5月だというに、気温はなかなか上がらない。髪をまとめているせいで、外気に触れる耳が少しだけ寒かった。 「久しぶり、」 「ごめんね、待った?」 「ちょっとね」 「・・・普通、そこは、全然待ってないよ、とか返さない?」 「それを言うならこそ、ごめんね、でしょ」 「・・・すみません」 「嘘。早く着きすぎちゃっただけだから、気にしなくていいよ」 早くってどれくらい前から来てたの?自然と繋がれた手を握り返しながらが郭を見上げると、視線はどこかに遣りながら「40分前くらいかな」と彼は言った。 「え!?・・・早!なんで?電車間違えちゃったの?」 ここの駅と通る線は、一時間に2本程度しか電車が運行していない。だから地元から一緒に行こうと郭はを誘ったのだけれど、たまたま前日は親戚の家に泊まりに行く予定があったので、現地集合ということになったのだ。 「何でだと思う?」 「え?だから、電車間違えたんじゃないの?」 「外れ。に早く会いたかっただけ」 するりと溶け込んできた言葉は、否応なしにの体温をあげていく。彼と付き合い始めてからもうそれなりに月日は過ぎたけれど、こういう不意打ちには一向に慣れない。 「顔真っ赤。それから、足、止まってる」 「・・・そりゃ赤くもなりますし足も止まりますよ郭さん」 「そう?俺はもしからそう言われたら嬉しくて抱きしめるけどね」 「英士はポーカーフェイスすぎると思うよ!大体、あたしも早い電車に乗らなかったら意味ないじゃん・・・」 「うん、そうだね」 それでも早く来ちゃう程度にはに会いたかったってことだよ、郭はまたにこりと笑った。 郭が言ったようにその場で抱きつくことはさすがににはできなくて、代わりに握る手に力を込めた。 綺麗な公園があるから、と同級生から聞いてやってきたそこは、想像していたよりも大分小さかったけれど、想像していたよりもずっと多くの花が咲いていて綺麗だった。小さな丘の上の木陰のベンチに腰掛けて、公園全体を見渡すと、春がもうすぐ終わるんだな、ということを感じた。気温があまり上がらないせいで、夏が側まで来ていることを忘れがちだけれど、周囲に目を向けてみると意外なところに転がっている。 少しだけ無言で景色を眺めて、それからお互いの近況を話し合った。一ヶ月は意外と長いもので、話したいことはなかなか尽きない。楽しい時間に、は自然と笑顔になる。 新しい学校の新しい友達の話を、にこやかな笑顔で話す郭に、急に不安を覚えたのは、近況話を始めて30分が過ぎた辺りだった。 どんよりと、重たい何かが身体を支配していく。 何が突然不安になったのか、もわからなかった。 ただ、漠然とした、焦燥感。 「?」 話を中断して突然名前を呼びかけてきた郭の表情は、微かに強張っている。 はへらりと笑って見せた。 そういう、驚くべきほど聡いところを、たまに悔しいと思ってしまう。知られたくない感情まで彼には読み取られているような気がして、それでいて自分にはその能力が備わっていないから、きっと悔しいのだ。 ちょっとぼおっとしてただけ、とが言うと、郭は少しだけ眉をぴくりと動かしたけれど、結局何も言わなかった。おそらく、言いたくないというの気持ちを汲んでくれたのだろう、黙ったままの頭を抱え込むように自分の肩にそっと乗せた。 目を閉じて、ゆっくりと呼吸を繰り返して、唐突に理解した。 不安が、ない。 の中に、ここ最近育ちつつあった不安が、郭の中にはまったくなかった。良いことだし、こんなことでいちいち二人揃って不安になっていては続くはずが無いともわかっているつもりだけれど、それでもひどく、ショックだった。 ひどく勝手な感情に、衝撃を受ける。 会えない淋しさは、まだ慣れない彼との距離のインターバルのせいであって、きっと会えば緩和されるのだろうとは思っていたのだけれど、むしろ暗い何かがじわじわと広がってくるようで、は呆然とした。 恋愛って楽しいだけじゃないのよ、といつか言われた母の言葉が頭の中でガンガンと反響する。 「、何考えてるの」 伸ばされた手に、ぎゅう、としがみ付いたのは、精一杯の強がりだった。 |
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