全部無駄になりました。
 と、目の前で絶望に打ちひしがれる男に、火神大我はとりあえず無言でとっておきの紅茶を差し出した。男――黒子テツヤはもうもうと湯気が立ち込めるティーカップを随分と投げ遣りな視線で一瞥してから、自分の方へと引き寄せた。湯気と共に立ち昇って鼻をくすぐる香りに、僅かばかりだが表情が緩む。火神がイギリスへ遠征に出かけたときに買ってきてくれた紅茶が黒子はお気に入りだった。日本の輸入雑貨店で見かけてから、定期的に購入しては、火神の家にも置いていく。それだけ、出入りしているということだ。火神は特別この紅茶が好きなわけではなかったが、未だ謎の多いかつての相棒の機嫌を良くするアイテムは、多いに越したことはない、と大人しく受け取っている。
 そしてそれは今まさにその効果を発揮したところである。

「うん、良い香り」
「わっかんねえなあ、変なにおいすんじゃん」
「火神くんって育ち良さそうなのに、変なところで庶民的ですよね」
「褒めてんのかけなしてんのか?」

 半々です、黒子は満足そうに紅茶を啜った。
 火神はちらりと時計を見る。針が差している時刻は午前0時半。明日が午後からの授業だから良いものの、突然の黒子の来訪に、少なからず驚いている。黒子がアポ無しで来ることはよくあるけれども、大抵が昼間か夕方で、泊まる日以外は早めに切り上げていく。それにどういうわけか火神のスケジュールを把握していることが多く、忙しい時にはやって来ない。
 それがどういうわけか、今回はイレギュラーな時間帯に、しかも大会真っ只中にやって来た。今日は第一試合、明日を空けて、明後日も試合、勝てばそのまま3日間ほど試合が続く。一応わかってはいたらしく「大会中なのはわかってるんですけどすみません本当にありえないちょっと聞いてください」と畳み掛けるようにインターフォンで言い、そうしていつの間に作ったのか忘れたが、合鍵を使って入ってくると、ソファに勢いよく座り込んで絶望したのだった。全部無駄になりました。それが一言目で、それ以降は火神にはよくわからなかった。

「で、落ち着いたか?」
「・・・・ええ、失礼しました。取り乱して」

 はああああああ、と似つかわしくないほど大げさに、大きなため息を一つ。先ほどまでの満足げな表情はどこへやら、思い出したのか再び肩を落とす。ショックを受けているというよりも、やさぐれている印象だ。その証拠に、「・・・・チッ、あのやろう、」などと、低い声で呟いている。

「人がせっかく今まで均衡を保ってきたというのにあっさり崩しやがってあああああ今すぐぶん殴りたい」
「おい黒子、見失いかけてるぞ自分を」
「ご心配なく、正常です」
「あっそ。で、どうすんだよもう終電ねえぞ」
「泊まります」

 あっさりとそう言った。火神くん確か火曜日は午後からでしょう、と思い出すようにゆっくりと確かめる。肯定すると黒子は安堵したようで、勝手知ったる他人の家、クローゼットやら引出やらを開けて自分が置いていったお泊りセットを探し出す。火神も当然のよう黒子用に枕を出しているところで、何かが可笑しいのだけれど、黒子の家にいっても同じような状態なのだ。二人が疑問に思うはずもない。

「飯は?」
「あ、バイト先で食べました。ありがとうございます」
「俺もう風呂入ったし、入るなら追い炊きつけるけど」
「あー・・・・なんだか疲れたので、朝借りてもいいですか」
「りょーかい」

 ソファを平らにして、シーツをばさりとかける。ほらよ、と火神が投げて寄越した薄い掛布団を上手くキャッチすることが出来ず、黒子は顔面でそれを受け止める羽目になった。

「俺はもう寝るけど、好きにしろ」
「あー、はい、僕ももう横になります。で、聞いてくださいよ」
「いやだ」
「まだ何も言ってないじゃないですか!僕だって混乱してるんですから、とりあえず言いたいこと言うんで聞き流してください。返事は入りません」
「・・・・それ俺に言う必要あんのかよ」

 黒子は台所へマグカップを持っていき、その足で照明のスイッチが並んでいるところへ行く。火神がベッドに入り込むタイミングを見て、全ての照明を消灯した。暗闇に目が慣れないせいで、真っ暗な部屋の中を、黒子は記憶だけで家具を避けながら寝床へと向かう。布団をかぶってみるものの、頭は妙に冴えていて、まだ当分眠れそうにない。

「・・・・で?」

 さすがにこんな時間に押しかけては、聞いてなどくれないだろう、と思っていたのだけれど、火神からそんな声があがった。結局お人よしな相棒に、黒子はいつも甘えている。自覚はしているのだけれど、心地良いのだから仕方ない。たぶんきっと、一生やめられそうにない。黒子は寝返りを打って、身体を火神のベッドの方へ向けた。闇に慣れてきた目が、ぼんやりと火神を捉える。仰向けで、じっと天井を見つめている。



