空を見上げた







「高飛びって、最後飛べないで終わる種目なんだよ」

そう言った本人、は片手で右の頬を支えながら、ぼうっとした表情で窓の外を眺めていた。
キャプテン花井の元に集合していた西浦高校野球部は、大変訝しんだ様子でを見つめている。
人の消えていく放課後の教室。
部活はオフだけれど(テスト週間だから!)、というかだからこそ集まって勉強会でもしようかと言う話になり、比較的に放課後に残っている人が少ないという7組に野球部1年は集合していたのだ。
じゃぁいつも通り数学は阿部で、とかなんとか花井が切り出したのとほぼ同時だった。
それまで話に加わっていたわけでもなんでもない、7組のクラスメイトから突然そんな声をかけられたのだ。
訝しく思っても当然と言えば当然かもしれない。
一番前の席に座ったまま動かないに、野球部7組メンバーは首を傾げた。
話し掛けられたわけではなかったのだろうか。

「高飛びが、なんだって?」

水谷がそう聞き返すと(ここで聞き返すようなことをするのは彼くらいしかいない)、は驚いたように、ぱ、と振り返った。

「・・・・・・・・・今、あたし声に出してた?」

無意識だったらしい。

「出してた」

阿部が言うと、彼女を知らない他クラスの皆もこっくりと頷いた。

「嘘、ごめん、邪魔するつもりはなかったんだけど。気にしなくていいよ」
「いやもう聞いちゃったし気になるし」
「飛べないで終わるってどういう意味?」

泉が興味を引かれたらしい。
ひょいと花井の後ろから首を伸ばしてそう尋ねた。

「え?そのままだけど・・・・・ほら、高飛びって、最後必ず失敗して終わるでしょう?優勝しても、金メダルを取っても、新記録を出しても、最後は必ずバーが落ちる」

って陸上部だったっけ?
持っている記憶を全て総動員させて阿部はその事実を確認しようと試みた。しかしどんなに頑張って些細な記憶までをも引っぱり出しても、彼女が陸上部だったという記憶はない。

「陸上部な、の?」

陸上部だっけ?そう阿部が尋ねようとして、後ろから聞こえてきた声に驚いた。三橋が知らない人に声をかけるとは思ってもみなかったからだ。その事実に驚いたのは阿部だけではなく、野球部全員が食い入るように三橋の顔をまじまじと見つめた。
その視線に気付いた三橋はきょどきょどとその大きな目をせわしな動かした後に、ごめんなさいと三回早口で謝った。なんで謝るんだよ、と阿部が言うと、さらにびくりと跳ね上がり、もう一度、今度は阿部に謝った。田島に軽く責められて、阿部は変わらない自分の性格と三橋の性格にいらいらとする。

「陸上部だったの」

そのなんとも微妙でしかしいつも通りの野球部の雰囲気を打破したのはだった。にこりと微笑んで三橋に答えるに、彼はますます混乱したらしい。なら始めから声かけんじゃねぇよ、と言いたいのを阿部は何とか飲み込んだ。

「中学でってこと?」

栄口がボールペンをペンケースに戻しながらそう尋ねる。

「そう。高飛びやってたの」
「へー!いいなー俺陸上やんなら高飛びがいい!」
「田島の身長じゃ無理だろ」
「泉だってちっちゃいじゃん!」
「俺別に高飛びやらないからそれでも困んねーもん」
「例え話だろー!」

田島と泉が言い合いを始めたのをはくすくすと笑いながら見ていた。
は、決して目立つタイプの女の子ではない。同じクラスであるものの、花井も阿部も水谷も、彼女とはほとんど口を聞いたことがなかった。声をかけにくいタイプではないが、彼女自身が積極的に話に入り込んでくるタイプでもなかったので、なんとなくあまり話したことがなかったのだ。3人の中では、一番友達も多い、水谷でさえまだ2〜3回くらいしか話したことはなかった。
泉と田島、さらに沖も加わって談笑している姿が、少し意外とも取れたくらいだ。

「俺、陸上には興味ないけど」

はっきりと泉が言う。
が苦笑した。

「でもさっきの言葉はちょっとなんつーか気になった。最後絶対飛べないで終わる、か」
「それって悲しい?」

田島がぐりん、と目を一度回した。じ、と真正面からを見る。そんな彼にたじろぎもせずには少し考え込んだ。

「悲しくは、ない、かな」

三橋よりも力強く区切って彼女は言う。
勉強のために集まってきていた野球部員たちは、いつのまにか彼女を話に耳を傾けている。三橋にいたっては椅子の上に正座をしてその話を聞いていた。

「別に普段はなんとも思わないんだけど、だってほら負けた試合だって得られるものがあったり、それで満足だったりすることもあるじゃない?だからどうってことはないんだけど、でもたまに突然その事実だけを思い出すの。今も、そう」

