「人って、立場で生きてんだって」

 朝から続いていた曇天は、時間が経つ毎にその色を濃くしていき、ついに泣き出した。雨の降り始めを見たのは久しぶりかもしれない、と高尾は思う。窓に映る黄瀬の表情は、ここではないどこか遠くを見ているようだった。硝子を叩く水滴にその輪郭はぼんやりと溶かされていく。

「立場で生きてる、か」
「そんなの悲しいっスね、って俺は言ったけど、何にも悲しいことなんか無いって、言ってて」
「・・・・黒子か?」
「エスパー!?」
「お前の友達にそういう話するのなんて、黒子くらいしかいないだろ」

 黄瀬は黒子の話をする時、無意識なのだろうが、伝聞した噂話を話すかのような切り口を使うことが多い。黒子っちがね、と冒頭に付け足すことはあまりなかった。多分、黒子との会話がそうさせるのだろう、あまり二人に直接関わるような話を聞いたことがない。それが黒子の癖なのか、黄瀬の癖なのかは高尾にはわからない。高校の頃はそんなこと無かったように思う。と言っても、あの頃は二人一緒に会うことが多かったせいなのだろうけれど。
 この日も、黄瀬はどこかで聞いてきたかのような口ぶりで言った。高尾の記憶が正しければ、黄瀬は昨日黒子に会っているはずで、昨日黒子っちがね、と始まってもよさそうなものだ。けれど、黄瀬は出し惜しみするように、何でもない風に会話を始めるのだ。高尾は冷めてしまったブレンドコーヒーを僅かに口の中に流し込んだ。酸っぱくなってしまった、と眉を顰め、そうしたら規制していた言葉がつい口を出た、「黒子か?」と。言うつもりは無かった。黄瀬が言わなければ。けれどこうして形として出て行った言葉を戻すことは出来ないので、高尾は黒子の話をせざるを得なくなった。

「この間会った時、『峠』を読んでるって言ってたし」
「とうげ?」
「歴史小説。黄瀬は興味なさそうだけど」

 確か長岡藩の話だったな、と高尾は記憶の糸を辿っていく。別に歴史好きというわけではないけれど、父親がその作家のファンで、実家にほとんど著作物が揃っている。長編小説が多い作家だが、その話はあまり長くは無かったから、なんとなくパラパラと読んでみたのだ。そうだ、確か主人公がそんな話をしていた。人は立場で生きている、と。

「高尾っちって、歴史興味あったっけ?」
「ないよ、実家にあったから。そういう話なんだよ、自分が置かれている立場で人は動かなければならないって感じの。で、それが何だって?」
「えーと、何だっけ。あ、そうだそうだ!そんなさ、個人は関係ないみたいなの、悲しいじゃないスか。そう言ったら、黒子っちが悲しくなんてないってあんまり強く言うもんだから言い争いになって」
「・・・・珍しい」
「へ?なにが?」
「何って、黄瀬は―――、」

 個人とかそういうのあんまり主張するタイプじゃないだろ、と言いかけて高尾は口を閉じた。自分の観察眼は鋭い方だと自負しているけれど、だからと言ってむやみやたらに人を憶測で決め付けてはいけない。時と場合によってはこれを武器に相手を追い込むこともあるけれど、今はその時ではなかった。
 黄瀬の表情は、話し始めた最初に窓硝子に映していたようなものではなかった。目の前の高尾をじっと見つめて言葉の続きを待っている。高尾は少しだけその続きを探すように考えて、視線をゆっくりと下げていく。

「お前だって、例えば芸能人としての黄瀬涼太と、こうやって学生している黄瀬は意図的に変えてるところ、あるんじゃねえの?」

 高尾の前でこうして話している黄瀬は、高校の頃から変わらないけれど、最近よくテレビで見かける黄瀬と同じ顔をしたモデルだか俳優だかは、少なくとも高尾が知らない表情をしているし、知らない声を出している。

「あー、まあ、そう、っスかね」
「だろ。その立場によって変わるのって、別に何も悪いことじゃねえじゃん。立場に合わせて自分を変えていって、それがいつかアイデンティティであり本心になることだってあるわけだし」

 高校時代の自分を振り返って高尾が付け足した言葉を、黄瀬は敏感に拾った。ふうん、と低い声で言った後に、にやりと人の悪い笑みを浮かべる。

「まるで、自分が体験したみたいに言うんスね」

 黄瀬の表情を見れば、そういう類のことを言ってくるであろうことくらい、高尾にも容易に想像できた。焦るでも不機嫌になるでもなく、さらさらと返答する。

「多かれ少なかれ、誰にだってあるっしょ、そういうこと」
「あるだろうけど、そんなに重要な意味なんて持ってない人がほとんどっスよ、多分」
「俺のだってそうだよ」
「うっそだあ、絶対嘘。あの言い方、そんな軽くなかったっスもん。――――緑間っち?」

 こてん、と首を横に傾げて、黄瀬は目を丸くしたまま、高尾を見る。先ほど憶測で人を決め付けてはいけないと思った自分を呪った。飲み込んだらこれである。黄瀬も同じような人間なのだということを、こうしてたまに思い知るのだった。先手を打たせてはいけないとわかっているつもりだけれど、偶にこうしてヘマをする。大体は高尾が予防線を張ってそれが上手く機能するのだけれど、今回はそれが出来なかった。ため息や舌打ちが飛び出しそうになるのを堪えて、そういうものを全部飲み込むように、カップに残った不味いコーヒーを全て流し込んだ。

「まあ、そうだとして。いいじゃん、終わったし」
「終わったの?」
「終わったよ、全部」
「・・・・ねえ、高尾っちと緑間っちって、終わるようなこと、あったんだ?」

 あったよ、と答える代わりに、高尾は肩を竦めただけだった。
 確かにあったのだ、そういう、終わってしまったものが。

 緑間真太郎の相棒という立場は、そこに高尾を立たせるための理由を必要としていた。だから、ライバルであって敵になろうと必死になっていた過去に蓋をして、隣に並ぶことを選んだのだ。真ちゃん、と呼ぶ自分はそうして誕生した。キセキの世代、緑間真太郎を倒そうと躍起になる自分は、封印した。そっちが、最初は本音だったはずだ。
 だけど相棒を務める期間が長すぎて、一番近くで一番努力するところを見てきて、一番緑間真太郎を知ってしまった後には、もうそんなものを掘り起こすことなど、できやしなかった。けれど、彼の相棒でなくなってしまえば、新たに見つけた自分の気持ちなど、行き場は無くなってしまうのだ。だから、高校三年間に、全部置いてきた。
 立場に、生かされていた。緑間真太郎の相棒という、唯一無二の立場に。
 それが無くなった今、どうやって緑間の隣に立てばいいのか、高尾にはもうわからない。

 終わったのだ、全部。

「・・・・よくわかんないスけど」
「うん?」
「立場が変わって終わってって言ってるんなら、また始めればいいんじゃないんスか?」
「・・・・そうだね、そう、だけど。立場が変わったわけじゃねえの」

 無くなっちゃったんだよ、と言葉にするにはあまりに残酷で、高尾はふるりと小さく一度、首を横に振った。
 雨が続いている。全部、洗い流していくような、激しい雨だった。










 


参考:『峠』司馬遼太郎著
黒子に言わせたかったけど、黄瀬と高尾の話に。なぜ。

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