下を向いたら駄目だと思った。 だから反射的に上を向いた。顔を洗おうと前かがみになりかけた黄瀬が、急に思いっきり背筋を伸ばして上を見上げたものだから、隣にいたどこかの生徒が驚いてそそくさとその場から去って行った。 試合に負けた。 もっと正確に言うならば、青峰に負けた。 青峰大輝は黄瀬涼太がバスケを始めるきっかけとなった男だ。その圧倒的パフォーマンスとも言える青峰のバスケに魅了され、憧れ、バスケ部に入部した。大抵のスポーツは難なくこなせてしまう黄瀬にとって、同級生で自分の物にできない動きをしてみせたのは青峰が初めてだったので、黄瀬が彼に向ける感情は、もはや崇拝に近かった。無意識にしろ、彼は黄瀬の中で雲の上の存在になっていたのである。 憧れだった。 青峰君は光です、と言ったのは、元チームメイトの黒子テツヤである。黒子自身の、バスケのスタイル上、その言葉は的確である。しかしそれだけではなかったと黄瀬は感じている。バスケをやる上でのパートナー、対になる存在。それだけじゃあ、ない。青峰大輝という男は、存在がきらきらしていて、彼が存在するだけで、コート上の空位が変わる。そういう神様から愛されたような存在に、黄瀬は憧れていた。憧れていたけれど、彼になりたいなどと思ったことはなかった。それは、彼が味方だったからである。 高校になって、中学時代の部活仲間は皆バラバラになった。 あの紫原と赤司でさえ別々の高校に進学したのだから、他のメンバーが同じ高校に進学するなど、ありえなかった。 そうして、青峰大輝が敵になった。 憧れで、頼もしい存在だった彼は、目の前に壁となって立ちはだかった。 その壁を突破する方法は、ただ一つだった。 「きーちゃん?」 高い声が聞こえてきて、黄瀬はゆっくりと視線を落とす。視界の端に捉えたのは、見慣れた髪色で、風に靡いて黄瀬の視界に入っては消えを繰り返している。試合の余韻が残る体育館裏の廊下は幾らか騒がしい。鉄の扉に向こう側、コートからの喧騒は、随分と遠くに聞こえた。 「桃っち、どもっす」 「うん」 会えば無邪気に話しかけてくる桃井さつきも、今回ばかりはその距離を測りかねているのか、一言返事を返したあと、黙り込んでしまった。人一人分空けて留まったまま動かない。 何故だろう、と黄瀬はしばし逡巡して、ああそうか忘れていた彼女も敵だった、と思い出した。青峰大輝の側にいることを選んだ彼女は、当然、今の黄瀬の敵である。 「何か用スか?申し訳ないっすけど、今あんま余裕ないんで、また今度でいいスかね」 憧れだった男を超えるため、自分の限界を超えた。肉体的な限界はもちろんのこと、それ以上に精神的にも限界だった。極限状態、という言葉がパズルピースのようにぴったりと当てはまる。 憧れだったけれど、超えたくて、超えるために憧れが憧れではなくなって、だけど超えられなくて、でも憧れには戻れない。 あれこの感情どこにどう行きつくのどうすればいいのぐるぐるする気持ち悪い。 「ねえきーちゃん、まだ青峰くんのこと、好き?」 てっきり去っていくとばかり思っていた桃井は、黄瀬の予想に反してまだそこに留まっており、かつ唐突に質問をしてきた。振り返るのさえ億劫で、首を動かすことさえ身体が悲鳴を上げながら拒否してくるので、黄瀬は上を向いたままそれに応える。 「なんつーかすごいこと聞いてくんね・・・・それ聞いてどうするんスか?」 「確かめたくて」 「?」 はい、と桃井から差し出されたのはタオルだった。何故それを持っていたのか、そもそも自分に渡していいのかと疑問に思わなくもなかったが、黄瀬はありがたくそれを頂戴した。ばさりとかぶる、視界が狭くなる、暗くなる。 「やーっぱさあ、」 何でもないフリをしようと発した声は、想像以上に大きく廊下に凛と響いた。今どれくらいこの場に人がいるのか、上を向いてかつタオルをかぶってしまった黄瀬にはわからなかったけれど、もういいやと腹を括る。 「青峰っちはかっこいーんスわ。何あれ。反則でしょ」 「・・・・うん」 「ずっりーよあの人、かっこよすぎ」 「うん」 「倒したいけど、それとこれはまた別の話」 そう簡単には今までの感情捨てらんねっス。 おまけのように付け足した言葉は、打って変わって小さかった。もしかしたら黄瀬以外には聞こえなかったかもしれない、と彼は思ったが、隣の桃井から、はっきりと「うん」、力強い返事が返ってきた。 「青峰くんは変わっちゃったけど、きーちゃんはそれ、変えないでね」 「・・・・どうだろ」 「大丈夫よ、テツくんがいるもの」 「・・・・」 「だから大丈夫なの。だからお願いね、約束よ」 ぱたぱたと足音が遠ざかる。今度こそ桃井が離れていった。 何がお願いだよ、と黄瀬は哂う。随分と残酷なことを言われたような気がして、じくじくと胸の奥が痛い。 黄瀬ができなかったことを、ああでもきっと黒子ならやるのだろう、とそう思う気持ちは何の確証もないけれど、自信があった。 下を向いた。 視界は、遮られている。風邪でタオルが飛ばされないように、しっかりと握った。 |