そう言っては最初と同じように、空っぽの目で空を見上げる。

「最後、絶対、飛べない」

ぽつりと三橋が呟いた。
特に誰かに話し掛けたわけでもないようで、そのまま何か考えるようにじっと黙り込んでいる。
阿部がどうした?と声を掛けてもしばらく動かなかった。

「別にだからどうってわけじゃねーけど、でもなんか、すごい事実だな」

花井が言う。
そうなの、とはそれに続いた。

「改めて考えると、なんかすごいでしょう?球技はトーナメントの頂点に立った1校だけが最後勝って終われるわけだから、ほとんどが負けて終わるし、陸上の他の競技だって1位は1人だけど、でも、高飛びの1位は飛べないで終わるの」

まとまってないけど・・・・は上手く言うことができないらしい。もどかしそうに顔を歪めた。
気が付けば教室に残っているのは野球部とだけで、窓際以外に人はいなかった。陽に当たって伸びる影がなんだかいつもよりも幻想的で、は思わず目を細める。他の何人かも、いつもと違って見える教室に、少しだけ不思議な気持ちになっていた。

なんで突然思い出したんだろう。

はぼんやりとそう考えた。

野球部が来て、勉強会を始めるとかなんとか言っていて。篠岡が花井に何か話していて。彼女が出ていって。田島が三橋にお前ピッチだろ!と言いながら背中を叩いた音が聞こえてきて。

ああ、そうだ。

「ねぇ、三橋くん、だっけ?」

は阿部の斜め後ろに隠れるようにして正座している三橋に声をかけた。
一瞬自分が指名されたことがわからなかったらしい。野球部員の顔が全て自分に向けられて初めて気付いたようだ。
ぴ!正座したまま飛び上がった。

「マウンドから空、見る?」

はぁ?そう反応を返したのはもちろん三橋ではない。
どうやら阿部と泉と水谷の3重奏のようだ。花井も言いかけていたらしく、は、の口で止まっている。
当の本人三橋は、おろおろと周りを見渡して、田島に笑いかけられるまで返事をすることができなかった。

「みみみ、みみ見る、よ!」
「負けた時の空と、勝った時の空って、やっぱ違う?」

きょとん。
変な動きを停止させて、三橋はじぃっと彼女を見た。
田島だったらその間に五十音全てを言い終えることができるのではないかと思う程の時間を置いて、三橋はゆっくりと首を縦に振る。

「せま、い」
「負けた時?」
「ん」

それじゃお前今まで見上げた空のほとんどがせまいじゃん!水谷の遠慮も何もあったものではない台詞に花井が頭を抱えるような仕種をした。
三橋は特に気にした風でもなく、水谷を振り返って頷いた。
けどそれじゃ、この間三星に勝った時、すっげー広かったろ!!何故か得意げに田島が言う。三橋は頬を紅潮させながらぶんぶんと首を縦に振った。

「なんでそんなこと聞いたんだよ」

阿部が興奮し出した三橋を宥めるように頭を押さえ付けながらを振り返る。

「え?・・・・あ、うん。飛べない時って、空でわかるから、なんとなく」

屋外スポーツをしてる人にとって、空って重要だと思うんだ。
はまた空を見上げた。目はもちろん、何も映していないような、ガラス玉に近い目だ。
気が付けば三橋も同じような目をしていて、阿部はぎょっとした。花井や栄口も気付いたらしく、2人とも目を見開いている。

多分それは、孤独な戦いを知っている者の目だった。
最後飛べないで終わる、そうが言ったということは、彼女は中学の時にそういう状況によくなっていたということだろう。それはつまり、1人残された中で、例え1位が確定されているとしても、戦わなければならなかったのだろう。
阿部も花井も栄口もTVで見かけたことがことがあった。
他の競技と違い、高飛びは、飛べば飛ぶ程1人でいる時間が長くなる。
頂点に立った者は、1人で記録に挑戦しなければならない。
それは、9人で戦いながらも、独りで闘わなければならないピッチャーに似ている。



だから多分、は三橋に話し掛けた。



それは、今は2人にしかわからないこと。



「ご、ごめん!勉強するんだよね!あたし、もう帰るから!」

慌てては席から立ち上がると鞄の中に無造作に教科書を詰め込んだ。
バタバタと慌ただしく教室を出て行く。
その様子を皆でぽかんとした表情で見送っていた。



「・・・・・・勉強、始めるぞ」



言いながら花井は、今度、マウンドから空を見上げてみたいとそう思った。



END
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
「高飛びは最後絶対飛べないで終わる競技だから、飛べた時の気持ちは忘れないようにしているんです」
昔、先輩が県の新聞社のインタビューにそう答えていたのがすごく印象に残っていて、今でもたまに思い出します。私は高飛びやってたわけじゃないけど。

07年09月06日


back