この世界の色彩を求めて 1






 深い雪の上は、想像以上に歩きにくかった。片足ずつ新雪へ踏み入れていく。さく、さく、と軽快な音が鳴る。一面白い銀世界は見慣れない光景で、自分が今どこにいるのかを、常に意識させてくる。最近始めた俳優業のおかげで、随分と色々なところへ連れていって貰っているけれど、ここに来たのは初めてだった。雪は音を吸収するという。それは本当だった。ひっそりと静まり返っている。動の気配がない世界は、ひどく冷たく、そしてその静けさゆえに、優しかった。色々な柵から解放されて、気が楽になる。

 ふいに前を行く男が立ち止まった。さてどうしたのだろう、と思うけれど、そもそも男の目的がわからないので、それが計画通りの行動なのか、それともイレギュラーなことでも発生したのか、見当をつけることさえできなかった。一度も振り返ることのなかった男が、急にぐるりと首を回して振り返り、「っつーかさあ、」と会話の途中であるかのようなごく自然な流れで言葉を投げかけてくる。「なに?」と当たり前のように返してしまった。

「どこ向かってんだっけ?」
「それ俺に聞くんスか!?」
「お前目的ねーのかよ」
「ここで降りるっていったの、青峰っちでしょ!?」

 黄瀬は素っ頓狂な声をあげながら、ざくざくと豪快に雪を掻き分けて、随分と前にいる男の元へと向かう。こちらの都合などお構いなしに、一直線に進んでいた青峰の元へたどり着くまで、思ったよりも時間がかかった。おせーよ、と理不尽な言葉を頂戴したが、それは聞かなかったことにして無視を決め込んだ。青峰の隣に並びだって、長い息を吐くと、白い霧のように霧散していった。

「なんもねーな」
「何もないのわかってて降りたんじゃねーの・・・・どう見たって何もないじゃないすか・・・・」

 見わたす限り白だった。自分たちが歩いているここがどこなのかわからない。道なのかさえわからなかった。全て雪に覆われている。きっと田んぼのど真ん中に違いないすみません、と黄瀬は自分の下敷きになっているであろうものに少しだけ申し訳ない気分になった。

「俺が降りるってホントに言った?」
「言った!突然!」

 青峰は少しの間、自分が言ったことを思い出そうと首を捻っていたが、やがて「ま、いっか」と、けろりと諦めた。

「なあ、チェックインっていつだっけ」
「何も指定してないから、15時じゃないすか?」
「電車は?」
「さあ、知らないっす。もともと降りる予定じゃなかったでしょ」

 首都圏とは違うのだ、そもそもそんなにすぐ電車が来るとも思えなかった。
 1時間に1本とか、それ本数多い方だから。2時間来ないとか、しょっちゅう。もう俺ぜってー戻んねーし。
 かつて東北地方で高校時代を過ごした友人の言葉が脳裏に蘇る。交通の不便さやコンビニが近くにない不便さに文句ばかり言っていた彼も、何だかんだと大学生になった今も彼の地へ足を運んでいることを、黄瀬は知っている。

「・・・・げ」
「あ?」
「・・・・うわー・・・・うわー最低!アンタ最低!」
「はあ?なんだよいきなり」

 黄瀬は画面に表示された文字が信じられなくて、思わず戻るボタンを押した。前の画面で、自分が入力ミスでもしたのかと思ったのだ。けれど結局現実は残酷で、表示された情報は全て正しかった。

「次の電車・・・・15時半っす・・・・」
「・・・・今何時だっけ?」
「13時」
「3時?」
「いらんボケすんじゃねーよ、い・ち・じ!」

 電車を降りる前に、紫原の言葉を思い出せなかったことが悔やまれる。悔やんだところで何も変わらないのだけれど、それでも過去の自分の愚かさを悔やんだ。あの時ちゃんと思い出していたら!いや待てよ?悪いのはそもそも降りるって言った青峰っちなわけで。黄瀬はじとりと青峰を睨む。

