「すみません、忘れ物したので、ちょっといいですか」

 黒子は、我ながらわかりやすい嘘をついたものだと思った。しかしながら、意外なことに監督からは「じゃあ先に行ってるから急いで戻ってくるのよ」という肯定の返事だった。桐皇対海常、さらに言うなれば青峰対黄瀬という、キセキの世代同士のぶつかり合いを間近で見たため、脳が興奮していたのかもしれなかった。黒子の隣を歩いていた火神だけが、一瞬不思議そうに目を細めたけれど、それでも黒子を呼び止めることはしなかった。当然だ、理由がない。
 そういうわけで、黒子は練習へと向かうチームメイトと離れ、元来た道を戻り始めた。ざわめく観衆に、その奥にはきっと桐皇か海常チームがいるのだろう。黒子はその群衆から遠ざかるように、体育館の裏手に回る。



「・・・・黄瀬君」



 そこには、金髪の少年がいた。体育館の外通路、錆びた手摺にもたれかかりながら、ぼんやりと空を見上げている。先ほどまであんなにも熱い戦いを繰り広げていた男とは思えないほど、ゆったりとした体勢だ。黒子の言葉に僅かながらに頭の重心をずらしたけれど、それだけだった。
 門をくぐる直前、黒子は何となく体育館を見上げた。記憶に焼付けようとしたのだ。そうしたら、視界の端で、金が揺れた。別にそのまま放っておけばよかったものの、気が付けば忘れ物をしただとかそんな見え透いた嘘が口をついて出てきていて、そして足は戻り始めていた。
 けれど実際対峙したところで、かけるべき言葉なんて見つからない。あれ何で戻ってきたんだっけ、黒子は考えて、それからもう面倒だから帰ろうか、とも思った。しかしながらここまで来ておいて踵を返すのもなんだか癪で、一言だけ声をかけていこう、そう決心した。

「二度目の負けですね」
「・・・・」

 言葉をかけるとしても、労いも、慰めも不要だと思った。思ったので、黒子は事実を述べるだけに留めた。そうしたら、睨まれた。心外である。心外だったので、一言だけで帰ろうと思っていたけれど、結局会話することに決めた。

「さては黄瀬君、笠松さん待ちですね?まだもう少しロッカールームから出てくるのには時間がかかると思いますが。本当に悔しいのは笠松さんたち3年ですもんね。それで負け知らずの世間知らずの黄瀬君は一体どんな慰めをしようというんです?」
「・・・・何しに来たんスかまじで・・・・当たってるだけに地味に傷つく・・・・」

 特に感情の読み取れない、相変わらずのポーカーフェイスで淡々と述べる黒子に、ほとんど無視を決め込んでいた黄瀬も思わず突っ込みを入れてしまう。人一人分空けて、黒子が黄瀬の隣に立つ。国道の向こう側、わずかながらに見える人影は、青に見えた。黄瀬もそれに気づいたようで、小さく舌打ちをする。じりじりと焼けつけるような太陽が、眩しかった。

「とうとう、離れるんですね」
「は?」
「彼らから」

 彼ら、というのが、キセキの世代、つまりは黄瀬と黒子のかつてのチームメイトを指していることは、黄瀬自身にもわかった。太陽の光の届かない薄暗い廊下で、ただじっと外を見下げる黒子に視線を投げるけれど、振り向かない。微動だにしない黒子を見ていても面白くもなんともないので、黄瀬はふたたび手摺に背をあずけ、いっそ憎らしいほどに綺麗な空を見上げる。

「っつーか別にもともとつるんでたつもりはないっスけど」
「一番仲良しだったのに?」
「それ否定したの黒子っちっスよねえ!?」

 それは僕と黄瀬君の話でしょう、どうにもちぐはぐな返答が、黒子から返ってきた。

「毎日毎日、飽きもせず1対1をしていたのは、黄瀬君と青峰君じゃないですか」
「・・・・そりゃそうっスけど。それは別に仲が良いわけじゃないし、それを言うなら何でも秘密の特訓してたとかいう黒子っちの方が青峰っちと仲良かったんじゃないスか」
「それはもう随分前の話です」
「はは、相変わらず薄情だなあ、決別した相手には、もう懐かないんスね」

 決別?と黒子は首を傾げた。決別というのなら、今までの関係を捨てた黄瀬自身だって当てはまるだろう、と思う。けれどそれを本人が否定するのだから、やはり黒子には彼ら、つまりはキセキの世代、奇跡そのものである5人を理解することは不可能なのだ、とため息が出た。そもそも、黒子自身、理解してみようなどとそんな大それたことを考えたこともないのだけれど。

「大体、離れるとか言うけど、先に俺らから離れた黒子っちには言われたくないスわ」
「僕が?離れた?先に?」

 黄瀬の言う言葉の意味を理解するのに、黒子には数秒が必要だった。とりあえず口に出して同じ言葉を繰り返してみるけれど、中々結びつかない。今となってはあまり思い出したくない中学時代を、ざっと思い返してみるけれど、どう考えても理解できない。



 勝手に才能開花させて、僕を置いていったのは君たちでしょう。



 黒子はそう言ってやりたかった。しかしこの言葉が何の意味ももたないことくらい、彼自身にもよくわかっていたので、無理矢理飲み込んだ。

「・・・・はあ、もう、本当、君たちは信じられないほど自分勝手ですね」
「何で俺今日こんなに黒子っちにひどいこと言われてんスか!?俺今日試合に負けたんスけど!!優しくしてくれたってよくね!?」
「何で僕が」

 言いながら、それでも黄瀬が黒子が思ったよりもすっきりとした表情をしていたので、黒子も少しだけ、ほんの少しだけ安心した。端から黄瀬が落ち込んでいるだなんて思っていなかったけれど、憧れが、憧れで無くなる瞬間は、結構しんどい。形は違えど、それは黒子も経験した、痛みだった。

「まあ、青峰君より君が劣っていることくらい、2年前から変わらない事実ですし」
「・・・・黒子っち俺のこと嫌いなんスか・・・・再会してからひどい・・・・」
「嫌いじゃないですけど、」





 けどきっと一生、前のようには戻れないと思います。





 言わずに黒子は、もう一度視線を落として青を探した。
 もう、見当たらなかった。






色褪せたキャンバスにさよならを






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