ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら
峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから。


 



 足元を小さな桜の花びらがゆっくりと流れていく。朝から細く降り続いた春雨は、芽吹き始めた新緑の葉の間で最後まで頼りなさそうに揺れていた花びらを、容赦なく地面へと落としていた。
 桜の花びらをのせて坂道を緩やかに下っていく小さな水脈をじっと見下げながら、高尾はため息をついた。満開の時期を過ぎてしまったことは承知していたものの、今週末までは残るだろうと予想していた春の象徴の花びらは、きっとこの雨でほとんど全て流されてしまうだろう。雨模様のせいなのか、昨日までの陽気な気候はどこにもなく、今日は随分と冷え込んだ一日になった。

 思いついて花見をしようと緑間に呼びかけたのは、丁度一週間前の土曜日だった。あの時はサークルの新歓飲みの打ち合わせがてら、友人たちと桜の名所と言われる上野公園で、こんもりと花を咲かせている大木を見上げていた。春はいつだって新しい季節だ。年度の始まりを4月に制定した誰だか知らない過去の偉人を褒めてやりたいと高尾は思った。桜を見上げるだけでこんなにもうきうきとした気持ちになれるのだから、やはり何かを始めるのは春でなければならない。そんなことを思考えながら、そういえば今年はまだ緑間と花見をしていないことを思い出した。別に毎年花見をする約束をしているわけではなかったけれど、どうせなら四季の行事を緑間と過ごしたい、とこの時高尾は既に腹を括っていた。これは是非とも実行に移さなければと、アルコールの回った妙にふわふわとした気持ちのまま、緑間に電話をして約束をこぎつけたのである。

 日頃の行いは良い方だと思ってたんだけど、とこんな風に桜の花びらを流してしまった空を恨んだ。緑間と会うための理由も、一緒に流されてしまったのだ。
 
 高尾と緑間は、別々の大学に進学した。何もなくても毎日のように顔を合わせていた高校時代とは違い、どちらかがコンタクトを取らなければ会うことも無ければ声を聞くこともなくなる、ということに高尾が気づいたのは、大学一年の秋頃だった。入学したての頃は親しい友人もまだおらず、誰からともなく頻繁に高校のクラスメイトや部活仲間と集まっていたものの、それぞれが大学での人間関係がある程度築き上げられると、各段にその回数は減っていった。それはごく当たり前で普通のことなのだけれど、ぽっかりと何かが欠落したのもまた事実だった。多分、それに気づいてしまったのがいけない。緑間と会えば、その大きさに差はあれど、どうしたって幸福感を得る自分に、いい加減諦めろと言い聞かせる羽目になった。緑間真太郎は高校の頃の友人である。バスケはもう辞めている。そんな彼と会う口実など、季節の行事にでも頼らなければ、中々思いつかなかった。考えすぎなのかもしれないとも思うけれど、他人に意見を求めるわけにもいかないので、結局答えは導き出せていない。
 
 緑間には昼頃にメールを送った。花見できねーな、リスケする?自分でも文章を打ちながら笑ってしまうほどに本心とはかけ離れている。ぱらぱらと振り続ける優しい雨音が、今日はひどく煩く感じ、高尾は特に用も思い浮かばないまま、気づいたら電車に揺られていた。そうして結局花見をするはずだった公園の最寄駅で降り、未だ降り止む気配のない雨空の下を歩いている。地上出口のすぐ目の前は坂道になっており、坂をのぼり切ったところにある公園から、雨水が水路となって桜の花びらを運んでいる。
 この付近に何かあったっけ、と暇を持て余して携帯電話を取り出せば、ぴかぴかと青いランプがメール受信を告げていた。緑間からの返信だろうという高尾の読みは当たっていて、名前の字面を見ただけでどくんとひとつ心臓が跳ねあがった気がした。気のせいだと思いたい、と言い聞かせてメールを開封する。予定を空けているんだが。たったそれだけ記されている。「・・・・もーさー・・・・そういう言い方さあ、」高尾は長い長い溜息をついて、思わずその場にしゃがみ込む。「期待するじゃん、って女子か俺は!」自信の発言を否定するように頭を振る。『じゃ、予定通りで!』高尾は素早くそう返信すると、乱暴に携帯電話をポケットの中に押し込んだ。
 
 
 
 前に黄瀬から聞いたおしゃれな雑貨屋に寄り、集合時間15分前に待ち合わせ場所のアーケード街に向かうと、既に緑間がすらりと背筋を伸ばして立っていた。バスケ部ばかりの環境にいればそれほど目につかない彼の長身も、日常生活に紛れ込むと否が応にも目をひく。同性から見てもやはり背が高いというのは憧れの対象で。まだ数十メートルも先にいるというのに、一目で緑間だとわかるくらいだ。高尾とて一般男性の平均よりは高いのだけれど、人混みの中では紛れてしまう。学生が多い町なのか、若い人たちで賑わっている。ふいに緑間が右手を上げた。誰か知り合いでも見つけたのだろうか、と高尾はその様子を遠くから見つめている。けれども着々と近づいていっても、彼の右手は下げられない。不思議に思いながら、とうとう緑間の半径3メートルのところまで来てしまった。見れば表情は明らかに不機嫌である。

