氷室が満面の笑みで紫原を誘って来る時は、大抵が面倒事かくだらない事である。
 紫原はそう認識していたし、それは彼の経験に基づいているものだったので、おおよそ間違いではなかった。そういった理由があって、部活も学校も休みの日に氷室がノックとほぼ同時に紫原の部屋に入り込んで来て「アツシ、明日空けといてくれ」と言い始めた時点で、嫌な予感はしていた。紫原が用件を尋ねて得た情報は、外出するらしいということだけ。面倒だと断っても「どうせ部屋でだらだらしているだけだろ、だったら出かけた方が良いに決まってる」と勝手に断定して颯爽と自室に戻っていった。ちょっと、と紫原が追いかけようとしたところで、壁の時計が消灯時間間近であることを告げていることに気付く。狙ってやって来たに違いなかった。こういうところが抜け目ない。時間も何も指定されていないのだから思う存分寝てやろうと決めて、紫原は腑に落ちない気持ちを抱えたまま布団へと潜り込んだ。



 それが、昨夜の出来事で、紫原は現在氷室と共にたった2両しかない電車に揺られている。秋田に来てから電車に乗る機会などめっきり減っていた紫原は、こんなにも揺れるものだったかと首を捻りながら隣に座る男を見た。

「なんだい?」
「いや・・・・電車ってこんなに揺れたっけと思って。・・・・っていうか室ちん、いい加減行き先教えてよ」

 列車に乗って、既に三十分は経過している。
 太陽光のせいなのか、自然と目覚めた紫原の隣では、当然のように氷室が眠っていた。さすがに布団の中に入り込んではいなかったが、ベッドの半分を掛布団の上から占領して、すうすうと呑気に寝息を立てていた。見れば既に外出するために着替えは済ませてあって、眠っている紫原を待っているうちに眠ったのだろう。このまま自分ももう一度眠ればよくわからない氷室の用事はキャンセルになるのではないかと期待するも、喉がからからと乾いていたし、紫原はベッドから降りたかった。仕方なく氷室を揺り起こして顔を洗いに行き、食堂で冷たい水を頂戴して紫原が部屋に戻れば最寄駅の時刻表を手にした氷室が完璧に覚醒していたというわけである。
 田舎の列車は本数が少ない。氷室に急かされるままに列車に飛び乗り、次の駅で一度乗り換えた。行先は秋田。県庁所在地である秋田市は、秋田の中ではやはり群を抜いて賑わいを見せている。何か秋田で買うものでもあるのかと尋ねたが、氷室はゆるく首を横に振り、秋田までは行かないよ、と言った。
 そのまま電車に揺られること数十分。まもなく終点も近づいている。

「もう降りるよ」

 紫原の問いに氷室は短くそう答えた。二人が乗車した時、車内は両手で足りるほどしか乗客がいなかったはずだが、気が付けば通路にも人が立っている。彼らと同じ年頃の男女が多い。休みの日に秋田に遊びに行くのだろう。けれども氷室はそれに反して秋田までは行かないと言う。車掌が聞きなれない駅名をアナウンスしたところで、氷室はロングシートの座席から立ち上がった。

「ここ?つちざき?」
「そう」

 扉を開くためにボタンを押して電車から降りる。紫原たちの他にも確かにそれなりに降りていて、乗車する人も他の駅に比べ多かった。秋田の地理などまるで覚える気のない紫原は、ここがどういう町なのか想像できなかった。彼らと入れ替わりに乗り込んだ客の数は、降車した人数よりもずっと多い。そういえば、と車窓からの景色を思い出す。山と田圃ばかりだった外の景色は、紫原たちが降りる数分前から住宅地に変わっていた。比較的人口の多いところなのかもしれない。駅名看板に書かれている次の駅は秋田なので、ここも秋田市なのだろう。
 自動改札機に切符を滑り込ませて駅舎を出る。振り返って小さな駅舎を確認した。土崎駅。聞いたこともなかった。

