雲なんて一つもなかった。
 昨日の雨が残していったはずの湿気など、既に跡形も無かった。からりとした五月晴れ。衣替えをしたばかりの真っ白な制服が、太陽の光を浴びてきらきら光っている。
 いつもよりも多くの生徒で賑わう学校までの道を、高尾はゆっくりとした足取りで上っていく。普段は朝練に合わせて登校するため、もう一時間半ばかり早くこの道を歩く。その時間帯は、同じく朝練に向かう生徒しかいない。人数が増えただけで、まるで違う道のようだった。太陽の角度のせいもあるのかもしれない。活気に満ちている。
 途中、「高尾じゃん、何、へばってんの?」と笑いながらクラスメイトが足早に追い抜いていった。「ちっげーよ!」と反論しながらも、歩く速度は比較的遅めのままだ。

「朝から何も急がなくったっていいじゃんねえ」
 高尾は足取りにつられて、どうにも間延びした声で隣を歩く緑間に声をかけた。右手に持つ本日のラッキーアイテムだという観葉植物に気を遣いながら、緑間は慎重に歩を進める。肯定も否定も返って来なかった。何だって受け皿ごと持ってきたのだろう、と高尾は不思議に思うけれど、大方教室に置いておく時に汚れることを危惧したのだろう。両手で掴めばいいものを、右手の掌に受け皿を置く形で支えているから、どうしたって歩く時は意識を集中しなければならないのだった。だから、二人の歩く速度は遅いのだ。

「真ちゃーん、それ皿と鉢、両方持てばいいんじゃないの?」
「・・・・知っているのだよ」
「・・・・」
「・・・・」
「・・・・いや、ならそうしなよ」
「俺のことは気にせず先に行け」
「いや気になるから!あと別に俺は真ちゃんに合わせてゆっくり歩いてるわけじゃないよ」

 そう高尾が言えば、ふん、と短い返事が返ってくる。賢い頭を持っているはずなのだが、どういうわけかたまに抜けてしまうのが緑間真太郎である。鉢を左手で掴むと急に歩調が速くなった彼に合わせて、高尾の歩くスピードも加速する。観葉植物で両手が塞がった緑間の左肘で、青いバッグが大きく揺れた。

「プール掃除楽しみだね」
「まったく理解できん。あんな面倒なもの」
「えー、授業やるよりはいいじゃん。早くプール始まんねえかなー」

 高尾の右手でも、同じ青いバッグが揺れる。去年、バスケ部で市民プールに遊びに行った際に、はしゃぎすぎてプールバッグを更衣室に忘れてきた。帰り道に気付いた高尾は、そのままデパートに寄ると、ふと目に入ったバッグを購入した。そして買い物についてきた緑間も何故かそれを購入した。古いし汚れてきた、それに今日は買い物すると吉だそうだ。と、いうのが緑間の言い分である。こうしてうっかりお揃いになった。学校にそれを持っていっても、誰も何も言わなかった。そうすることに違和感が無いと思われたからなのかもしれない。

「午後はプール掃除だし、音楽もあるから、今日の時間割最高ー、って、やべ、今日数学当たるんだった!宿題やってない!」
「大問3つだ、すぐに出来るだろう」
「無理。俺B苦手だもん、真ちゃんノート見せて」
「断る」

 そこを何とか!と高尾がパンッ、と手を合わせて乾いた音を響かせると、それを合図にしたかのように、タイミング良く校舎からHR開始5分前を告げるチャイムが聞こえた。生徒の足取りは、一斉に速くなる。

