悔しいという感情は、昔から持ち合わせていた。 思っていたように身体が動かなかった。将棋で勝てなかった。そういう、些細な出来事に対して、どこかで悔しいと思っていた。 けれど、涙が出るほど悔しい経験をしたのは、あの試合が初めてだった。情けないと思ったし、不甲斐無い自分を恨んだりもした。 それは決して気持ちの良い感情ではなかったはずなのに、妙にすっきりした自分もいた。 それはたぶん、一人じゃなかったからだ。 前を行く自分よりもひとつふたつ上の先輩も、隣を歩く相棒も、皆立ち止まって泣いていた。感情を共有することに意味があることを、実感したのだった。 だからこそ、ぼんやりと思い浮かんだのは、一度だって弱音を吐かず、自分を奥底まで仕舞い込んでまで、道の先に君臨し続けた、あの男だった。 「今回の試合は、本当に誠凛天晴れとしか言い様がねえな」 興奮冷めやらぬ、といった風情で高尾が熱っぽく言った。ウインターカップの決勝戦を観戦した帰り道のことだ。誠凛と洛山の激戦に駆り立てられたのだろう、せっかくのオフだというのに、緑間と高尾は連れだってバスケをするために学校へ向かっている。特にどちらかが誘ったわけではなかった。ただ、向かう先は伝えるまでもなく同じだった。 「ふん、次こそは勝つのだよ」 「真ちゃん、お前この間から大体それしか言ってねえの気づいてる?」 気持ちはわかるけどね、と高尾が続けた。スポーツの世界は誰にでも平等で、そして厳しい。どんなに良い内容の試合をしたとしても、残るのは勝敗が記された数字だけなのだ。秀徳高校は洛山高校に準決勝で敗れて3位になった。血の滲むような努力をしたとか、絶妙なプレーを残したとか、そういう曖昧なものは、個々人の記憶に焼き付くことはあっても、脈々と続く高校バスケットボール界にはいつまでも残らない。 別に緑間はそれを可笑しいとも、自分が覚えていればそれでもいいとも思ったことはない。事実あるのみなのだ。そして、だからこそ、前を向いていなければならない。悔しかった思いは全部共有して飲み込んだ。捨てはしない。しゃんと背中を伸ばして前を向く原動力になる。 「真ちゃんさ、」 駅の改札について目的地へ向かう列車が何番線に到着するのか確認しながら、高尾が何でもない風に声をかける。緑間は返事の変わりに彼を振り返った。高尾は相変わらず電光掲示板を見つめたままで、視線は絡まない。 「赤司が負けて、清々してる?」 3番線ね、と確認を終えて、高尾は緑間の隣に並ぶ。同じようにウインターカップを観戦したらしい同年代の少年たちの流れに沿いながら、雑然とした改札内を進む。階段を上る高尾は、やはり緑間の方を見ようとはしなかった。敢えてそうしているわけではないのだろうが、緑間から見える横顔からは、何を考えているのか上手く読み取れない。 「そういうお前は、どうなのだよ」 「んー、まあ、正直ちょっとは清々したぜ。うちが負かしたかったっていうのは事実だけどさ」 「俺も同じだ」 緑間の答えを受けて、高尾はうんともそうともつかない、音だけの相槌を打つ。階段を登り切ってホームへ出たところで、高尾が急に立ち止まった。 「別に疑うとかそういうんじゃねーけど。なんつーかちょっと違う気がすんだよなー」 「何が」 「真ちゃんのかおー。清々しいとは違う顔してんぜ」 キセキの世代と称されて同世代の誰からも注目されていた5人組は、どうにも常人では理解しがたいような糸で絡まり合っていたことくらい、高尾もよく知っている。だからこそ、秀徳高校に入学したばかりのころは、緑間真太郎という男を心底気に食わないと思ったし、いけ好かない奴だとも思っていた。頑固で我侭で、だけどバスケは規格外に強くて真剣で。そんな男をいつの間にかチームの中心に据えていた。絡まっていた糸を解したのは、紛れもなく秀徳高校のチームメイトだった。 ただし、解したところで糸が消えるわけではない。緑間真太郎という男が歩んできた過去は事実として在り続ける。緑間自身が、それを一番わかっている。 「なんつーかね、ほっとした、みたいな顔してる」 何でだろーねえ、と高尾が他人事のように言った。フアン、と気の抜ける汽笛音を響かせて、電車がホームへと滑り込んでくる。電車が連れてきた風を受けている高尾の表情を、緑間はやはり読み取ることが出来なかった。 そうだ、俺は安堵しているのだ。 緑間は隣に立つ相棒を見下げた。この男には常々驚かされる、と変に感心していた。