この世界の色彩を求めて 4 自分が寝返りを打つ時の衣擦れの音で目が覚めた。それほどに、静寂だった。喉がやられると困るから、とエアコンを切って眠ったせいで、部屋の温度は随分と下がっている。布団から出ている顔にあたる冷気だけで、一気に覚醒した。寝ぼけ眼をこすりながら並んで寝ていたはずの青峰の方へ視線を遣るが、そこにあるのはぐしゃぐしゃになったシーツを申し訳程度にかけられている敷布団と、それから少し離れたところにある掛布団と毛布だけだった。人の気配はない。温泉でも入りにいったのだろうか、と考えるも、ハンガーにかけておいたバスタオルは二つ揃っている。青峰が着ていたはずの浴衣は、彼のボストンバックの上に無造作に放り投げてあった。 ふらふらと立ち上がってクローゼットを確かめてみると、そこには彼の私服もコートもなかった。どうやら外に出たらしい。貴重品を含め、鞄も置いてあることから、帰ったわけではなさそうだ。黄瀬はしばし逡巡した後、バスタオルと私服をひっつかむと、部屋を出た。身体の冷え具合を考えると、温泉に浸かることが最優先だと判断したのだった。 温泉で身体を完全に温めて部屋に戻ると、青峰がいた。おかえり、と黄瀬が言えば、ただいま、と返ってくる。どこに行ってたの?とは聞かなかった。 部屋は暖房が入れられており、暖かい。布団の上に寝転がって朝のニュースを見ている青峰の横で、黄瀬が荷物の整理をしていると、ふいに背中に重みを感じた。「何すか?」振り返らずに黄瀬が言うと、さみい、の一言。言われてみれば背中から感じる体温は、幾分か低い。 「青峰っちも温泉入ってきたら?露天とか気持ち良かったっすよ」 「部屋から出るのめんどくせー」 「朝からどっか行ってたくせに!?」 「戻ってきたらもう寒い」 寒いという言葉が恐ろしく似合わない男だな、と黄瀬は思う。青峰大輝は、雪だろうと雨だろうと外で駆けまわりそうな男である。実際問題、先ほどまで雪の中にいたからこそ身体が冷え切ってしまっていて寒いのだから、それも青峰らしいと言えばらしいのだが。 昨日はほとんど旅館から出ずに過ごした。レンタカーも借りていない二人には、雪の中どこかへ向かう足が無かった。何をしていたのかと言われると、テレビを見てごろごろしていたり、昼寝をしたり、おおよそ怠惰な生活をしていた。これが自分の家だと無駄に過ごしたと感じるのに、いつもと違う場所というだけで、それでも良いか、なんて思えてくる。 「どうするんスか」 「何が」 「今日」 あれが見たいとかこれがしてみたいとか目的があったわけじゃなかった。黄瀬は青峰の向かう先についてきただけだし、青峰もただ本能のままに東京から離れていっただけだった。 お互い、誰にも今回の旅について連絡をして来なかった。大学は当然のように無断欠席になる。黄瀬はマネージャーにだけ仕事に行けない旨の電話をしたが、行先も期間も告げなかった。どこに行くのか到着するまでわからなかったし、どのくらい続くのかもわからなかった。どうせ長くはならないだろうと踏んで、体調不良を理由にしている。 「何もねえな」 「もう聞き飽きたっす、それ。何があれば良かったんスか?移動する?」 「いや、別にいいわ」 青峰の答えは投げ遣りだった。 「こんなに何もしねえなんて、人生初な気がする」 「ふうん。ま、たまにはいいんじゃないすか、楽っしょ」 「楽だけどよ、・・・・」 何かを続けようとして、青峰は言い淀んだ。この旅で、青峰のそういう態度を何度も目にしている。何かの話題を避けているのは明白だった。けれど、どうしたってふとした瞬間に口をついて出てくるらしい。完全に避けきれていない。 それもそうだろう。きっと青峰が避けているのは、バスケだった。