別に今まで年上を敬わなかったわけじゃない。
ただ、アメリカでの生活が長かった氷室にとって、たった一つ上の先輩にも敬語を使わなければならないだとか、そういう形式張った日本の習慣は少しだけ億劫だった。とは言え、郷に入っては郷に従え、ということわざに文句はないので、それについてとやかく言うつもりは無かったし、そんな氷室から見ても大人を敬うというのは当然だと感じていたので、紫原がさも当たり前のように、バスケ部の顧問である荒木のことを「雅子ちん」と呼んだのには驚いた。
「だからあの時も雅子ちんが何かと文句つけてきてさー」
「・・・・あのなアツシ」
「ん?何?」
話の腰を折るのは悪いと思いつつも、一向に直らないその呼び方に、つい氷室は話を遮ってしまった。自分よりも幾分も体躯の大きな紫原は、少し屈むようにして氷室の顔を覗き込む。
「お前、それはいくらなんでもどうかと思うぞ」
「それ?」
「・・・・呼び方」
「呼び方あ?なに、雅子ちんのこと言ってんの?室ちんってそういうの気にする方だったっけ。めんどくさー。もしかして自分もそう呼ばれるの気にしてるとか?」
本当に不愉快そうに紫原は声のトーンを一気に落とした。違うんだ、と慌てて弁解しようとする氷室を、随分と胡散臭そうなものを見る目で見下げている。
「俺とアツシなんて、大した差もないだろう?気にしてないよ。ただ、彼女は大人じゃないか」
「それ何か関係ある?」
「関係あるかって・・・・・、ある、んじゃないか」
「何でそんな自信無さげなわけ」
大人っていうのは子供たちが逆らうべきものではなくて、大人がだめと言ったらだめだし、やめなさいと言われればやめなければならない。氷室は自然とそう考えていた。大人というのはそういう効力を持っているのだ。誰から教わったわけでもない。何となく幼い頃から刷り込まれている。それに、敬っておけば大抵の問題は解決されるのだ。氷室がそうまとめて説明すると、紫原はますます露骨に顔を歪めた。
「室ちんそれ、全然敬ってねーじゃん。大体大人っていうのはさ、そりゃ叱ったりもしてくるけどー、ふつう、子供を甘やかすためにいるようなもんでしょ」
何故紫原が顔を歪めたのだろう、と氷室は思ったのだけれど、なるほど理解できない時の表情なのか、と納得した。そうして氷室は「大人は無条件で甘やかしたりなんかしないぞ」と顔を歪めるのだった。