あ、しまった。 そう呟いた瞬間に、ザアッ、とまさにバケツをひっくり返したような雨が降ってきた。私は慌てて鞄を探ると、なんとか折りたたみ傘を引っ張り出す。右肩から掛けたエナメルバックはあっという間にびしょ濡れになる。ビニール製のそれは、雨を弾いて水玉が表面を滑り落ちていく。折りたたみ傘を開いてなんとか雨を凌ぎはじめた頃には、既に鞄はおろか全身が濡れていた。無意識にため息を零しながら、セーラー服をパタパタとタオルで叩いてみるけれど、どうも効果があるようには感じられない。 唐突に降り出した雨は、一瞬で世界を中断させた。せっかく部活が休みだから図書館で本でも借りて家でゆっくり読もうと思っていたのに、これでは駅まで無事に辿り着けるとは思えない。校門を出て数メートルしか進んでいなかった私は、くるりと向きを変えると、元来た道を引き返す。 玄関口まで戻ると、同じく突然の雨に帰れなくなってしまったらしい生徒が何人か茫然と空を見上げていた。戻ってきた私を見て諦めがついたのか、一人二人と校舎の中へ戻っていく。11月下旬ともなれば、外の空気は冷たい。濡れてすっかり冷えてしまった体を温めなければ、と私は足早に靴を脱ぎ捨てると、教室へ向かう。 教室の後ろの扉を静かに開けると、一人、残っている生徒がいた。否が応にも目を引く髪色が、蛍光灯の光に照らされて鈍く光る。 佐藤成樹だ。 隠れる様子でもなく、堂々と携帯電話でメールを打っていたところだったらしい彼は、一度だけちらりと私の方へ視線を寄越したけれど、私の姿を認識だけして、そうして興味が削がれたのかすぐに手元に視線は戻された。彼とは一度も同じクラスになったことはない。従って、面識があるわけではない。ただ、どうしたって彼の容姿は目立つから、私が一方的に知っているだけで。加えて言うならば、クラスメイトの水野竜也と一緒にいるのをよく見かけるから、覚えてしまった。 何故彼が私のクラスにいるのかは皆目見当がつかなかったけれど、とりあえず目的である雨宿りと、暖を取ることを実行に移そうと、自分の席へ向かおうとしたところで気づく。彼が自然に腰かけている机は、私の机だった。思わず動きを止めてしまった私を、不審に思ったのか、彼はゆっくりと顔を上げると、「あ、俺のことは気にせんといて」と、挨拶にしては可笑しなことを言う。 「…気にするなと言われてもね」 「ん?」 私は少しだけ逡巡して、それから結局「そこ、私の席なんですけども」と返した。 すると彼は初めて表情を綻ばせて、それから「はよ言うてや〜」と人懐っこい調子で言う。すまんなあ、と手を合わせる様子は、想像していたよりも柔らかい。あんな派手な髪色だから、もっと怖い人なのかと思っていた。何となくまだ動けずにいる私を、彼は初めて真面目に見た。上から下まで遠慮なく視線を動かしたところで、叫ぶ。 「びしょ濡れやん!」 「あー…うん、帰ろうとしたら雨が急に降ってきたから。しかもこれが結構な量でさあ、」 「見りゃわかるっちゅーの。風邪引くでーそんな格好でおったら」 女の子なんやしもう少し身体労わってやって、なんて言い出すから、思わず吹き出す。 「はい、タオル。さん」 差し出された少し大きめのスポーツタオルを受け取って、素肌が見えるところから拭き始めたところで、手を止める。何故名前を知っているのだろう。まじまじと見つめ返すと、合点がいったのか、「聞いたことあんねん」と言った。答えを返してはくれたけれど、それを理解することができず、オウム返しに聞き返してしまう。「聞いたこと?」疑うような声になる。彼は苦笑した。 「怪しいもんちゃうて。こいつからちょいと、ね」 指差した先にあるのは、私の隣の席、すなわち、水野竜也の机。 「ああ、そっか仲良しだもんね。…佐藤成樹くん」 「お?何や俺の名前知っとるん?お互い様やないか」 「そりゃあ、佐藤くんは有名人だもん」 「えー?」 「その髪色じゃ、誰だって目で追っちゃうよ」 別に褒めたわけではない。けれど何故か彼から「そりゃおおきに」と言われてしまう。なにそれ、と笑いながら私はそこでようやく自分の席へ足を進めた。彼の隣に並ぶと、思っていたよりも身長があった。 窓の外で降り続く雨は、まるで止みそうにない。夏の夕立にも似た勢いを持っているけれど、それと違うのは、一寸の隙間もなく広がるどんよりとした雨雲だ。止むことはなくても、せめて小ぶりになってくれるまで待つしかない。視線を落とした先の上履きの中で、足の指を、きゅ、と縮める。これ以上濡れるのは御免だった。末端冷え性の私の手足は、少し冷たい雨に晒されただけで、既に悲鳴をあげていた。 「水野くんを待ってるの?」問いかける私の言葉には、もちろん、何でここにいるのか、という意味が含まれている。濡れてしまった髪を乱暴にタオルで何度も拭く。ボサボサになった髪が視界を遮るけれど、その隙間から盗み見た彼には、ニヒルな笑み。 「そ。ちゃん、今日が何の日か知っとる?」 いつの間にか、さん、から、ちゃん、に呼び方が変わっている。けれど不思議と不快な気持ちにはならない。それは彼が元来から持つ人懐っこさと、それから物言いのせいなのだろう。ふるふると首を横に振る。あいかわらず無造作に散らばる髪の毛を、手櫛で整えながら、先を促しても、なかなか答えはくれない。 