「あ、ごめん傘忘れた!先帰っていいよ」 予備校の帰り道、私はわざとらしく大きな声で言った。当然、待ってるよー、という声が上がったが、電車を理由に私はどうにか彼女たちを駅に向かわせると、急いで教室へと戻っていく。前から三番目、窓際。机の中にぽつんと置き去りにされた、お気に入りの折りたたみ傘を手にすると、またすぐに元来た道を引き返す。大きな予備校でよかった、と思う。階段を上って3階まで辿り着くのに多少なりとも時間が必要だからだ。小さな個人塾であれば、きっとすぐに取りに戻れてしまうから、友達は待っていてくれたに違いないし、それを強く反対することなどできないだろう。 そう、私はわざと傘を置いていったのだ。目的は教室に戻ることでも時間をかせぐことでもない。一人になって、かつ「彼」に話しかけるきっかけが必要だったのだ。 バタバタと足音をさせながら玄関へと向かう。自動扉が開いて、外の冷気が一気に前身を襲った。暦が冬になって、ひと月が過ぎ、寒さに慣れてきたといえども寒いことには変わりない。制服のスカートと紺のハイソックスの間から覗く足が寒い寒いと訴えている。一つ身震いをしてから私は外へと出た。雪ではなく雨であることが不思議なくらいの寒さだ。都会の冬は気温こそ高いものの、体感温度がとても低い。きっとビル風のせいなのだろう。 手動で傘を広げてから、私は辺りをぐるりと見回すフリをした。そうして一点で視線を止め、「あれ、」とわざとらしく声を上げる。予備校の隣にある小さな菓子屋の軒下で、ぼんやりと空を眺めている男性がいた。私の声に反応して、彼は僅かに視線を寄越した。 「雨宿りですか?」 警戒されないように、軽すぎず、けれど堅すぎないフランクな調子で続けて話しかけると、目一杯首を逸らせて見上げていた空から視線を外し、彼は少しだけ意外そうな表情で私に向き直る。シャッターが閉められた菓子屋の軒下は、雨を凌ぐには少しばかり狭いように見えた。証拠に、彼の足元はひどく濡れている。淡いグレーのショートブーツはつま先から甲の辺りまで濡れて変色していた。 「まあ、そんなところです。ここの生徒さんですか?」 彼の第一印象は、とても物腰が柔らかそうな青年、だった。そしてその印象を裏切らないゆったりとした口調と甘いマスクが自分に向けられて、私は一気に心拍数があがるのを感じる。落ち着こう、と傘を握る両手に力が入る。 「はい。傘教室に忘れてしまって、取りに戻ったんです。よかったら入りますか?」 少し強引だったかな、と反省しつつも、決して悪くはない流れだったように思う。初対面に人間に突然提案するようなことでもないかもしれないが、空から次々と落ちてくる雫は当分止みそうにない。それに申し訳程度の軒下で、雨宿りする彼は随分と不憫に見えた。声をかけてしまっても、不思議ではないくらいに。 私が初めて彼を見かけた日も、やはり雨が降っていた。秋の真っ只中で、忍び寄る冬の気配に怯えていた頃だ。日中、太陽が照っていればまだまだ暖かいものの、雨が一度降れば一気にその気配は加速度をあげて近づいてきていた。その日はセーターではなくニットベストにしたことを後悔するくらいには寒く、私たちは足早に帰路についたのだった。やはり彼は今日と同じように軒下でじっと空を見上げていて、その時は雨宿りをしている人がいる、程度にしか思わなかった。私は意識が少し彼に向けられていたものの、寒さに耐えられなくなっていたので、早々に駅へと向かったのだ。 その週の天気は週末まで下り坂で、雨模様の日が数日続いた。隔日で予備校に通っていた私は、金曜日、つまり最初に見かけた月曜日から数えて丁度三度目に彼を見かけた日、ふともしかすると彼は雨宿りをしているわけではないのかもしれない、と思った。こんなに連日ここにいるはずもないし、いい加減傘くらい持参しそうなものだ。そうして私の興味は、「雨の日に隣の菓子屋の軒先で雨宿りをしているように見える青年」に向けられたのだった。 東京の冬は乾燥している。