幕が下りる音がした。



 着慣れたセーラー服に身を包み、歩き慣れた道を行く。昨日まではまだ寒さが猛威を振るっていたというのに、嘘みたいな春の陽気に包まれている。ぽかぽかとやわらかい光を届けてくれる太陽に応えるかのように、道の端にはたくさんの小さな花が顔を覗かせていた。

 今日は、の通う雑司が谷中学校卒業式である。

ちゃん!」

 後ろからかけられた友人の声に反応して、はゆっくりと振り返る。服装違反常習犯の彼女が、きっちりと制服を着こなしていた。

「・・・泣きそうです」
「早っ!まだ式始まってないし!」
「だって淋しいじゃん!ちゃんは淋しくないのー!」
「淋しいけど!っていうか工藤ちゃんは高校一緒じゃん・・・」
「問題点はそこじゃなーい!」

 下級生よりも上級生は遅れて登校するため、いつもは大勢の生徒で賑わう通学路もどことなく淋しい。さすがに卒業式にまで服装違反をしてくる生徒は少ないようで、それも何だか違和感だった。濃紺のセーラー服が、少しだけ汗ばむほど、暖かい。そこかしこで挨拶をする生徒たちの声が、幾分緊張しているように聞えるのは、彼らが緊張しているせいなのか、それとも自分が緊張しているせいなのか、にはわからなかった。

 小学校の卒業式は、死別ではない別れを悲しめるほど大人ではなくて、どちらかと言えば次に進める高揚感の方が勝っていたとは思う。それは何も自分だけの話ではなくて、きっと大半がそうだった。

 制服、定期考査、部活動、先輩後輩、自転車通学。

 明らかに今までいた世界とは違うところへ足を踏み入れるのだ。子ども扱いされることに嫌悪感を抱くようになっていた彼らは、少しでも大人へ近づけるんだという喜びが大きかった。

 不安を、希望が塗りつぶしてくれた。



 15歳になった今は。

 別れを悲しまず無邪気に笑えるほど、もう子どもではなくて。

 けれど、門出を喜べるほど、大人でもない。



「今日、クラスの打ち上げいくでしょ?」
「打ち上げとは言わないんじゃ・・・?」
「揚げ足取らなくていいからー。行くの?」
「行くよ」
「ふうん、郭くんには会わないの?」

 その前に会うよ、と少しだけ苦笑しては答えてから、何となく上に広がる青空をみた。



 泣きたくなるほど、蒼かった。










「目、真っ赤だね」

 落ちていく夕日をぼんやりと教室から眺めていると、突然少年が現れてそう言った。顔を見なくてもわかる、届いた声は、聞きなれたものだった。

「・・・英士」
「意外だな、、泣いたんだ?」

 教室の扉に手をかけて、綺麗に微笑んで見せたのは、郭英士だった。と彼が付き合い始めてから、もう1年以上が過ぎている。

「もー、また見てたの?相変わらず趣味悪いなあ」
「相変わらずが好きなだけなんだけど」
「・・・そうやって言えば誤魔化せると思ってるんでしょ」
「実際は結構誤魔化されてるじゃない」

 少しが拗ねたような声を出しても、郭は肩を竦めてみせただけだった。
 淡い朱が教室を染め上げる。逢魔が時とはよく言ったもので、太陽が沈んでいくこの時間は、ひどく不安になる。明日が来ることはわかっていても、今日が終わることに淋しさを覚えずにはいられない。
 郭が、ゆっくりとの隣に腰を降ろした。本来は教師が教鞭を執るべきところに二人揃って行儀悪く座っているけれど、この教室に彼らを咎めるものは誰もいない。



「夕暮れ時の教室って、あんまり好きじゃない」



 ぽつり、が呟く。視線は自分の爪先に向けているため、隣の郭がどんな表情をしているのかわからない。しばらく沈黙が続いた後で、ふいに肩が熱くなった。傾いた身体は、自然と受け止められる。

「不安になるっていうか?」
「何で疑問系なの。まあ、昔から逢魔が時って言うしね」

 わあ!という歓声が校庭から届く。続いて、ありがとうございました!と叫ぶ声。野球部が後輩と最後の紅白試合をすると言っていたのを思い出し、それが終わったのだろうと見当をつけた。
 きっと、のクラスメイトもその中に混じっている。

「そういえば担任が言ってたんだけど、今年の卒業式は異常な盛り上がりだったらしいよ」
「そもそも、群読やったのが、初なんじゃないの?一番初めの・・・なんだっけ、あの、ソフト部の子。あの子が泣いてたしね。感極まる感じで三年のほとんどが泣いてた気がするけど」
「英士は、泣いてなさそうだね」
「泣いてないよ」

 式典の最中、ずっとの頭の中は、まるで何かのスイッチでも押されたかのように、中学校での思い出がぐるぐると回っていて、その鮮やかさに眩暈を起こしそうになった。隣の女の子は、卒業証書授与の辺りからずっと泣いていて、そこから感染するようにすすり泣く声が波紋を広げるように体育館中に伝わったことも一つの要因だったのかもしれない。



 きらきらと光る世界に、思わず目を閉じて、真っ先に浮かんできたのはもちろん、





「英士」





 目の奥が熱くなっていくような気がしたは、それを誤魔化すために何度も瞬きをした。なに、とのすぐ耳元で吐き出される声に、安堵感と焦燥感が一緒くたになって押し寄せてくる。

「・・・う、た」
「・・・うた?」

 思っていたよりも喉がからからに渇いていて、は上手く言葉を紡ぐことができなかった。深呼吸をして、落ち着こうと目を瞑る。
 郭はただ黙って耳を傾けていた。

「疑う・・・わけじゃない、けど、・・・不安だよ」
「何が?」
「・・・・わかんない、全部、かな」

 二人は、ここからバラバラの道を歩いていく。彼らが個人として確立されている以上、人生を終えるまでずっと同じ道を進んでいくわけにはいかない。それくらい、もわかっているけれど、それでもやはり、目の前に差し出された明確な「別れ」に、戸惑いは隠しきれなかった。



 手に入れた、色が付いた世界。



 学校という媒体が無くなってしまうことが、こんなにも不安だとは思わなくて、自身も自分の気持ちを上手く整理することができないでいた。

 教卓の上から見下ろす教室は、2年生の頃、二人が毎日顔を合わせていた、あの時の空気を、もう忘れてしまったみたいだった。







 二度、優しくの頭を軽く宥めるように撫で、それから郭は軽い動きで教卓から降りるとの目の前に立つ。いつもと違って下から見上げられる形に、はびくりと背筋を伸ばした。
 太陽はもうほとんど沈んでいて、夕闇が校内に忍び込んでいる。卒業生も下級生も、ほとんど残っていなかった。

「目、瞑って」
「・・・何で?」
「いいから瞑る」

 そう言って郭は自分の右手での視界を覆い隠した。そうされてしまえば仕方が無く、は言われた通りに目を瞑る。
 視界が閉ざされて聞えてくる喧騒と自分の心音に、少しだけ安心した。



「忘れないで。ずっと、」



 午後五時を告げる鐘が鳴る。

 もう、目の周りを覆われていた郭の手は離れていて、触れているところはどこにもない。それでも、目を閉じて、全身で彼の気配を追うと、確かにそこに彼は居た。



 見えない分、距離はゼロ。





「俺が、を好きってこと」





 優しくそう言う彼に、は何も言えなかった。
 卒業おめでとう、と突然思い出したように郭は言って、小さなキスをする。



 するすると、幕が閉じた。



 初めて迎えた、節目だった。








よならの代わりに






   

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10/10/12 HP再録