同時に、そういう、自分でも拾い上げられないような感情を、他人が掴んでくれることが、妙に心地よいことも実感する。高尾が緑間の感情を拾うような発言をすることに、どんな意図が含まれているのか、はたまた何も含まれていないのか、緑間には知る術がない。 ただ、それだけで人は立っていられる。 そのことに緑間が気づいたのは、つい最近のことである。敗北を経験し、落ちていきそうになる意識を留まらせたのは、高尾であり秀徳高校バスケ部であり、そして彼らを信頼出来た自分自身だった。 くだらないと思っていた。人は一人で生きていけないだとか支え合って生きていくべきだとかそういうものは。今でも不必要に他人に寄り掛かることは良しとしていない。ただ、自分がきちんと自分の足で立つために、一人で立って前を向くために、他人が必要なのだと、緑間はこのチームで初めて知ったのだった。 負けることが許されなかった、中学時代。それはたぶん、負けたら一人で立ち上がらなければならず、そしてそれは不可能に等しいことを、本能が知っていたからなのだろう。 混み合うホームから車内へ身体を滑り込ませながら、高尾がぽつりと呟いた。「赤司でも、泣くんだな」無意識のうちに零れ落ちたかのような、小さな呟きだった。いや、と緑間は力強く言った。緑間の反応が予想外だったのだろう、高尾はきょと、と目を瞬かせて、緑間を見る。何か言いかけたところで、一気に人並みが押し寄せて、あっという間に二人は離れてしまった。バスケ部が多いせいもあってか、緑間から高尾は見えていない。 多分、赤司はずっと泣いていた。 涙は見たことがなかったけれど、紫原とのゲーム以降、否、ひょっとしたらもうずっと前から、一人で感情を仕舞い込んでいた。緑間には、その片鱗が見えていたのだ。けれど、あの男が何かに圧し潰される様など当時は認められなかった。様子が可笑しいのはわかっていたし、人格が入れ替わったことも知っていた。ただ、いなくなった赤司を拾い上げることに何の意味もないと思っていたのだ。 けれど、今の自分は、他人の存在が自分の力になることを、よく知っている。 知っているからこそ、赤司の僅かな悲鳴を、聞こえないふりをした当時の自分を、少しだけ後悔していた。はっきりと後悔と言えるほど大それたものではないけれど、気づいてしまった感情は、無かったことに出来ない。 だから、誠凛に負けた赤司を見て、仲間と感情を共有した赤司を見て、ほっとしたのだ。 涙を流した赤司を見て、これが最後の涙だろう、と。聞こえていた悲鳴は、今日限りで止むのだろう、と。 車内のアナウンスが乗換駅に着くことを告げた。ぼんやりとしているうちに、いつの間にか進んでいたらしい。高尾の姿は依然として緑間からは見えない。少し勢いよく電車が止まった。開いた扉から人が一気に流れ出る。周囲の流れに身を任せて車外へ出ると、すぐに見慣れた姿が視界に飛び込んでくる。そうして、安堵する。後悔や不安が消えたときの安堵とは少し違う。 「何にやにやしてんの?あっ、さては何かエロいことでも考えてたんだろ!」 「思考回路をどう繋げばそうなるんだ?そのうちそういう馬鹿なことしか考えられなくなるぞ」 「ひっでえのー」 ぜってー今日負かしてやるかんな、と高尾が息巻く。受けて立とう、緑間が前を向く。いつもと変わらない、秀徳高校バスケ部の一日が始まるのだ。 負けても失うことのない、自分の居場所が確かに在る。 赤司にとって、緑間はそう在れなかった。 緑間にとっても、赤司はそう在れなかった。 帝光中学のバスケ部は、きっと誰にとってもそう在れなかった。 けれど、勝ち続けることでしか居場所を見つけられなかったかつての相棒にも、今の緑間と同じ景色が見えているに違いないのだ。 瞼の裏で、赤司の背中がゆらりと揺れる。 す、と水で洗い流されるように、それは一瞬で消えていく。ぱちぱちと瞬きを繰り返すと、その残像は欠片も残っていなかった。 きっと、より強くなって赤司は再び緑間の前に現れるのだろう。 それを心底嬉しいと思うし、負ける気もしない。「真ちゃん置いてくぞー」雑踏の中から響いてくる高尾の声を聞きながら、緑間はそんなことを思った。 |
集まると課題が付与される4人組がいます。 そういうわけで提出します。 一人可笑しくなっていく赤司の側にいた緑間は、何を思っていたのだろう、と思いまして。 秀徳で緑間が得たことは、他人と感情を共有することの意味、なんだと個人的に思っています。 うーん、上手く書けなかった。 |