ひさかたの、と前触れなくつるりと言葉が滑り出た。 閑散とした部室、黒子の他には赤司しかいない。午前中で練習が終わった春のある日曜日だった。いつものごとくギリギリのところでハードな練習をこなした黒子は、一人体力が回復するまで体育館外のコンクリートで寝転んでいたのだ。青峰が二度ほど様子を見に来たが、先に帰ってもらった。誰かの相手をするのも億劫なほどに上がっていた息も落ち着いて、床に張り付いた背中を引きはがして部室に戻ると赤司がいた。黒子が何か言う前に、「待っていたわけではないから、気にせずに帰り支度を進めてくれ」と目線も合わせずに言う。その言葉を鵜呑みにしたわけではなかったが、黒子はそれについて言及せずに大人しくロッカーへと向かった。倦怠感の残る身体で何とか制服に着替えると、ゆっくりとベンチに腰を降ろす。隅の机で何やら書き物をしている赤司に、ふと視線を向けた。春のきらきらとした陽の光が窓から差し込み、赤司の肌を照らしている。春うららかな午後だ。あんまりにも光の中にいる彼の姿がしっくりとして、けれどどこか焦燥感のようなものも漂っているような気もして、黒子は赤司から目を離せずにいた。そうして何をするわけでもなくじっとしていたら、突然言葉が降ってきて、それがそのまま外に躍り出たのだ。 「―――光のどけき春の日に、」 ぽろぽろと言葉が続いていく。そこまでゆっくりと言ったところで、赤司が振り返り、続きを拾った。 「しづ心なく花の散るらむ、か。紀友則の歌だな。百人一首でも始めるつもりかい?」 「・・・・勝てる気がしないので遠慮しておきます。しかし作者までさらっと出てくるところがさすがですね」 「合ってた?」 「知りません」 ただ何となく思い出しただけですから、と黒子は視線を赤司から外した。初夏というにはまだ早いけれど、桜の花はとっくに散っている。何故この歌を思い出したのだろう、と黒子は少しばかり考えてみるけれど、何かに思い当るわけでもなかった。邪魔してすみません、帰りますね、黒子は学生鞄を肩に食い込ませて立ち上がる。 「お疲れ様」 今度は黒子をまっすぐ見て、赤司が言った。手元には何かのノートと、文庫本が数冊積まれている。書き物をしていたように見えたのは、カモフラージュだったのかもしれない。練習を終えてからもう二時間も経過している。やはり赤司は自分を待っていたのだろう、そう推測する。けれど赤司が最初に釘を刺しているので、今更それを指摘するわけにもいかない。結局、「・・・・用事が終わりそうなら、赤司君も帰りませんか」と知らないフリをして帰宅を促すことしかできなかった。赤司は予めそう言われることを予想でもしていたかのように悠然とした表情で、「うん、そうだね」と嬉しそうに言った。机の上の文庫本とノートを鞄に積めると、赤司はすぐに立ち上がる。帰り支度も整っていた。 「何を読んでいたんですか?」 部室の鍵を締める赤司の背に黒子が問う。カチリ、と金属が噛み合った音がして、赤司が鍵を鞄の内ポケットに仕舞う。虹村が持っていたはずの鍵だ。帰ってこない黒子にしびれを切らした虹村が赤司に鍵を押し付けたのだろうか。いや、きっと赤司が名乗り出たに違いなかった。そういえば青峰が、鍵が閉められないからどうのこうのと言っていたような気もするが、朦朧とした意識の中で聞いていたので黒子には思い出せなかった。 「草枕と山月記。ついつい懐かしくて、真太郎が読んでいたのを拝借したんだけどね」 「緑間君らしいです、その二冊」 「近代文学は好き?」 「最近、少しずつ読むようになりました」 「へえ、どっちが好き?」 「草枕ですかね」 二週間前には満開だった桜並木を並んで歩く。青々とした新緑が随分と広がっていて、桜の季節があったことさえ忘れそうになる。肩を並べる赤司の存在にもまだ慣れず、知らない世界にいるようだった。 赤司に才能を見出されて一軍の練習に参加するようになってからもう随分と経つが、まだあまり一対一で話したことはなかった。本を読む姿は度々見かけていたので、共通の趣味があることは知っていたが、中々雑談をする機会がなかったのだ。