紫原は音の無い部屋の中で、そろりと上半身を起こした。視線だけ流して確認した時計は、まだ朝の5時。太陽が昇るまで、まだしばらくある。寒さに震えながらエアコンの電源を入れる。しんと静まり返っていた室内に、ヴン、と起動音が響いた。
 学校が無くて良かった、と思わずため息をつく。いや、そもそも明日は学校が休みだからこういう事態になったのだ、と思うと、昨日の自分に心底腹が立つ。
 漫画やドラマでしか見た事の無いような事態が、まさか自分の身に降りかかるとは思ってもみなかった。寒さ故に低速回転になっている頭で、今の状況を分析してみたが、事実がただ横たわっているだけで、何の意味も為さない。じろり、と音がしそうなほどに無遠慮な視線を隣で眠る人間に向ける。すうすうと規則正しい寝息を立てているのは、氷室辰也であった。すっぽりと毛布にくるまっているものの、その下は裸である。

「意味わかんねーんだけど…」

 紫原は途方に暮れたように、覇気のない声で呟く。目が覚めたら裸の男とベッドで眠っていた!だなんて、紫原の兄や姉が聞けば卒倒しそうである。女ならまだ良かった、いや良くないんだけど、まだ良かった。紫原は混乱する頭でそう考える。そうなのだ、部活の先輩で別になんの関係もない氷室辰也が肌着の一枚も身に付けずに眠っていることが問題なのだ。いやでも仕方なかった、誰に言い訳するわけでもなく、自分に言い聞かせる。
 事の発端は、昨夜消灯時間後に氷室が訪ねてきたせいだった。





 寮の部屋に鍵などかけていない。
 幸いなことに陽泉高校バスケ部の寮は一人部屋である。長い一週間が終わり、明日は午前に部活があるだけだった。紫原が消灯時間が過ぎて軽く一時間は過ぎていた。妙に目が冴えていて、中々寝付けなかった紫原が、ようやくうつらうつらとし始めた時だった。鍵のかかっていない部屋の扉が、ギィ、と遠慮がちに小さく鳴いた。寝ぼけ眼でドアの方を見遣ると、少しばかり空いた部屋の隙間から、するりと誰かが中に入り込んできたのがわかる。どうせバスケ部の誰かが何かを借りに来たのだろうと気にしないでいると、あろうことかその人物はベッドに潜り込んできた。「っ、ちょ、なに、っていうか誰!?」眠気など一気に吹き飛び、紫原が抗議の声を上げると、ふいに口を塞がれる。一瞬恐怖に陥るが、視界に入った顔は見慣れたものだった。

「しっ、ばれるだろ」

 ばれて困んのはアンタだけだよ、と思いつつも、紫原が大人しくすると、氷室は満足したように微笑み、手を離す。この男の奇行にもいい加減慣れてきた紫原は、咎めるのも面倒で、今度はなに、とぶっきらぼうに聞いた。

「寒くないか?」
「…はあ?」
「だめだ、今日は寒い。寒いのに暖房は自動で切れるとか信じられない」

 確かにここ数日、ぐんと気温が冷え込み、朝方寒さで目が覚めることもあった。初めて秋田で越す冬に、紫原も海外生活が長かった氷室も辟易していたのは事実である。年が明けてからというもの、連日最高気温は氷点下で、人が住むところじゃない!と紫原は日々文句を言っていた。北海道の方が寒いなどと、より北の地域を比較に出されようとも、南から来た紫原にとっては何の慰めにもならない。とにかく冷え込むというのに、どういうわけか消灯時間後は自動で暖房が切れる仕組みになっており、紫原は仕方なく防寒着を着て眠っていたほどだった。
 なので、寒いという氷室の意見を否定するつもりは毛頭ない。ただし、だから何だという気分だった。眠りの世界に入りかけたところを、強引に現実へ引き戻されることほど不快なものはない。

「寒いのなんて今に始まったことじゃないじゃん。何なの、俺眠いんだけど、出てってよ」
「俺も眠い。でも寒い。だから暖を取りに来た」

 紫原が制止する声も聞かず、氷室はあっという間にベッドに潜り込み、勝手に紫原の腕の中に収まった。背を向けているので表情は見えない。

「…暖って俺のことかよ」
「ほら、遭難したときはひと肌で温め合うのが良いって言うじゃないか」
「遭難してねーし俺はそこまで寒くない」
「今は寒く無くてもどうせ明日の朝目が覚めるぞ。今季最低だった」

 げっ、と紫原が思わず口にした。氷室はその気持ちわかるぞとでも言うように頷き、ちらりと紫原を見上げる。月明かりは無いはずなのに、積もった雪のせいで外は妙に明るい。ほのかに浮かび上がる氷室の表情は、何かロクでもないことを企んでいそうだった。反抗すると面倒臭そうだと紫原は腹を決め、そのまま目を閉じる。恋人でもなんでもない、しかも男の先輩と何故ベッドを共にしなければならないのかという問いは、寒さと眠さのせいでどうでも良くなった。反抗してこない紫原に、気を良くしたらしい氷室も、それ以上は何も言わなかった。睡魔のせいで紫原の思考が正常に動いていないことを、良くわかっていたのだろう。それまで背を向けていた氷室が、急にくるりと向きを変え、紫原の頬に手を伸ばしてきても、紫原は何とも思わなかった。するりと撫でていく男の手は、妙に冷えている。つめたい、と唇だけ動かして言うと、氷室がにやりと口の端を上げる。じゃあ分けてくれないか、と目の前の男が言った。なにを、と紫原が返すよりも先に、唇が塞がれた。最初の時と感触が違う。手じゃない、と紫原の脳が判断した時は、もう手遅れだった。





延長戦開始

いつまで続くのか





「…流された俺も俺だけどさあ」

 はああ、と長く大きく紫原が後悔のため息をつくと、氷室がうっすらと目を開けた。何を言うだろう、と紫原は声をかけずに見下ろしている。数回ゆっくりと瞬いて、それから氷室はいつもと変わらぬ調子で、「おはようアツシ」と言った。
 殴った。

「っい、たいだろ!」
「他に言うことあるんじゃねーのかアンタは!」
「他に?朝起きて言うことなんて世界共通だろ?」

 いや謝れよ、とつっこみを入れそうになって、紫原は、はたと口を閉じた。睡魔のせいであまり覚えていないが、別に拒否した覚えもない。謝れというのは何だか違う気がした。まだ5時じゃないか、と時刻を確認した氷室は再び毛布に包まってしまう。紫原が何も言えずにいると、不思議そうに見上げてきて、ほら、と手を差し伸べた。

「寒いだろ?おいで」
「…………」
「アツシ?」
「…もーなんでもいいや…」
「うん、何でもいいさ」
「…そうじゃなくて…いや、もういい…」

 飛び越えた一線について、考えるのは後にしよう。まるで何もなかったかのように普段と変わらぬ顔で紫原を見上げる氷室を見て、紫原はそう腹を括った。そうしてまた、暖かさに包まれる。もう眠れないだろうと思っていたはずなのに、いくらも経たぬうちに再び眠りの世界に落ちていった。



 


紫氷の始まりはこんな感じでいいなって思っていました。


back