何故本を読むのか、など、真面目に考えたことはない。 もともとコミュニケーションを取るのに積極的ではなかった。別に人見知りをするわけではないけれど、必要以上に人に近づいたりはしない。黒子テツヤは、随分と幼い頃からそんな人間だった。ランドセルを背負う前からひらがなくらいは読むことができたし、従って毎日絵本を読んでいた。小学校に入学したばかりの頃、少し感じが読める黒子は皆の羨望の的になったりしたものの、残念ながら天才というわけではなかったので、クラスメイトが字を覚え、言葉を読めるようになると、黒子を崇拝するというそのブームは一瞬で消えた。 小学校中学年からは、学校の図書室を使えるようになった。昼休みのような長い休み時間は運動場へ出て球技に勤しんでいたものの、放課後や、午前中にある15分休みを使って図書室に足繁く通い、卒業する頃には図書室の本を読破した。 中学校の図書室は、難解なものも多かった。繰り返すが黒子は天才ではない。同級生が興味を示さないような分厚い専門書や古めかしい文体の小説を読む気はない。細々と小説を読み続けていた。 それはもう、日常のようなものだった。本が好き!と豪語出来るほど、自分を文学に長けた人間だなどとは一度も思ったことがないが、文章を読まない日が続くと、禁断症状のように強く欲することは確かだった。染み込んでいるのだ、と黒子自身は思う。読書という行為自体が、もう黒子の生き方に組み込まれている。 意味など追及する間もなく、黒子にとって読書をすることは当たり前だった。そうして、そんな黒子に疑問を持つ人間などいなかった。大抵そうだろう、読書をする人間を目にすれば、ああ読書好きなんだな、という程度の認識しか持たない。そこに意味を追い求めたりなどしない。 だから、黒子は考えたことなど無かった。また、これから先考えることなど無いとも思っていた。 しかし目の前に座る火神大我は、それはもう、ごく自然にするりとその意味を問うてきたのである。 「お前さ、何で本読むわけ?」 6月のある土曜の朝。梅雨にしては珍しく天気は晴れで、気温もぐんと上がっている。湿気の多い纏わりつくような夏の気配にうんざりしながら部活開始までの時間を持て余していた。少しでも身体を動かそうものなら、汗が全身から吹き出てくる。動くのも面倒になって、黒子は読書を、火神はただ寝転がって何をするでもなくぼうっとしていた時のことであった。黒子に視線だけを寄越し、不思議そうに問うてきた。 「・・・・何故、と言われても、考えたこともありませんが。面白いから、じゃないですか」 「何で面白いんだ?」 また、何で、と繰り返す。何でも知りたい小学生か!というツッコミは黒子の心の中に留めておく。「火神君は、本を面白いとは思わないですか?」質問を質問で返すと、火神は眉根を寄せて唸った。そうやって悩む時点で答えは一つのような気もするが、とりあえず彼が結論を出すまで、黒子も答えない。火神は何度も、あー、うー、と意味のない言葉を羅列して、答えを出すことを溜めらっているようだ。読書好きの黒子に向かって、何と説明すべきか悩んでいるのだろう。唸る火神を助けるつもりで、黒子は結局口を開いた。 「別に面白くないと言って頂いたところで怒ったりはしませんよ」 「面白くない、と思ってるわけじゃねーんだよ。俺だって好きなジャンルはあるし。あー、なんだろなあ。面白いから、って割にお前って何でも読むじゃん。だから内容がどーのっていうより、読書する、って行為自体に意味でもあんのかと思ってた」 「ああ」 黒子は合点がいった。そういう意味なら答えられる。 けれど、果たしてその答えが、火神を納得させられるのかどうかはわからなかった。 「じゃあ、ちょっとその前に僕から質問してもいいですか」 「いいけど」 「火神君は、なりたいものはありますか?憧れでも構いません。ただし、バスケ関係以外で」 「バスケ以外?あー、待て、考える」 火神の答えに、結構です、と言いかけたのを、何とか黒子は飲み込んだ。