理由としては、黄瀬がバスケを辞めたから気を遣っているのが半分、自分が今不調であることが半分、だろう。 例えどんな理由があろうとも、もう随分と長い間、自分自身の一部であるかのようにぴったりと寄り添ってきたものを、そんな簡単に切り捨てられるわけがなかった。以前、青峰がバスケを厭っていた時期とは違い、きっと今は自分がバスケから離れられないことを理解している。だからこそ、初めての壁にぶち当たり、戸惑っているのかもしれなかった。そして逃げ出した青峰を、黄瀬は心底ガキだと呆れているのだけれど。 「つまんない?」 黄瀬が代わりに青峰が言いそうな言葉を続けた。青峰は飽くまで視線をテレビに向け、間を空けてそれを肯定した。自分で肯定しておきながら、何か違うと思ったらしく、段々と眉間に皺が寄っている。 「つまんないっつーか、あれだ、消えそう」 「何が?」 「・・・・何が?何だろうな・・・・・・・・、・・・・自分?」 青峰にしては頭を使って考えたらしい。生真面目な表情でそう彼が言い、黄瀬は吹き出した。 「ポエム!」 「うっせーよ!ああもう忘れろ!」 「いや、一生忘れねえっすわ、何なら黒子っちにも教えようっと。はははっ」 小学生のように、取っ組み合いの喧嘩になった。布団の上を大の大人二人が転げまわる。殴ったり殴られたり蹴ったり蹴られたり、一通り気の住むまで取っ組み合いをして、二人揃って大の字で寝転んだ。 乱れる息を整えながら、黄瀬は隣で不貞腐れる男を見た。 良かった、と思う。 青峰は、ちゃんと理解している。彼には、空気と同じくらい、バスケが必要であって当たり前だった。多分これから先、楽しいことばかりではないだろう。世界へと羽ばたいていくのなら、色々な壁が待ち受けているだろうし、理不尽だと腹を立てることもあるだろう。それでも、青峰大輝には、必要なのだ。ほんの小さな挫折を味わったくらいで、手放して良いものではないのだ。強靭な相手が立ち塞がる時、彼は闘志を燃やす。けれど、その相手が自分自身であった時はなかったのだろう。スランプらしいスランプに陥ったことのない青峰は、初めてぶつかったそれに、どうしていいかわからずに逃げ出した。そういうところはまだまだ子供だった。 バカだなあ、と思う。 青峰にとってバスケが必要不可欠であることくらい、周囲から見ても明白だというのに。 バスケを取ったら、青峰大輝ではなくなってしまうというのに。 「ほんと、バカ」 「ああ!?」 「もうつっかかって来ないでねー、俺、疲れてんすから。鍛えてるアンタと一緒にしないで欲しいっす」 黄瀬が自分で手放した場所を、青峰が手放すことは許さない。そろりそろりと静かに離れていったとしても、戻らなくてはならない。多分、それが青峰に課せられた宿命だった。バスケの神様に愛された男に、その愛を要らぬと跳ね除ける権利などない。何故なら、その他大勢の愛されなかった者たちの想いと感情がたくさん詰まっているからだ。 「アンタはさあ、例えばこれから先、怪我したりしたとしても、そこで無茶してその先潰すなんて、許されないんすよ。アンタは出来る限りを尽くして、その手に掴んだものに対して忠実でなくちゃならない。俺たちは、今じゃなきゃ意味ないことがあった。でも青峰っちには、無いよ。青峰っちは、ずっと、だ」 青峰から返事はなかった。それが、黄瀬がバスケを離れた理由に関わっていること、青峰がそれを止めることは出来なかったこと、双方をきちんと理解しているとは思えなかったが、それでも青峰は水を差すことなく、ただ黙って黄瀬の言葉を聞いている。 それが、幸福ばかりであると、黄瀬も思ってなどいない。 「俺に、また、はなかったけど、」 ぽつり、黄瀬から零れた言葉は、冬の静かな朝によく響く。 「アンタには、あるんスから」 やはり、青峰から返事はなかった。 |