「どした?」
「どうしたも何も、高尾こそ何故何も反応しない?」
「・・・・もしかして俺に向かって手上げてたの!?」
「他に誰がいるのだよ!お前、ずっとこっちを見ていただろう!」
「えー・・・・見てたけどさあ、気づいてるとは思ってなかったもんで・・・・」

 あの距離で気づいていたとは、と高尾は驚きながら、ごめんて、と合掌して見せた。はあ、と緑間はこれ見よがしにため息を吐いて見せたけれど、それ以上は何も言わない。

「んで、気を取り直して、どこ行く?真ちゃんこの辺で行きたいとことかあんの?」

 もともとはコンビニなんかで適当に酒と食糧を買い込み、公園で花見をする予定だった。それが雨のせいで花見が出来なったわけだが、そもそも中止になると予想していた高尾が、何か調べているわけもなかった。けれども、学生風の人たちも多く見受けられることから、居酒屋なども期待できそうである。きょろりと高尾が辺りを見回そうとしたところで、「当然、調べてきた」と、緑間が真面目な顔で頷いた。

「当然!?」

 高尾はまたもや驚いて思わず高い声が出た。

「抜かりはない」
「まじかーさすが真ちゃんだわーまかせるわー」
「前から思っていたがお前はそうやってすぐに他人まかせにする傾向があって、」
「あーあーわかったわかった言いたいことあるのはわかったけど今日は真ちゃんが調べてきてくれてるんならそれでいいじゃん、どっちにとっても良いことじゃん」

 で、どこなの?高尾が緑間を見上げる。緑間は何か言いたそうに片方の眉をぴくりと釣り上げたが、結局言葉を飲み込んだようで、こっちだ、とどこかに向かって歩き出した。
 緑間に連れて来られた店は、シックな雰囲気の小さな夜カフェだった。アルコールのメニューも充実している。よくこんなお洒落なところ見つけたな、と高尾が素直に感心していると、随分と得意げに、ランキングトップだ、と言った。何のだよ、とは聞かないでおく。オレンジ色の薄明かりが、外の雨と妙にマッチしている。雨と緑間は昔から相性が良い。高尾は何となくずっとそう思っている。目の前の大人びた青年に、そういう変わらない雰囲気を見つけて安心する。高校の頃と言えば、安いファストフード店かチェーンの定食屋くらいにしか行った記憶がないのに、大人になったものだと少しだけ実感した。
 白い清潔感溢れるシャツにネイビーのエプロンをつけた可愛らしいウエイトレスに飲み物とつまみをいくつか注文する。伝票にさらさらとペンを走らせた後、注文内容を復唱する。そのまま去るのかと思いきや、彼女はにこりと微笑んで、「今日はこれから小さなプラネタリウムになります。短い間ですが、星空の世界をお楽しみください」と言った。プラネタリウム?高尾が鸚鵡返しをすると、はい、とやはり微笑んだままでウエイトレスは頷いた。小さな投影機を使って、室内に星をちりばめるのだという。春夏秋冬のそれぞれの空を30分ほどゆっくりと映すらしい。説明を終えると、静かに一礼してウエイトレスは去っていった。

「春夏秋冬だって。じゃあ蟹座もあんね」
「・・・・そこは蠍じゃないのか」
「俺は別に星座占いとか興味ねえもん。蟹座の運勢の方が大事なんですー」
「なんだそれは」
「真ちゃんの左手に色々かかってたんだから仕方ねーだろ」

 軽快に高尾は笑う。もう高校は卒業し、緑間の運勢など気にする必要など何もないというのに、身に付いた習慣というのは恐ろしいもので、今でもおは朝占いでは蠍座ではなく蟹座を見てしまう。

「つーか真ちゃんよく俺の星座とか憶えてたね」
「それはお互い様だろう」
「いや、そりゃあれだけ毎日ラッキーアイテムとか持って来られれば忘れられないっつーの。俺とお前じゃ全然条件が違いますー」
「ならば俺の記憶力はお前ほど悪くないということだな」
「何でそんな話になんの!?自慢!?」

 先ほどのウエイトレスがカクテルをトレーに載せて運んできた。からん、と氷が音を立てる。普段ならば生ビールを間違いなく注文するところだけれど、店の落ち着いた雰囲気につられて飲んだこともないような甘い匂いのするカクテルを二人に注文させた。乾杯、とガラスのぶつかり合う音と重ねて二人同時に呟いたところで、ふっと店内の証明がさらに一段階暗くなった。店内もいつの間にかオルゴールの音色が鳴り止み、静寂につつまれている。満席とは言わずとも、8割ほどの席が埋まっていたが、どの客も皆これから始まるという小さなプラネタリウムに期待を寄せているようだった。オルゴールの代わりに店内に透明な女性の声で歌が流れ始める。星めぐりの歌だな、と緑間が言った。高尾が聞き返すよりも先に、小さな星々がぱらぱらと降るように散りばめられ、おお、と客から小さな歓声がわく。春夏秋冬の空、と聞いていたけれど、足元から天井のてっぺんまで方々に降る星から星座を見つけるのは中々難しそうであった。そもそも高尾は星座の形など、北斗七星とカシオペア座くらいしかわからないのだけれども。