この質問を、そんな風に真剣に考えなければ答えを出せないのならば、きっと黒子が読書に求める意味など、理解されないだろう。 「思いつかね」 「だと思っていました。僕はね、なりたいものがたくさんあります」 はあ、と火神は歯切れの悪い返事をする。黒子が言わんとしていることの予想が出来ず、曖昧な答えになったのだろう。空調が壊れていて蒸し暑い。脳が正常な働きをしているとも思えない。思考回路が溶けてぐずぐずになりそうだった。そういう状態なら、もやもやとしたまま仮説を立てても、どうせ後まで覚えていることなどないだろう。黒子は寝転がる火神を見下ろした。返される視線は、純粋なそれである。ただの好奇心しかない。 「例えば教師。例えば演奏家。例えば大学生。例えば銀行員。例えば冒険家、サッカー選手、新幹線の運転士、剣士に魔法使い」 思いつく限りを指折り黒子が羅列していく。火神は律儀に、あーそれはなりたい、それはいい、えーお前変なの、と相槌を打つ。 「そういうものに、本を読んでいる瞬間は、なれるじゃないですか」 「いやなれねーだろ」 「なれますよ。本の世界にのめり込んで、自分は主人公だって思えばいいんです。だから僕は一人称小説が割と好きです」 今手にしているのは中国ファンタジーだ。主人公は女の子だけれど、今自分が惹かれているのは敵として現れた西洋人。ぐっ、と彼に近づいていくような錯覚。意識を集中して読み進めていくと、そこはもう、壮大な大陸の中だ。そこでは黒子は才能の差に悩まされることもない。あっと驚くような技を使って、主人公を翻弄していく。目を閉じれば、緑いっぱいの草原が広がり、その中心には自分を睨むおさげの女の子の姿が見える。 そうやって、本の登場人物になりきることが楽しみだった。ここでは、現実世界の誰の指図も受けないし、馬鹿にされることもないし、比べられることもない。現実に追い込まれれば追い込まれるほど、ここは楽園だった。 「まあ、わかりやすく言うとつまり、現実逃避ってことですかね」 逃避しなければならないほど現実世界をつらいと思っているわけではないけれど、少なくとも現実は黒子にとって生きやすいとは言い難いものだった。嫌いじゃない。大切な人もいる。失いたくないと思うことだってあった。 それでも時には現実に打ちのめされそうになったりもして、そういう時は紙一枚の奥に広がる世界に逃げ込むのだった。 「現実逃避するほど嫌なことあんのか?」 「いいえ?でも別の自分になりたいって思うことくらいあるじゃないですか」 「別の?」 「ああ、君にはないでしょうけど。だからこれは暑さにやられた僕の戯言だと思って、忘れてくださって結構です」 ふうん、と呟いて、火神は目を閉じた。興味を失ったようだ。黒子は彼に気付かれぬよう、そっと息を吐いて安堵する。古ぼけた壁にかけてある時計を見れば、部活開始時刻まで時間はたっぷりあった。他の部員はまだ来ない。黒子は手にしていた本を広げ、読書を再開した。 と、同時だった。 するりと黒子の手から単行本が抜き取られる。にゅう、と伸びてきて黒子から本を奪った手はもちろん火神のものだ。何するんですか、と目で訴えると、火神はゆっくりと上体を起こした。目線が、黒子の上になる。じっと見下ろされる。 「俺は、お前とバスケできて、今すげー楽しいんだよ」 「・・・・何ですか急に。それは僕も同じですけど」 「なら、今はいいじゃねえか」 ぶっきらぼうに本を突き返される。黒子はそれをしばらく見つめ、悩んだ末に火神の方へと戻してしまう。火神はその行動が理解できなかったようで、怪訝な顔をした。 「持っていてください。帰る時、別れる十字路で受け取ります」 火神の目がわずかに見開かれる。けれどすぐに笑顔になり、おう、と歯切れ良く返事をすると、受け取った単行本を自分のロッカーへと仕舞いに行った。 きっと火神は、先ほどの発言だって大して考えたものではないだろう。無自覚って怖いですね、黒子は緩みそうになる口元を必死で引き結んで、火神の背中を追った。 部活開始まであと一時間。 さあ、君と何をしましょう。 |
黒子が読書する理由。勝手に捏造。 |