「・・・・何があんの?」
「港」
「はあ。港に用があんの」
「いや、そこにあるタワーかな」
「タワー?」

 氷室が空を指さした。その指先の延長上に、確かにタワーのようなものが見える。高い建物が東京に比べて格段に少ないここでは、そのタワーがとても高くて空に聳え立って見える。そう遠くはなさそうだった。

「何かイベントでもやってんの?」
「いや?昨日タイガからこんなメールが送られてきてね」

 氷室はすでに歩き出している。駅前にある和菓子屋に興味を惹かれつつも、紫原は氷室を追いかけるしかなかった。こんなところで置き去りにされても困る。帰ろうにも列車があるとは思えなかった。

「なに?」

 氷室の肩ごしに携帯電話を覗き込む。目に飛び込んできたのはテレビの画面を撮ったらしい添付されている写真だった。続いて本文に目を滑らせる。秋田の特集やってるぜ、と無邪気に問いかけてくる火神が容易に想像できた。多分他意も何もない。ないからこそ、番組の内容など気にもかけていないのだろう。写真の中のテレビには、確かに先ほど見上げたタワーが映し出されている。問題は流れているテロップだった。

「・・・・・・・・・・・・室ちん」
「ん?」
「まさかそこに行くの」
「そうだよ」

 何か疑問でも?と氷室の笑顔が続けている。馬鹿じゃないの!?と紫原は声をあげて抗議したが、既にその最寄駅まで来てしまっている以上、行かないはずがないとわかりきっている。馬鹿じゃないの・・・・ともう一度小さく呟きながら、しかし前を行く氷室に大人しくついていく。氷室もそれをわかっているのか、いちいち振り返ったりなどしなかった。日曜の昼間だというのに、人はあまり見当たらない。土地が広いせいだ、と紫原は思っている。単に人口数が少ないというのもあるだろうが、ただでさえ人が少ないというのに、広大な面積を誇るせいで、秋田は人が少ないと妙に体感する羽目になるのだ、と。

「別に良いじゃないか、どうせ俺たちは秋田出身でもないんだし、誰に見られるわけじゃないだろ」
「そういう問題じゃねーし」
「そう?ほら、それに見られてもどうせ大した人数じゃない」
「だからそういう問題じゃねーしって言ってんの。しかも人数少ない方が逆に目立つじゃん」

 情報の回る早さと町での遭遇率を思い出して、紫原は不平を言う。そこが良いところでもあるだろ、と岡村辺りが言っていたが、紫原にはまだその良さはわからない。

「日本ってこういうの多いよなあ、好きなんだろうな、日本人はこういう恋人の聖地みたいなやつ」

 Coolとやたら流暢な発音で言う氷室に、クールじゃねーよクレイジーだよ、と忌々しげに返した。やはりくだらないことだったのだ。紫原は思わず出そうになる舌打ちを寸でのところで飲み込んだ。そうとも言うな、と氷室は嬉しそうに紫原を振り返り、歩調を緩めて隣に並んだ。

「それに調べたけど、別に縁結びの神様がいるわけでもなし、恋人の聖地なんて名称はあとからついただけみたいだよ。展望台に上るだけだと思えばいいじゃないか」
「室ちんは展望台に上りたくて来たわけ」
「いや?恋人の聖地に興味があった」

 けろりと悪気なく言い放つ。

「劉とか、もっと興味ありそうなやついんじゃん」
「どうだろうな。でもどうせならお前がいいと思って」
「そう思ってそうだから嫌なんじゃん。展望台に上りたいだけならまだ良かったのに」
「ふうん、じゃあそれでも良いよ」

 紫原が嫌がっているのを、氷室はどことなく楽しんでいるようだった。思惑通りになるのも腹立たしくて、紫原は言い返すのをやめる。
 コンクリートで舗装された道をしばらく行くと、視界がふいに開けた場所に出た。貨物線のそれだという道がどう交差しているのかよくわからない踏切を超え、タワーに近づいていく。その聳えている恋人たちの聖地だというタワーの背には、日本海が広がっていた。砂浜などは見当たらない。大きな船が数隻港際に浮かんでいる。その奥には確かに港らしい景色が続いていた。無機質で巨大な機械がずらりと立ち並び、工場らしき建物も見える。

