「あ、間違えた」 券売機の前で小さな切符を手に黒子がそう呟いたのを、火神は偶然見ていた。「間違えたってお前・・・・」呆れながら近づくと、黒子はどこか拗ねたような顔で「仕方ないじゃないですか」と切符を睨む。ひょいと火神の後ろから現れたのは木吉で、大げさに驚いた顔をしてみせた。 「黒子・・・・お前パスモかスイカ持ってねーの?」 「定期ありますけど、普段チャージしない派なんで」 「なんで?便利なのに」 「ぱすも?すいか?」 「火神も持ってねーの?つかお前帰国子女だから知らねーのか」 ICカード乗車券について語り始めた木吉を余所に、黒子は再び手元の切符へ視線を落とす。740円の切符が手中に収められているが、黒子が欲しかったのはその半額以下、320円の切符だ。券売機画面の下にある買い間違いのボタンを押してから、乱暴な手つきでその切符を切符の挿入口へと突っ込んだ。機械の音声で払戻しを告げられて、ジャラジャラと小銭が戻ってきた。 320と書かれたボタンを押そうとして、一瞬躊躇う。どうした?と火神に声をかけられて、黒子はちらりと視線だけ彼へと寄越す。 「そうですね、便利ですよね」 「・・・・はあ?」 こっちの話です、黒子は肩に重くのしかかるエナメルバッグから定期券を取り出すと、それに1000円、チャージした。 「チャージしない派なんじゃなかったか?」 「さっきまでは」 どういう意味だ、と火神が黒子へ問いかけようとしたところで、先に改札の中へ入っていた日向の怒鳴り声が飛んでくる。「快速来たぞ!」これを逃すと次は各駅停車になってしまう。すみません!と叫びながら改札口へと急ぐ。 火神はちらりと横を走る黒子を見遣った。 相変わらず無表情だった。 帰宅ラッシュ時の下りホームは、電車の発着時間に合わせて人の波が押し寄せる。誠凛高校の最寄駅は、ビジネス街ではないため入場者で混み合うことはないけれど、結構な規模の住宅街が西口にも東口にも構えているため、夕方から夜にかけて降車する人々で賑わいを見せる。火神の家も残念ながら下り方面に3駅先にあるので、ラッシュの電車に乗り込まなければならない。日本の鉄道の時間の正確さは尊敬するが、こうも混み合うのは本当にどうにかして欲しかった。ニューヨークの地下鉄でさえ人が多くて嫌な思いをしていたというのに、それが今となっては懐かしい。文句も言わずにぎゅうぎゅうに箱詰めにされる日本人の神経が火神にとっては理解し難い。 少しだけ練習が早めに終わり、火神が駅へと向かうと、いつもよりも混雑していた。ちょうどこの沿線の帰宅ラッシュのピークにあたる時間帯なのだろう。いつもの電車でも嫌だというのに、こうも人でひしめき合った電車に乗る気にはなれない。仕方なしに火神は一度入った改札を抜け、行きつけのファーストフード店を目指した。 いらっしゃいませー、元気の良い店員に迎え入れられ、火神は店内へと足を踏み入れた。部活帰りの生徒で賑わっているが、座れないほどではない。いつもの電車まであと30分、長居をする時間でもなかったので、飲み物だけを注文した。注文する際に、今キャンペーン中で半額となりますがいかがですかと店員が指差したメニューは、バニラシェイク。嫌でも思い出すのはいつもここでそれしか頼まないチームメイトの黒子テツヤで、まさか今日もいるのではないだろうかと火神は店内を見回した。見回したところでどうせ気づけないのだけれど、そうせずにはいられない程度には、黒子との遭遇率が高いのだ。コーラのLサイズを店員から受け取って窓際の席へ向かう。 と、思い切りため息が出た。 「・・・・なんでいんだよ・・・・」 着席する前に気付いた、ということでもちろん黒子テツヤではない。彼ではないけれど、それ以上に厄介な人物がいることに、火神は思わず盛大なため息をついてしまったのだ。ため息をつかれた相手は、若干眉根を寄せたけれど、火神へ向かって手をあげた。 「よう、元気か」 「今元気なくなったっつの」 ひでーなあ、と笑いながら言うのは、キセキの世代エース、青峰大輝。 「何してんだよ?」 「こっちの台詞だよ!ここは誠凛の最寄駅だっつの」 「知ってるよ、さっきまでテツに呼び出されてたからな」 「・・・・知ってるのになんで聞きやがった・・・・!?」 火神大我には、バスケ関連のこと以外で青峰大輝とまともに会話出来た記憶がない。キセキの世代と言われた連中は、揃いも揃って曲者揃いで、傲慢で自分勝手な男が多いのだけれど、このエースは群を抜いていた。 目が合ってしまってついでに言うならば会話までしておきながら、別のテーブルに座るというのもなんだか気が引けて、火神は仕方なしに青峰の向かいへと腰かけた。何でそこ座んだよ、と青峰からの文句を頂戴したけれど、この際気にしないことにする。 「もしかして24分の快速待ち?」 片手にドリンクだけの火神を見て、青峰が聞いてくる。 「あ?あー、そう。何、お前もなの?」 「そー。俺ん家終点だからどうせその前で行ったって接続すんのそれなんだわ」 ほんと遠いしめんどくせー、青峰は大きな口をあけて欠伸をした。 青峰に会うのは、先日の桐皇戦以来だった。