大体の日が空は突き抜けるような青空ばかりが広がっていて、雨や雪はあまり降らない。11月も12月も天候には恵まれたので、結局その後に彼を見かけたのは2回だった。予備校のない日にばかり雨が降ったような気がして、神様にからかわれているような気分だった。 青年は中性的でどこか儚い印象のある人だった。見かけると表情はいつも憂いを帯びていて、つい引き寄せられてしまう。 白黒をはっきりつけたがる性格の私は、遂に彼に話しかける決心をした。 そうして、今に至るのである。 「あ、ほら雨まだ止みそうにないですし、寒くないですか?」 返事がないことに焦って早口で言い訳染みたことを言うと、彼は一瞬ぽかんと口を開いて、それからくすくすと笑った。笑うと憂いを帯びて見えた横顔とは随分と印象が変わって見えた。 「ありがとうございます。けれど、大丈夫ですから」 御嬢さんこそ早く帰らないと冷えてしまいますよ、彼は私の申し入れを断ると、再び空を見上げた。 雨の向こう側に何を見ているのだろう。 じっと暗い空を見つめるその瞳は、怒りのような悲しみのような、そういう負の感情を湛えているように見えた。 「いつも雨の日にそうやって空を見上げてますよね」 つい音にしてしまった言葉に、彼は驚いたのか、ぱっと顔をこちらに向けた。その視線に一瞬私はたじろいだけれど、既に言葉にしてしまったのだ。どうせなら全部聞いてしまおうと口からはすらすらと続きの言葉が紡がれる。 「最初は雨宿りしてるのかなって思ったんですけど、どうもそういうわけではないみたいですし。誰か待っているんですか?雨の日だけ、会えるの?」 雨の日だけ会える、という私の言葉に反応したようで、彼は「そうだったら良いんですけどねえ」と歯切れの悪い返事をした。私がいつも見ていたとも取れる発言をしたことに関しては、特に気にしていないらしい。待ち人がいるのだろうという私の推理は外れてはいなかったようで、そこは否定されなかった。 しとしと、降り続く雨音はBGMには少し煩かった。柔らかい彼の声が、私に届くのを邪魔している。 「じゃあ何で、いつもそこで待ってるんですか?会えるわけじゃないのに?」 「うーん、雨のイメージがきっと強いからなんでしょうね」 「暗い人ってこと?」 「あはは、そうですね、普段は賑やかな方ですけど、案外根は暗いのかもしれません」 「自分では会いに行かないんですか?」 「会いたいわけではないですから」 彼が何かを渇望しているのだろうということは予想できたけれど、それが何なのか、私にはわからない。ただ、雨の降る夜にじっとその向こう側を見つめる姿は、どこか儚げな印象と共に凛とした芯があって、私は惹かれていたのだった。 恋とは違う、と思った。同級生の男の子に恋する感覚よりも、もっと大きな何かに焦がれる時の感情に近い。海を見たいと思うあの気持ちに近いような気がするけれど、確信はない。 「私は傘を忘れているわけではないんです」 ほら、と鞄から取り出されたのは、私が手にしているものよりも少し大きめな濃い藍色をした折りたたみ傘。 「ただ、この雰囲気を味わいたいだけなんです。満足したらすぐ帰ります」 有無を言わせぬ笑顔だった。私は色々と納得がいかなかったけれど、知り合いでもない他人にこれ以上強要することなどできるはずもなく、仕方なしにゆっくりと打ち付ける雨の中へ足を踏み出した。気を付けてくださいね、背中にかかる声に振り返り、一つお辞儀をすると、彼は満足そうに頷いて手を振ってくれた。数メートル進んだところでもう一度振り返ると、彼はまた同じようにじっと空を見上げていた。 角を曲がったところでふと名前を聞けばよかったと後悔するも、さすがに戻るのはなんだか気が引けて、また雨が降ったら次こそはもっと色々と聞き出そう、と心に決めた。 2週間後、再び雨が降った。 私は、また、わざと傘を忘れていった。 けれど、彼はいなかった。 END 菊の名もヒロインの名も出てきていない衝撃。 菊が雨空の向こう側に見ているのは、某お方。 13年01月30日 |