気づかれている。 直感でそう思う。このたった数分の間にそれを見抜いたというのなら、彼は随分とするどい観察眼を持っているのだろう。私がわかりやすいだけだという可能性は、悔しいから考えない。「佐藤くんの誕生日?」これが精いっぱいの強がりだった。 「…くっ、あ、はは!ははっ!ははははは!」 彼が弾かれたように笑いだす。けれどそれから蔑みや馬鹿にしている様子は伝わってこなくて、私はなんとか赤面せずにすんだ。あがり症の私は、何かとすぐに顔に出てしまうけれど、今回はどうにかそれを抑えられたようだ。不思議な人だった。あまり心を掻き乱されない。彼の友人とは正反対だ。私はいつも水野竜也の前で、挙動不審になってしまうから。 「…あー、くくっ、ちゃん、おもろいなあ」 「ありがとう」 「いやいや、ウケた。やー、もー、そんな捻くれんでもええやん。わかっとるんやろ?今日はこいつの誕生日やで」 「…それで、友達をお祝いするために、佐藤くんはここにいるの?」 「認めないんかい!…ま、そういうことになるんやろな」 洗って返すね、と言う私を遮って、彼はスポーツタオルを私の手から奪い去ると、意外にもきちんと畳んで鞄の中へ仕舞った。几帳面なのかもしれない。 見抜かれたことに驚きはしたけれど、だからと言ってどうしようもなく、私は堅い椅子の背もたれに体重をあずけたまま、黒板へと目をやる。日付は既に明日へと書き直されていて、12月1日、師走の到来を告げている。今日は霜月最後の日、11月30日。例年よりも冷え込んでいる。 「水野くんは?」 「ん?会わんかった?」 当然のようにそう返されて、思わず反射で私は「見なかったけど」と答えてしまう。にやりと佐藤くんは口の端をあげて、ふうん、と意味深な表情だ。何故私が図書館に行ったことまでバレているのだろう、と考えたところで、エナメル鞄の横にあるビニールのショップ袋に思い当った。半透明のそれは、中身がハードカバーの単行本であることくらい、すぐにわかる。 別に水野くんを追って図書館に行ったわけではない。彼が図書館に向かったことはわかっていたけれど、私は私で、借りたい本があったから向かっただけだ。決して下心があったわけじゃあ、ない。多少の期待もあったことは認めるけれど、あくまでも目的は本を借りることだった。だから図書館では一直線にお目当ての本棚へ行き、本を借り、そしてまっすぐ帰ってきた。誰に言い訳するわけでもないけれど、一気にそこまで思考を巡らせた。敢えていうなら、自分自身に言い訳をしたのかもしれない。 「あいつ、頑固やから」 唐突に会話が再開される。あいつ、とは当然水野くんのことだろう。 「自分の誕生日、人に言いふらしたりせんかったやろ?けどあれでガキっぽいとこもあんねん。内心はお祝いされたいんやって。せやからこうして何の前触れもなしにここで待ち伏せしとって、何か奢ってやったりすると、喜ぶんや」 「…ああ、なんかそんな感じだね」 「盛大に祝ったりするとそれもまたいらんプライドのせいで素直にならんから、こっそりやるのがポイント」 ちゃんも明日さりげなくお誕生日おめでとって言うてやって。佐藤くんはそれを言い終えると、再びメールを打ち始めた。カチカチカチ、ボタンが押される小さな音が、耳に残る。 水野誕生日おめでとー、昼間小島さんが言っていた。その声が、頭の中で反芻する。ちょっとだけ目を見開いて、ありがとう、と素っ気なくいった水野くんの横顔は、心なしか嬉しそうだった。それに続こうとしたけれど、同じく小島さんの言葉を聞きつけた男子が数人彼を取り囲んでしまい、それは適わなかった。騒ぐなよ、とくすぐったそうに照れながら素直になれない水野くんに、私が見たいのはその顔じゃない、と思った。だから、どうすればいいのだろう、と悩んでいたのだ。そしたら。 「…シゲ?」 私が開けっ放しにしていた扉の向こうに、いつの間に戻ってきたのか水野くんがいた。佐藤くんは片手をあげてそれに応える。「さん?」私の存在にも気づいたようで、水野くんはさっきよりも驚きを含んだ声で私の名を呼んだ。 「タツボーン」 「タツボンはやめろってお前何回言えば…」 「誕生日おめでとー」 しかめっ面をして文句を連ねた水野くんの言葉を遮るように、佐藤くんはさらりと言った。続けようとした言葉を喉の奥で飲み込んだらしく、水野くんは口を中途半端にあけたまま、ぽかんとした表情になる。とん、と佐藤くんに小突かれて、私も慌てて同じ言葉を口にした。 「水野くん、誕生日おめでとう」 一拍間をあけてから、彼は嬉しそうにはにかんで、そうして「ありがとう」と言った。小島さんに返した時よりも、柔らかい言葉と笑顔だった。 私が見たかった、水野くんだった。 「じゃあね、」 佐藤くんタオルありがとう、早口でそう言うと、私は勢いよく椅子から立ち上がる。え、と戸惑うような声を出す水野くんの横をすり抜けて、私は廊下に出た。佐藤くんの顔は、簡単に想像できて悔しかったので、振り返らない。 ざあざあと、相変わらず雨は降り続けていた。 END 水野くんを一番じょうずに甘やかすのはシゲだよっていう話が書きたかった。 夢だと言い張ります。女子の入れない男の友情って良いよね。 たっちゃん遅れた上にこんなのでごめんね愛してる。 11年12月03日 |