「真ちゃんがそんなもの持ってきたから、ほらギリギリになっちゃったじゃん!」
「うるさい!だから先に行けと言っただろう!」

 ぱ、と二人同時に駆け出す。もう何度も二人で並んで歩いた道を、全力で駆けていく。
 二人を後押しするように、追い風が吹いた。







 教室に滑り込んで席に着くと、すぐにチャイムが鳴った。走ったせいでじんわりとかいてしまった汗を逃がすように、高尾はパタパタと下敷きで自身を煽ぎながら、少し離れた席に座る緑間に視線を向ける。涼しい顔をして、ぴっと背筋を伸ばす姿は、いつもと変わらない。机の端にはちょこんと観葉植物がのせられていて、走った時に中身が飛び出そうになったことなど、まるで無かったかのように整然と置かれていた。真っ白でアイロンのかかったシャツから、あまり日に焼けていない腕が伸びている。
 季節が変わった。高校に入って三度目で、そして最後の夏がまもなくやってくる。
 新緑で柔らかい色をしていた木々が、いよいよ深い緑に染まって、青空によく映える。梅雨が始まるよりも少し前で、これから始まる暑い夏を思い出して、気持ちが高揚するのだった。
 そして何より、秋から冬、春にかけて学ランの下に隠れていた肌が一斉に解禁される。肌色が見えているだけで、随分とエネルギーに満ちているように感じられて、高尾は夏服が好きだった。
 担任教師が平坦な声で朝の挨拶を述べながら、教室の立てつけの悪い扉をガラガラとあけて入ってくる。教卓の前に立ってから、ふと後ろの黒板にかかる日めくりカレンダーに目を止め、一番近い席に座っていた女生徒にそれを二枚破るように言った。今日は月曜日で、先週の金曜日の日直が、日付を進めておくのを忘れていたのだろう。ビリッ、と勢いよく彼女はそれを破り取り、ごみ箱に捨てた。
 日めくりカレンダーが捨てられていくのを見ると、時は止まらないということを何故か強く実感して、季節が巡る早さに、はっとする。この間秀徳高校に入学したと思っていたら、あっという間に最終学年だ。卒業はまだ意識していないけれど、それでも少しずつカウントダウンが始まっていることは意識せざるを得ない。もうすぐ春は終わってしまうのだ。そう思うと、少しも無駄にできない、と焦りが込み上げてくる。
 もう一度高尾は緑間に視線を向けた。相変わらず普段通り、ただじっと前を向いている。その姿が微笑ましくて、自然と笑顔になった。

 ごまかせないなあ、と思う。

 中学の頃に完膚無きまでに叩きのめされ、それから彼は、倒すべき相手であって目標だった。何の運命のいたずらかわからないが、高校で何故かチームメイトになった。勝手に燃やしていた闘志を何とか沈めて一時休戦、と無理矢理納得させたのが二年前。耐えろ、と思いながら歩み始めた高校生活が、いつの間にか形を変えた。
 ごまかせない、ともう一度思う。

 だって、こんなに愛おしいのだ。







 午後になった。
 去年の秋から長い間放置されていたプールの水を全部抜き去り、得体の知れないぬるぬるとしたものが残るプールの床を見れば、さすがに鳥肌が立った。きゃーきゃー騒ぐ女生徒に、体育教師は「害は無いから安心しろー」と、言われたところで何の得にもならないことを言う。先陣切って!と、比較的綺麗なところを選んで固まっている彼女たちの声援を背中に受けながら、しょうがねえな!なんて言いながら数人の男子生徒は小さなブラシを片手に小走りに床を磨いて進んでいく。じゃんけんで勝ち上がった高尾は、プールサイドから勢いよく放水した。ホースの先を細めて床に向かって水を放つと、水圧で汚れが散っていき、綺麗な水色をした床が次々に顔を出す。

「ばっか高尾!おい!そこせっかく掃除したのに、あ!ちょっと!あーもう一回水止めろ!」
「え?何きこえなーい!」

 高尾はホースを上に向けると、文句を言うクラスメイトの頭上高くに冷たい水を撒き散らす。気温がかなり上がっているとはいえ、水の冷たさに、低い悲鳴があがる。げらげらと笑いながらさらに上へホースの角度を上げた。調子に乗って他のクラスメイトも同じように高くあげる。噴水のように水があがって、一瞬、青空の向こう側に虹を作った。

「あ!虹!」
「ほんとだー!綺麗!」
「どうでもいいわそんなん!真面目にやれ!」

 高尾の指差した先の虹に、プールの隅に避難していた女生徒も目を向ける。黄色い声も混ざっていよいよ騒ぐ声も大きくなった。監督していたはずの体育教師も、注意する気はないようで、一緒になって虹を仰ぎ見ている。
 虹の奥で、校舎の窓がきらきらと光る。強い太陽の陽を受けて、ガラスがちかちかと光って見えたのだった。右端から教室を数えていく。自分のクラスのところで目を止めると、見えるはずもないのに、高尾は手をかざして思わず人影を探した。プールの床面を磨くブラシが足りず、数名教室まで取りにいったのだ。その中に、緑間もいた。ほとんど、条件反射みたいに探してしまったことに苦笑して、高尾はすぐに目を逸らす。大体、取りに戻ったのは少し前のことなのだ、もう教室にいるはずもなかった。高尾が視線を落としたところで、視界の端で人影が揺れた。「おっせーぞ!」とプールから誰かが叫ぶ。ブラシを手にした数名が、これでも走ったんだって!と言い訳をしながら近づいてきた。最後に、やはり背筋を伸ばして、緑間が続く。緑間はプールへと降りずに、真っ直ぐ高尾の元へやって来ると、ずい、とブラシを差し出してきた。

