「今までお世話になりました」 部誌を渡しに職員室を尋ねると、そんな声が聞こえてきた。首を伸ばして先生方のデスクを挟んで向こう側を覗いてみる。 同じのクラスの夏目くんだった。 夏目くんはまだ桜の花がかろうじて残っている、四月の半ばに転校してきた。どうせなら新学期から来ればよかったのに、と思いつつも、人様の家庭の事情に首をつっこんではいけないと、おそらく誰も彼にその理由を聞いていない。 けれど、私があまり好きではないグループのトップみたいな女の子が「夏目くんって嘘つきなんだって、あたしの従兄弟が小学校のころ、ちょっとだけ同じ学校だったんだけどさ」と誇らしげに言った噂は瞬く間に学校中に広まった。多分、誰もがちょっと謎の多いこの転校生に興味があって、だから皆揃って食い付いてしまったのだと思う。それでも夏目くんは特に弁解をしたりもしないで、いつも一人で教室の隅に座っていた。 私はあまり、友達が多い方ではない。暗いとか、そういうわけではないのだけれど、大人数で騒いだりするのが苦手だった。だから、夏目くんのことが気になっていたけれど、自分から話し掛けたりすることは決してできなくて、なんとなく遠くから彼を見ているのが精一杯だった。 好き、と言えば好きなのかもしれない。 夏目くんが学校を休んだ時は気になって仕方がなかったし、夏目くんが少し誰かと話している声が聞こえれば耳をそばだてた。 「次の学校では友達作るんだぞ?」 担任のその言葉に夏目くんはまた転校してしまうんだということに気が付いた。それで、これが書類なんだけどな、と担任が何やら説明を始めたのを見て、私は顧問の話を最後まで聞かずに職員室を飛び出した。 まだ明るい日差しが照らす廊下を少しだけ駆け足で進みながら窓の外に目をやると、同じクラスのサッカー部数人が固まって何やら話し込んでいるのが見えた。その中に夏目くんがいるのを想像して、それから「うん、あの中には入らなくて正解だったよ」、と呟いた。 一番端まで来るとそこを右側に曲がって2番目が私のクラスだ。乱れた呼吸を整えるために深呼吸を数回してからガラリと教室の扉を開ける。窓から差し込んだ日の光は、窓際から2列目までを照らしていた。 ゆっくり歩いて窓際の後ろから2番目の机の前で立ち止まる。 夏目くんの席だ。 机の中もサイドにある荷物掛けにも、もう何も残っていなかった。ガランとした教室に、ガランとした机が一つ。何日か後に転校するわけではないらしい。 明日朝来たら、もう夏目くんはここにはいない。 そう考えたらさすがに涙が出そうになった。 夏目くんが転校してきてから一ヵ月後、川崎さんという女の子がやっぱり急な親の転勤で遠くに引っ越すことになった。学級委員が中心となって、色紙を書いたり最終日にはお別れ会だってした。 だけど夏目くんはそれをしないで、お別れの挨拶さえしないで去るつもりみたいだ。 カタリ、そんな物音がしたけれど、私は振り返らなかった。近づいてくる足音が私の後ろで止まっても、夏目くんの机を見つめたまま動かない。数分間、沈黙が続き、それから遠慮がちな声が響く。 「さん」 今までに一度も呼ばれることのなかった私の名前を、ゆっくりと夏目くんは言った。覚えててくれたんだ、と少し驚く。 「何か、用?」 夏目くんのそんな言葉に私は、キッ、と振り返った。びくりと反応した夏目くんは、私の顔を見てさらに驚いたように目を見開く。 「転校しちゃうなら、どうして言ってくれなかったの」 怒ったような声しか出なかった。なるべく平静を装おうとしても、声は震えてしまう。 初めて、夏目くんと向き合った。こっそりと盗み見る横顔と同じくらい綺麗な顔立ちを真正面から見据える。夏目くんは困ったように視線を下に落として、何度も何か言おうと口を開いてくれたけれど、結局何も言わなかった。 「夏目くんが、転校したら悲しく思う人が、いるって考えなかったの」 途中で詰まってしまわないように一気にまくしたてる。すぐ近くの国道を走る自動車の音や、校庭から聞こえてくる生徒の声がひどく遠くに感じる。 唇を噛み締めて俯くと、夏目くんが動いた気配がして、続いて頭にそっと手が乗せられた。驚いたけれど顔を上げることはできない。 「ありがとう、さん」 夏目くんの透き通ったような小さな声が上から降ってくる。 「泣かないで」 夏目くんは、友達がいなかった。 多少話をするくらいのクラスメイトなら何人かいたとは思うけれど、少なくとも転校することを伝えようとする友達はいなかったみたいだ。 悲しかった。 私は夏目くんを知っていて、夏目くんがどんな人なのかもっとたくさん知りたいことがあった。 夏目くんが転校してしまうと知れば泣いてしまうほど悲しいのに、夏目くんにとって私は転校を告げることさえされないような人だった。 どこに行くの、とかそんなことを聞いてもきっと夏目くんは教えてくれないのだろう。 「夏目くん、あたし、夏目くんが転校してしまうことが悲しいよ。夏目くんとは話したことなんてなかったけど、だけどね、あなたを忘れないから、だから夏目くんも忘れないで」 名前なんて覚えてくれなくていい。 ただ、話したこともないようなクラスメイトが、自分の転校を惜しんで泣いたことを、忘れないで欲しかった。夏目くんは肯定も否定もせずにもう一度「ありがとう」とだけ呟くと、机のうえに置かれていた鞄をそっと持ち上げると静かに教室から出ていった。 一人でいることに慣れてしまった少年のために私ができるのは、ただ、祈り願うこと。 色の無い祈りに込めた想いが、どうかあなたに届きますように。 ガラスの祈り ねぇ、大好きだよ。
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