「何か文句あんのか?」
「そりゃあるでしょ!!!もーどうすんスかこんな何もないところで!!!」
「大体、おめーだって止めなかったんだから同罪だろ」

 いや同罪じゃないっしょ!?即座に否定したけれど、青峰は取り合わなかった。とんだとばっちりである。誰がどう見ても黄瀬に責任はないはずなのに、ああも当たり前のように言われてしまうと、自分もなんだか悪かった気がしてくるのだから不思議である。
 そうしてこの感覚は、何も今に始まったことじゃあ、なかった。思い出してみれば、いつも黄瀬はそういう理不尽さを感じていたような気がした。けれどその理不尽さを、どうも納得させてしまうような雰囲気を、青峰は持っているのだった。青峰が黒と言えば黒なのだ。そう思ってしまう。独裁政権を得ていた中学時代のキャプテンとは、また違った絶対的な何かがあった。その何かに、思い当ってしまうような気がして、黄瀬は慌てて頭を振った。



 突然、視界から青峰が消えた。



 正しくは、突然、倒れ込んだ。スローモーションのようにゆっくりとした動きだった。後ろ側へと迷いなく体重を預けていき、そうしてどさりと雪の中へ倒れ込んだ。倒れ込んで、消えた、黄瀬の前から。
 少し歩み寄れば雪に埋もれた青峰がいることはわかっているのに、何故か黄瀬はきょろきょろと辺りを見回した。白以外何もない。青など見つからない。広い銀世界には、まるで自分だけが取り残されたような気持ちになった。さく、一歩近づいて、きょろりと見渡す、まだ見えない。もう一歩。雪に見え隠れする青が、鮮やかだった。

 「何、してんスか」埋もれる青峰に声をかけると、不貞腐れたように「助けろよなー」と子供っぽい声を出した。助けろも何も、自分から倒れたことが明白なのだから、どうしようもない。

「風邪引くっすよ」
「や、これ、意外とあったけーぞ?」
「感覚麻痺してるだけっす。ほら、アンタ身体が資本なんだから、大事にしないと」
「おいおい、キセリョのお前に言われたくねーよ」
「青峰っち、一応言っておくけど、キセリョは職業じゃないよ」

 馬鹿にして笑うと、青峰は眉間に皺を寄せた。「タクシー呼ぶか」黄瀬は右手を差し出して、雪の絨毯に沈み込んでいる男を引っ張る。しかしながら、だらんと力を抜ききった青峰の体躯は黄瀬が片手で釣り上げられないくらいの重さがあって、引っ張り上げようとしたはずの彼まで倒れ込む羽目になった。
 意外と暖かいなどと言われても、雪は氷なのだ。冷たいものは冷たい。黄瀬は悲鳴をあげて飛び上がった。

「何なんすかもー!さむ!つめた!」
「だっせー!」
「俺もう一人でタクシー呼んで旅館向かうっす」
「あー嘘、嘘だって」

 もっかい、と青峰が今度は両手を差し出してくる。はあ、とため息をついて、それでも結局引っ張り上げてやると、今度はすんなりと立ち上がった。力を抜いた人間があんなにも重いことを、黄瀬は学んだ。学んだところで意味などないのだろうけれど。
 とりあえずタクシーに来てもらうにしても、ここがどこなのかわからなければ呼ぶこともできない、自分たちの足跡を頼りに、二人は駅へと戻り始めた。幸い、晴れてこそいないものの雪が降っていないので、足跡はくっきりと残っている。黄瀬は、先ほどと同じように青峰の後についた。

 懐かしい。

 前を行く青峰が、何故か懐かしい。別に雪道を共に歩いた記憶などないというのに、妙な感覚だった。既視感とは違う。それに、青峰の背中など見慣れているはずだった。と、途端に心臓のあたりを掴まれたように、ぎゅうと胸が音を立てたような気がした。この感覚の理由が思い当ったのだ。確かに、これは懐かしいという表現は、間違ってはいなかった。



 コート以外にいる青峰を見るのは、久々だったのだ。










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