「え、何?」
「変われ」
「何で!?俺じゃんけん買ったのに!」
「疲れたのだよ」

 くい、と眼鏡をあげる動作をしながら、緑間は素早く高尾の持つホースを奪い去ると、代わりに高尾の手の中にブラシの柄をねじ込んだ。ええええええ、と抗議の声をあげつつも、足は既にプールに向かっている。緑間に対して大概甘い自覚はあるけれど、彼の額にうっすらとある汗を見たら、仕方ないかと思ってしまったのだった。幾分か綺麗になったプールの床へ降りたって振り返ると、白いハンカチを取り出して汗を拭う緑間の姿が目に入る。相変わらず男子高校生とは思えない所作である。そして、見慣れた姿だ。
 けれど、真っ白な夏服から伸びる手と、真っ白なハンカチと、太陽の陽を受けて光るさらさらの髪の毛と、馬鹿みたいにまっすぐに伸びる背筋と、そういうありふれた姿なのに、どういうわけか映画のワンシーンみたいに特別に見えたりするのだった。

「少ししたら代わってやる」

 じっと見つめていたら、抗議の目と勘違いしたらしい緑間が、そんなことを言う。

「・・・・うん、よろしく」

 背中を向けて、床に視線を落とす。そっと瞼を閉じてみても、焼き付いたように彼の残像が残っている。

 夏はだめだ、と思った。

 あまりにも色々な物が眩しすぎて、どうしようもないほど気持ちばかりが膨らんだ。名前を付けてしまったら、終わってしまうような気がして、ずっと内に秘めている。
 去年の夏も、そうだった。自分ではコントロールできない何かに急き立てられて、秋になると後悔したのだった。何を後悔しているのかは、よくわからない。ただ、急速に色を変えた校庭の銀杏の木みたいに、眩しかった夏は一瞬で終わってしまった。それを思い出して、砂時計の砂が落ちるようにさらさらと進んでいく時に、また焦燥感が生まれる。
 高尾は一心不乱にプールの底を磨いた。突然やる気を出したように駆け出した高尾に続いて、騒いで掃除をしていなかった生徒たちも次々にブラシで床をこすり始めた。プールサイドから、放水された水が次々に汚れを洗い流していく。露わになる水色に、夏がそこまで来ていることを実感した。
 そうなのだ、まだ夏じゃない。
 一瞬で終わった去年を思い出して後悔している暇などない。

「真ちゃーん、代わってよ!」

 プールサイドに上がってそう叫べば、緑間は大人しくブラシを受け取ってプールへ降りた。高尾は、彼の長い手足に向かって、ホースを向ける。「馬鹿!」と水を避けきれずに頭からかぶった緑間の怒鳴り声から逃げながら、今度は上に向かって放水する。真面目に掃除に取り組んでいた生徒たちが、また騒ぎ出した。
 きらきら、水が光る。空が光る。
 虹が出来る。さっきよりも少し大きな虹だった。
 ホースの口を細める。緑間含め、プールの中ではしゃぐ生徒に向けて、勢いよく放水する。騒ぎながら逃げ惑う彼らを、ただひたすらに水で追いかける。避けることを諦めたらしい緑間が、仕返しとばかりに、プールサイドに置いてあったビート版で水を受け止めると、見事にそのまま反射して、高尾もびしょ濡れになった。

「ひっでえ!」

 可笑しくなってげらげら笑いながら一応文句らしいことを言ってみるけれど、説得力などない。ははっ、と緑間も笑った。そうして、彼が笑ったのを見て、



 ああ、どうしても膨らむこの気持ちは、全部笑顔に変えて、思い出にしよう。



 と、高尾はひとつ、決心した。



 絶対に、言わない。
 代わりに、君と思い出を作ろう。



 形を変えた思いを、ここに置いていく決心だった。
 高らかに笑い声が響く。



 もうすぐ、高校生活最後の夏が始まる。





High school days







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