「青峰君に告白されました」



「何だ青峰の話かよ・・・・・って、ハア!?」

 ドタン!と大きな音がして、勢いよく起き上がった火神が、ベッドから落ちた。身を乗り出して勢い余ってそのまま落下。黒子は呆れ顔で上体を起こし、火神を見下ろしている。

「何してるんですか下の階の方々に迷惑でしょうに・・・・」
「うっせえよそれどころじゃねえわ!おま、え、それどうしたんだよ」

 起き上がるのも忘れて、火神は黒子に顔だけ向けて言う。見下す黒子の表情は、心底嫌そうに歪められて、「・・・・逃げてきました」と絞り出すように言った。

「・・・・なんだ冗談か?」
「冗談じゃなさそうな雰囲気醸し出していたから逃げてきたんですよ!」
「逃げんなよ!青峰が可哀想だろうが!ちゃんと返事しろよ!」
「まず火神君、考えてください、青峰君は男で、僕も男です」
「知ってるっつーの」

 さすがはアメリカ帰り、そこについてはあまり追及しないようだ。いや、帰国子女であることが関係しているかどうかはわからないが。実を言うと、黒子自身としても、あまりそこは問題視していなかった。別に告白されたことに対してそういう意味で嫌悪感はなかった。それは自分でも不思議だった。多分、青峰は黒子の中で、随分と特別な存在になっていて、何だかもう、性別なんてものはどうでも良くなっているのだ。青峰大輝という存在から、好意を向けられることに不快感は無い。可笑しいだろうか、と自問したところで、解答など得られるはずもなかった。黒子が混乱しているのはそこじゃない。かと言って別に黒子は青峰のことをそういう風に好きだなんて思ったことは一度もなかった。だから一言、ごめんなさい、と言えばよかったのに、それができなかったのにはわけがあった。

「何で逃げたんだよ、お前青峰のこと好きなの?」
「いえ別に。友達で十分です」
「ならそれ言ってやれよ・・・・」
「・・・・均衡は崩したくなかったもので」

 均衡?火神は繰り返した。そういえば先ほどもそんなようなことを黒子が言っていたような気がする。

「均衡って?」
「・・・・関係、の、ですかね」
「はあ。青峰との?」
「正確には、青峰君と桃井さんとの、です」
「はあ?なんで桃井?」

 身体を起こした火神の顔が、黒子のすぐ真横にある。黒子は何となく気まずくなって、視線をずらした。視界の端で、火神が動くのが見える。立ち上がったと思えば、黒子の足元、ソファの端に腰かけた。空気を読んだわけではないだろうが、こういうところが火神らしい。ギイ、とスプリングが変な音を立てる。

「僕にとって、あの二人は理想みたいなもので」
「何の?」
「うーん、それは上手く答えられないんですけど。だから、まあ、とにかく現状維持に必死でして、当時。いや、今もですかね」
「話見えねーんだけど」
「あはは、すみません。自分勝手なんですよ、僕は」

 そう言って黒子はソファに深く顔を沈めた。
 自分勝手なんです。
 改めて声に出してみたのは初めてだ。想像以上に重く圧し掛かる一言だった。

「僕は、随分と自分勝手なことをしてきました」

 まるで懺悔でもしている気分だった。黒子?と心配そうな声をかけてくる火神の優しさに付け込んでいることを自覚している。火神の言葉で、全部吐き出してしまいそうだった自分の心情を、何とか自制する。

「自分の気持ちを、最優先にしてきたので、僕には青峰君たちにこれ以上嘘をつかせる資格なんてないわけです。ああ・・・・でも今思えば、たぶんこれって、因果応報、自業自得ってやつなんでしょう」
「・・・・何の話してんのかよくわかんねーけど。お前とりあえず寝ろよ。たぶん、自分が思ってるより動揺してんぞ」

 な?と言いながら火神の手は黒子の髪に触れる。優しい手つきで髪を撫でる。真っ直ぐな人の優しさはひどく心地が良い。多分本当に一生手放せないだろうなあ、と黒子は深い溜息をついた。さっさとこのウルトラお人よしをどっかの美人さんに連れていってもらいたい。ごろりと寝返りを打って仰向けになる。少しだけ困り顔の火神が、ちらりと黒子を一瞥してベッドに戻っていく。布団にもぐりこむ衣擦れの音が響き、そして静かになる。

「おやすみなさい」
「おう、おやすみ」

 黒子はゆっくりと目を閉じた。随分と目が冴えてしまったと思っていたのに、瞼を閉じればすぐに眠気が襲ってきた。まどろんでいく意識の中で、鮮明に蘇る声は、何故か桃井さつきのものだった。





 ねえ、それはきっといつか崩れてしまうよ。テツくんが望む望まないに関わらず。





隠し雪






 


続くとか続かないとか続くとか。