加えて、同じ本を読んでいるとも思えなかったこともあり、本の話をすることは今まで無かった。だからだろうか、こうして会話が進んでいくことに、少なからず喜んでいる自分がいる。その浮足立った気持ちが、普段ならば話さないようなことまで聞かれもしないのに話させた。 「正確には覚えてないんですけど、好きな一説がありました。春の夜に何も考えずに出かけることは幸福だ、というようなニュアンスだったと思うんですけど」 「『こうやって、美しい春の夜に、何らの方針も立てずに、あるいてるのは実際高尚だ』」 「え?」 「違うっけ。確かそうだったと思うけど」 「・・・・たぶん、合っているんじゃないですか。僕は覚えていないので正確にはわかりませんが。赤司君ってひょっとして、一度読んだものは忘れないとかそういうタイプですか?」 「内容はまあ大体。暗唱できるわけじゃないよ。ただ、綺麗な文章は覚えておこうとしているから、何となく色々覚えられるようになってね。俺の場合、そういう文章を溜めこむために読書をしているようなものだから」 小説は大体ね、と付け加える。実用書などはまた別だという意を赤司は込めたのだが、黒子には伝わっていない。大体どこの中学生がビジネス書を読むと想像できるだろうか。赤司が足した言葉にはさほど興味を示さず、黒子が驚いたのは別の言葉だった。 「綺麗な文章を覚える、ですか」 語彙が増えるからとか言葉の使い方がわかるからとか、そういう陳腐な理由ならば何度となく黒子も聞いたことがある。黒子の母親もそういうことを言っていた。そして黒子自身もそれを否定するつもりはない。もちろん読書をするのはそれだけではないのだが、赤司が述べた理由は新鮮だった。語彙が増える、とは近しいようで決定的に違う。 「古文の冒頭を、何故暗記しなくちゃならないんだって思ったことはないかい?」 「僕は好きなのであまり考えたことはありませんが、皆はそう言ってますね」 「俺もその気持ちがないこともない。視点を変えればどうとでも言えるからね。将来暗唱した古文が役に立つことなんてほとんどないのだろうし。それでも俺は、それらを覚えていくことは嫌いじゃない。残されていく言葉は、綺麗なものが多い」 「それに気づいて、覚えようと思ったんですか?」 「違うよ。母がそういう人だったんだ。家の事情で昔からかなりの量の本は読まされていたからね、機械的に読んでいく俺を見かねたのかな。美しい文章を溜めておけば、救われるような心持がするだろう?」 黒子は赤司家のことをよく知らない。美しい文章が何から救ってくれるのか、黒子は尋ねてしまいたかったが、赤司の内側に踏み込むことは何だか気が引けて、「例えば何を暗記したんですか」と当たり障りないことを聞いた。そうだね、と赤司は頭の中の引き出しから選んでいるようだ。そうしていくつかすらすらと暗唱して見せた。黒子の知っているものもあれば、知らないものもあった。紡がれていく言の葉は、確かに美しい響きや単語を含んでいるようで、普段端的な物言いをする赤司が言っているのだと思うと不思議だった。 突然、ぴたりと赤司が歩む足を止めた。黒子は数歩行き過ぎて振り返る。「忘れ物をしたみたいだ」赤司が肩を竦めている。先に帰ってくれという言葉に黒子は少し落胆した。まだ、真っ直ぐに背筋を伸ばして一分の隙もなく存在している赤司から、美しい言葉たちを聞いていたかった。「わかりました、また明日」気を落としたことを悟られぬよう、黒子は息を詰めるようにして言った。 「悪いね。またいずれ」 短くそれだけ残し、赤司は颯爽と元来た道を引き返していく。 赤司の残した、またいずれ、という言葉の意味を黒子は理解出来なかったが、きっといつかまたこうして彼と他愛もなく本の話をする機会が来るのだろうと思うと、気分は幾分か和らいだ。 夏が近づいて来る。 それから先、美しい言葉を綴る彼の姿を見ることは無くなるのだということを、もちろん黒子が知る由もない。 |
ピクシブから。そういえばこっちに載せてなかった。 国民的アイドルグループの内/山/奈/月さんが言っていたのと同じことを赤司君に言って欲しかっただけ。 |