この世界の色彩を求めて 3






 ここで立ち止まるか、走り続けるかなんて、考えるまでもなく明白だった。



 それは、ウインターカップ予選も間近に迫った、ある日のことだった。
 一年の時に痛めた膝を、完治させずに騙し騙しやってきたら、最後の最後でガタが来た。もともと完治させたわけではなかったから、練習中に突然襲ってきた激痛も、黄瀬にとっては「とうとう来たかー」くらいのものだった。むしろよくここまで持ったものだと思う。練習も終盤で良かった。何とかチームメイトの目を誤魔化してその日の練習を終え、その足で行きつけの接骨院へと向かう。

「まあ、変な話、三年生だからこそ選択肢があるっていうか」

 高校三年間お世話になってきた主治医は、年齢の割に若い印象の言葉遣いをする。念入りに黄瀬の膝をマッサージしたりレントゲンをじっと見つめたり、しばらく考え込んでいた。黄瀬はというと、特にやることもなく、ただされるがままの状態で、ぼーっとしていた。主治医の言葉をすぐに飲み込むことは出来ず、数秒空けてから「え、ごめん何て?」とようやく反応した。

「だからさ、黄瀬くんが三年生じゃなかったらよかったのにって話」
「いや嘘でしょ」
「本当。黄瀬くんが二年生なら、迷わず一旦バスケを辞めろって忠告するね」

 バスケを辞める。
 わかってはいたことだが、黄瀬が思っていたよりもずっと重く、ずしりとその言葉は圧し掛かる。今は腫れも引いてつるりと綺麗な膝頭。故障しているようにはまったく見えない。

「で?三年だったらどうだって言うんスか」
「もうすぐ引退だろう。今を取るか、未来を取るか、だよ」
「はあ。よくわかんねえっす」
「どうにかこうにか、ウィンターカップくらいまでは持たせることはできる。ただし、今後の選手生命は保証しない。バスケで食ってく気なら、今すぐにでも治療に専念すべきだって話。どうする?」

 その口調は、ご飯にする?お風呂にする?どうする?とでも聞いているかのように随分と軽かった。この軽さに随分と助けられたことも多かったけれど、さすがに今回ばかりは拍子抜けしてしまう。
 主治医にとっては黄瀬がどちらの道を選ぼうと関係ないのだろう。きっと黄瀬が望むことを、否定したりしない。

「今、立ち止まってる場合じゃないんで」
「そう。まあ、君の場合、ほらモデルに専念したりとか、道はいくらでもありそうだしね」
「問題はそこじゃないけど」
「へえ」
「言ったろ、今、立ち止まってる場合じゃ、ないんスよ。未来は後回しだ」










 のぼせたから外で冷やしてくる、という青峰の背中を見送って、黄瀬は一人ロビーでくつろいでいた。いくらのぼせたとはいえ、外は氷点下である。きっとすぐに戻ってくるだろう、と予想して、黄瀬は追いかけなかった。二重の扉で寒気が入り込まぬように設計されているロビーは、その広さの割に温かい。こんな真冬の平日に来る酔狂な客など黄瀬と青峰しかいないようで、その小さな旅館は貸し切り状態だった。
 ぴり、と膝に痛みが走ったような気がして、それで痛みが和らぐわけではないけれど、ついつい膝を撫でてしまう。氷点下は古傷に響いた。日常生活には支障などないけれど、こうしてやけに冷え込む日(ここではこれが普通なのだろうけれど、関東から来た黄瀬にしてみれば大分気温は低い)や、雨の日には、思い出したように痛みが信号となって届く。その度に、自分が離れた場所も、ついでに思い出さざるを得ない。どんよりと覆いかぶさってくる沈む気持ちを、ため息一つで追いやった。



 膝の故障が再発していることを、黄瀬は言わなかった。主治医からは必ずウインターカップの決勝まで持たせてやる、と言われていたし、その言葉を全面的に信用していた以上、わざわざ伝える必要などないと思っていたからだ。それでも監督にはきっと気づかれていたのだろうけれど、特にそのことについて言ってきたことはなかった。それは、黄瀬の進路を知っていた彼が、その大会が黄瀬にとって最後のバスケであることを、なんとなく勘付いていたからなのかもしれない。
 黄瀬のバスケ人生は、頂上に上り詰めることなく、静かに幕を閉じた。途中、幸か不幸か、青峰大輝率いる桐皇高校に敗れたのである。大敗したわけではなく、接戦だった。大きな力がぶつかり合って、そうして海常は負けた。当然悔しかったし、チームメイトと共にこっそり涙を流しはしたが、黄瀬に後悔はなかった。未練も、ない。
 ただ、コート上で最後に青峰に言われた言葉が、いつまでも頭の中で響いていた。

 そしてそれは、今も黄瀬の中でずっと響いている。



「アンタ、馬鹿?」

 一向に帰ってこない青峰に、さすがに不安を覚えた黄瀬は、一旦部屋へ引き上げてダウンコートを引っ張り出してきてから外へ出た。問題の青峰はというと、旅館からすぐ近い広場のようなところ(雪が多くてそこが何なのかわからなかった)で、微動だにせず空を見上げている。着ているのは浴衣とその上の羽織物一枚だけ。

「・・・・あ?黄瀬・・・・って、さむ!お前!自分だけあったかそうな格好しやがって!」

 寄越せ!と突然襲い掛かってきた青峰を、ひらりと躱す。

「青峰っちが勝手にその格好で出てったんでしょー。ほら、寒いんだから早く戻らないと」

 東京のように頬を突き刺すビル風はないけれど、骨の芯から冷えていく感覚が、いっそ恐怖さえ呼び起こす。身体があっという間に冷えていくのがわかる。黄瀬はよろけた青峰が体勢を整えたのを見届けると、さっさと旅館への道を戻っていく。さくさく、雪を踏みつける音が、静寂の夜に響く。
 が、その音は一人分しかない。あまりの寒さに苛立ちを覚えながら、黄瀬は仕方なく振り返った。青峰は先程と同じところにいた。けれど今度は視線の先にあるものは空ではない。黄瀬だ。

「寒いんだからさー!もー早く!」
「・・・・お前、何でついてきたんだよ」
「はあ?何でってアンタが戻らないからでしょ」

 青峰はやはり動かなかった。黄瀬は舌打ちを一つすると、ざくざくと乱暴に雪を踏みつけ、再び青峰の元へと急ぐ。今度は有無を言わせずに右腕を掴むと、ぐいと引っ張って旅館へと戻り始める。青峰は抵抗することなく、黙って後を付いてきた。

「何でついてきたんだよ」

 その、何で、が今旅館から外へ出た理由を聞いているわけではないことくらい、黄瀬にもわかっていた。黄瀬は人の感情に敏い。敏いけれど、それを汲み取って相手に都合の良いような返事などしない。単純馬鹿の青峰大輝に、わかるように噛み砕いて長々と説明を入れてやる気などなかった。



「アンタが戻らないからだっつってんでしょ」



 青峰の顔を見ることなく言った。



 それが、全てだった。










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