「・・・・ほんとにここ、聖地なの」
「そうなんじゃないか?」

 タワーの入口で二人分の料金を払い、エレベーターで上まであがる。タワーと言えば東京と京都のタワーしか知らない紫原には、正式名称をセリオンタワーというこのタワーは、随分と小さく感じられた。
 見渡せる景色もそう感動的なものでもない。どこまでも続く日本海と、秋田の市内、その奥に何の山かわからない青々とした山肌が見えるだけだ。
 同じような感想を持ったのだろう、氷室は一回りするともう目的はないとばかりにベンチに腰を降ろす。

「夜は綺麗なのかもしれないな」
「なんで?秋田の夜なんて真っ暗じゃん」
「うん、暗いだろ。だから港は明るくて綺麗に映るんじゃないか?」
「なるほどね・・・・で、どうなの満足した?」

 降りたいという自分の願望を言外に織り交ぜて紫原は氷室の前に仁王立ちになる。氷室が随分とゆったりとした動きで紫原を見上げ、踏み入れた時点で満足した、と言った。

「こういうことするのも楽しいなと思って」
「こういうこと?」
「デート」
「・・・・付き合ってねーし、俺たち」
「真似事はするだろ、だったら別にデートの真似事もしたっていいじゃないか」

 氷室は涼しげに笑った。
 紫原には氷室の真意などわかりはしなかった。氷室は偶に、こうして妙に紫原を試すような発言をする。狼狽えるのも否定するのも、かと言って喜ぶのも、全部が間違っているような気がして、紫原はいつもただ事実を返すことくらいしかできない。
 どういった経緯があってそうなったのか、紫原はもう覚えていないが、氷室と関係を持つようになって、結構な歳月が過ぎた。たかが数か月、と世の人は笑うかもしれないが、共に過ごす時間が二年間しかない彼らにとっては、随分な割合のように思われる。ただ、そうして身体を重ねるようになっても、明確に二人の間には付き合っているという認識はなく、いつだったか氷室があっけらかんとセフレみたいなものかな、と言っていた。部活仲間だしバスケにおいては頼りになる後輩だと思っているから少し違うか、とも。それでも多分、自分たちの間には一般的な恋人たちが持つような感情はきっと無いと思いながら、ずるずると関係が続いている。
 買い物などに二人で出かけることは少なくないが、氷室がこうしてデートなどと言い出したのは初めてだった。その意味を見つけようと氷室をじっと見下ろしてみても、答えなど出てこない。考えるのも億劫になって、紫原はすぐにそれを放棄した。

「さ、アツシ何か食べたいもの、ある?」
「えー、甘い物」
「甘いものかあ。カフェくらいならありそうだけど、とりあえず秋田まで出るか」
「え、もういいの」
「言っただろ、入った時点で満足だって」
「タワーの話じゃなくて、ここ」
「土崎って何かあるのか?」

 本当にそのためだけに来たのだ、と紫原は悟った。この男は本当に、恋人たちの聖地だなどと恐らくは集客のために後からつけられたのであろう触れこみがあるこのタワーに、紫原と来たかっただけなのだ。その真意や本気度はともかくとして、ただそれだけのためにここまで来た。
 馬鹿じゃないの、紫原の呆れを多分に含んだ声に、氷室が「ひどいな」とさして不満でもなさそうに返事を寄越す。
 エレベーターが到着して扉が開くと、同年代の男女が一組降りてきた。その横をするりと通り抜ける。女は男の腕に両の手を絡ませながら何事か囁いていた。氷室がまさかこうなることを望んでいるとは思えなくて、自分たちの行きつく先はどこなんだろう、と紫原はぼんやりと思った。




投げられずに

始まらない日日





 


付き合ってない紫氷
社会人くらいになって付き合い始める(妄想)

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