「真ちゃんさっきなんて言った?」
「星めぐりの歌、だ。今流れてる」

 甘い香りのするカクテルを一口飲んでから高尾は耳を澄ましてみたものの、聞いたことのないメロディーだった。

「へえ、よく知ってんね」
「有名だぞ。宮沢賢治が作詞作曲した曲だ」
「宮沢賢治ってクラムボンの人?」
「・・・・」
「あっ!その表情!馬鹿にしてるだろ!」
「言っておくが小学校の教科書に載っていたあの話の題名はクラムボンではないぞ」
「え!?」
「やまなしだ」
「やまなし?果物?えー、梨なんて出てきたっけ。かぷかぷ笑う話だろ」

 緑間はその言葉には答えなかった。呆れているのだろう、切れ長の両目にはどうにも侮蔑の色が含まれていて、高尾は納得ができない。

「俺お前ほど本とか読まねーもん」
「宮沢賢治くらい子どもの頃に読むだろう」
「注文の多い料理店くらい?あっ、でも去年、人間学の授業で銀河鉄道の夜は見たよ。猫のやつ」

 急に思い出して、高尾はそうだそうだと手を打った。暗く証明を落とした講堂で、大きなスクリーンに夜空をかける汽車が映し出されていた。大半の学生がそのまま眠りの世界へと入っていったが、意外と高尾は授業中に眠くならないので、大人しく最初から最後まで、二人の猫少年が銀河を旅するのを見守ってしまった。桜は散ってしまっていたけれど、授業が始まってすぐのことだったように思う。確か去年の4月頃のことだ。内容はあまり覚えていないが、ほんとうの幸いとやらを探しに行こうと頷き合う二人を、少しだけ羨ましいと思ったことは覚えている。本当のさいわいって何だよ、と今時の学生らしく斜に構える気持ちもあったものの、それでも確かに妙に羨ましかった。
 店内をゆっくりと星々が巡るのを見遣る。こういう銀河の世界を進みながらほんとうの幸いが見つかるというのなら悪くない、なんて思う。

「銀河鉄道って憧れるよなー、あんま覚えてないけどさ、停車場とすずらんの花とか、すっげー綺麗だった気がする」
「すずらんじゃなくてりんどうだろう」
「そだっけ?まあ何でもいいや。どうよ、真ちゃん、俺と銀河鉄道の旅!」

 おどけて提案しながら、あの時猫少年二人を羨ましいと思ったのは、幸いを見つけに行くような友人がいることを指していたのかと納得した。もう多分、高尾自信が緑間に対して友情以上の感情を持ち合わせていることは、動かしようのない事実なのだった。わかっているつもりでも、こうして定期的に思い知る羽目になる。高尾はぺったりと笑顔を張り付けたまま、内心苦笑した。

「嫌なのだよ」

 高尾の気持ちなど知る由もないのだろう、緑間は高尾の問いを一蹴した。

「即答!ひっでえのー。何でだよー」
「カムパネルラの向かう先にお前と向かうつもりなど毛頭ない」
「・・・・はい?」
「さてはちゃんと見ていなかったな」

 緑間は再び呆れ顔になった。

「その猫の銀河鉄道の夜がどういうものかは知らないが、人間学の授業で上映するくらいなのだから内容に変更はないと思うがな。途中で少年と少女が降りだろう」
「あー、降りたような・・・・」
「沈没船に乗っていた少年少女だ」
「沈没船?」

 高尾は首を傾げた。説明されてもあまり覚えていないのだ。

「どちらか、または両方いなくなるということだろう、そんなものに乗る気はないのだよ」

 緑間は幾分か強く言い切った。そうしてこの話はお終いだとばかりに、残っていたカクテルを飲み干すと、ウエイトレスを呼んだ。はーい、と鈴が鳴るような良く透る声がする。そうか、とそこで初めて店内を流れる星めぐりの歌は彼女が歌っているのだと気が付いた。とても、良く響いている。



 結局その後良い感じにアルコール成分が二人の体内を巡り、楽しく馬鹿話をしてその日はお開きになった。緑間と別れて地元の駅に着く頃には、朝から降り続いた雨も上がっており、夜空を見上げると星が瞬いていた。
 ゆったりとした星めぐりの歌と、この時一等光っていた青白い星が、高尾の記憶に妙に焼き付いている。


 
 この時の緑間の発言の意味を、高尾が銀河鉄道の夜を読んでうっすらと理解したのは、それからずっと先の春のことだった。






どこまでもどこまでも一緒に行こう。





 


引用文
@ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから。
Aどこまでもどこまでも一緒に行こう。
「銀河鉄道の夜」宮沢賢治 新潮文庫『新編 銀河鉄道の夜』より

プラネタリウム見に行ってチャリア妄想するオフ会楽しかったからもっかいやりたい。
その時の課題を提出します(笑)

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