負かした相手に会うのが気まずい、などという繊細な神経は持ち合わせていない火神は、むしろこの男に勝ったのだということが、実感として沸き起こってくる。目の前で気だるそうに通行人を眺めている青峰が、これまでの高圧的な雰囲気を纏っていないせいに違いなかった。 「んだよ、じろじろ見て」 「別に」 「・・・・お前といいテツといい・・・・負けた相手に優しさってもんはねえのかよなんで前座んの」 「はあ、っつか黒子は何の用だったんだよ?」 「そんなんバスケ以外ねーだろ」 答えになっているようでなっていない返事が返ってきたけれど、追及するのは面倒で、火神はその会話を終了させた。シュートを教わるだとか何とか、相田が言っていた。きっとそれなのだろう。 「未だに会ってバスケしたりすんのか?」 「あ?テツと?」 「っていうより、黄瀬とか緑間とかも」 「いや、しねえな。試合で会ったのが中学卒業して以来だったし。テツだってそうなんじゃねえの」 言われてみれば、黄瀬が誠凛に乗り込んできた時も、同じようなことを言っていた気がした。バスケがなきゃ用はねえし、そうぼそりと言う青峰の表情は、外を向いているせいでよく見えなかった。 特に続ける会話も見当たらず、火神は黙ってコーラを吸っていると、おもむろに青峰が立ち上がった。壁にかけられたシンプルな時計の針はまだ10分で、お目当ての快速にはまだ幾らか早い。 「早くねえか?」 「このまま行ったら電車まで一緒になるだろーが。めんどくせー」 お前ともバスケ以外は用ねえの、青峰はそれだけ言い残すと、そのまま店を出て行った。 バスケ以外は用はない、言われた言葉を脳内で繰り返してみる。なるほど、それは事実かもしれない。火神がこれからもバスケを続ける以上、あの天才はいつだって壁となって立ちふさがるだろうし、追い越してやりたい目標でもあった。バスケ以外用はない、言い換えれば、バスケでは用がある、バスケにおいて欠かせないということだ。バスケ以外、と言うけれど、火神にとってバスケが生活の大半を占める以上、それだけでもう随分な割合になってしまう。それは青峰大輝という男も同じはずだ。 そしてそれは黒子テツヤもまた然り、だ。火神と青峰も大概バスケ馬鹿だけれど、彼らと比べても引けを取らないくらい、黒子もバスケ馬鹿だった。だからこそ、彼が中学三年間を捧げた帝光中学バスケ部の部員たちは、きっと黒子の生活の様々なところに浸透していたに違いない。 黒子とキセキの世代の間で、何かがあったことは本人に聞いた。けれど、その詳細は不明で、憶測で判断するしかない。今彼らの間に横たわる溝は、決して浅くないように感じるし、元チームメイトという割にどこか余所余所しい。 どうでもいい、と言えばどうでもいい。 火神と黒子の関係は、現在で結ばれているのであって、過去は関係ない。 火神に取っては、関係ない。 けれど黒子にとって、関係ないとは言えないだろう。人は過去を切り捨てて生きることはできない。過去に追いすがるようなことはしないけれど、その反動なのか、黒子はやけに過去を切り捨てようとする節があった。 かつて家族よりも時間を共にしたチームメイトを、そう簡単に切り捨てられるのだろうか。 バスケだけではない。多分、日常にも入り込んでいる。 ジャラ、と火神は首から下がるチェーンを辿り、指輪に触れた。 思ったよりも冷たかった。 「あ、間違えた」 少し急ぎ足で改札口へ向かう途中、券売機の前に立つ青峰に火神が気が付いたのは発車2分前だった。聞こえてきた言葉にデジャヴを覚えながらも、その場で間違えた切符の処理に困り始めた青峰に思わず「良いからとにかく乗らねーと次また30分後だぞ!」と声をかけてしまったのは、火神の性格のせいだった。 発車ベルがなる電車になんとか滑り込んだ火神と青峰は、ガクンと揺れた車内でため息をついた。お互いに顔を見合わせて、もう一度。 「はー・・・・なんのために早く出たんだよお前・・・・」 「俺のせいじゃねえだろ」 「あ!?お前俺が声かけてなかったらなあ・・・・!あー・・・・お前なんか乗り遅れればよかった」 「で?乗ったはいいけどこれどうすりゃいいわけ」 青峰が握っていた手を開いて彼の掌に現れたのはオレンジ色をした小さな切符。券面には740円の文字。 「どうって・・・・知らん」 「使えねー!」 「何でなんでも俺を責めるんだよ!?ほんとはいくらの切符買おうとしたんだ?」 「わからん」 「はあ!?」 「いや、金額確かめずに前のくせでこれ買っちゃったんだっつの。中学ん時週末に練習に通ってた市民体育館からうちまでの金額。740円」 家と学校の往復以外で電車なんてそれ以外乗らねえしよー、青峰はがしがしと頭を掻いた。 「あー、スイカに入れときゃよかった」 「・・・・チャージしない派?」 「あん?まあ、そうだな。だって嫌じゃん、入れとくと定期切れた時に気付かねーし」 「それ、誰かに聞いたのか?」 「は?や、俺の持論だけど、何で?」 別に、と火神は言った。 揺れる車内から、夜の街が流れていくのを眺める。いつもよりも星が瞬いていた。 日常の些細なこと。 些細なことから、垣間見える、彼の過去。 |