さくっ、と軽快な音が絶え間なく続く。 練習の前に図書館で試験勉強でもしようと、黒子が早めに部室に顔を出すと、そこには先客がいた。広い部室の隅っこで、大きな背中を丸めて本を読んでいたのは紫原だ。置いていってしまった地理のワークを取りに来た黒子は、予想外の人物に、思わず動きを止めてしまう。するりと物音を立てずに入り込んだ黒子には気づいていないのか、紫原は畳の上に広げる単行本を、じっと見つめている。さくさくさく。口元にあるのは、菓子好きの紫原が、特に好んで食べるスナック菓子で、ぱらぱらと本の上に食べかすが降り続いているのだけれど、彼にとっては気にすべきことではないようだった。ぱらり、落ちた食べかすを払い落としもせずにページが捲られていく。 黒子が驚いたのは、いつも時間ギリギリに来てすぐさま帰っていく紫原が部室にいたことと、いつも黒子が本を読む傍らで「ねー何がそんなに面白いの黒ちん、ねー遊んでよ」とだだをこねて読書を邪魔してくる彼が、まさか本など読むとは思ってもいなかったので、真剣に文字を追っていく姿に驚愕したのだった。 ぱたん、音をさせて扉を閉めて、そこで紫原は顔をあげた。視界に黒子を捉えて、長い前髪の奥にある双眼が、驚きで少し開かれた。さくさくさく。口元の菓子を平らげてから、「あれー黒ちん何してんの」大して興味が無さそうな、抑揚のない声で紫原は言った。 「部活まだだけど」 「僕は図書館で勉強しようと思ったんです。試験近いですから。紫原君こそ何故こんな時間にこんなところに?」 「こんなところって、俺もバスケ部なんですけどー」 「知っています」 黒子は自分のロッカーへ向かうと、冷えた金属の扉を少しばかり乱暴に開き、立てかけてある目的の物を取り出すと、ゆっくりと扉を閉めた。ぎい、と油の足りていない音を響かせて、扉は閉まる。黒子の手に収められたそれを見て、紫原は「うわ」と不愉快そうに声を出した。 「地理ぃ?そんなのやってどーすんの」 「苦手なんです」 「いーじゃん、地理なんて悪くたって困んないよ」 「そういうわけにも行きません。試験科目に入ってますから。紫原君も、確か中間はよくなかったと言ってませんでしたっけ?どうせ早く来たんなら、一緒にどうですか」 次も悪かったらどうなるかわかってるな? 中間テスト返却後、さらりと赤司が言った言葉が思い出される。割と万遍なく、得意も不得意もなくテストを切り抜けてきた黒子が、前回初めて平均点を割ってしまった。加速するように能力を発揮して離れていく青峰に追いつこうと、練習量を増やした結果、とうとう勉強に支障が出てしまったのだ。けれどそれを認めるのは何だか悔しかった。だから黒子は、平然とした態度を装って「今回は何だか勉強する気にならなかっただけですから」と赤司に言い放ったのだった。果たして赤司が黒子の見栄を見抜いているかどうかは定かではないが、人を観察する能力に長けたあの男のことである、きっと気づいているに違いなかった。だからこそ期末テストでも、同じような結果になるわけにはいかなかった。かと言って練習量を減らすわけにもいかない。青峰の背は、遠くなるばかりなのだ。ならば自分がもっともっと早く彼の背に追いつけるよう、追いかけるしかなかった。体力のあまりない黒子は、練習前に運動などしようものなら、赤司のメニューをこなすことはできない。従って、練習後に疲労する身体に鞭打って、さらに努力するほか道はない。そうとなればとてもではないが、帰宅後に勉強する体力など残っているはずもなく、自然と勉強時間は前倒しになっていった。今日のように休日の部活前に図書館で勉強することは、最早習慣になっていた。 だから今日もこうしてやって来れば、なんと珍しい客がいるではないか。しかも相手は、自分と同じく前回のテストで散々な結果を叩き出し、赤司から説教を喰らった紫原である。他人に構えないほど切羽詰まっているわけでもない。そういうわけで黒子は彼を誘ってみたのだった。 「えー面倒」 予想通り紫原の反応は、決して良くない。しかしこれは予想の範囲内である。黒子は自分の鞄の中を漁ると、きらりと光るパッケージを見つけ、それを取り出した。 「まいう棒あげますけど」 しかも新作です、と紫原の前に突き出すと、しょーがないなー、と嬉しそうにそれを受け取った。いつでも単純な男である。ちょっと待ってね、と紫原は読みかけていた本を閉じ、それをほとんど投げるようにしてロッカーに突っ込むと、替わりに地理の教科書とノート、ワークを取り出して立ち上がる。巨体がぬう、と立ち上がったせいで、一気に視界が狭くなった。落とされた影に、黒子はすっぽりと収まってしまう。この恵まれた体躯を、紫原本人は幾分も有難いと思ってはいないようだったけれど、黒子は対峙する度に羨望の気持ちを抱かずにはいられなかった。真上を見あげるように、精一杯首を逸らせて上を向く黒子に、なにー?と首をかしげて見せる。 「何でもないです。ところで紫原君、角のコンビニでまいう棒フェアをやっているのはご存知ですか?」 部室の扉を黒子はまたもや音も無くするりと抜けだした。続く紫原は、やや身体を縮めるようにして外に出ると、片手で軽く扉を叩く。パン、と小気味良い音がして、閉められた。 外に出ると冷たい風が、頬をまるで切り刻むように通り過ぎていった。寒い、というよりは最早痛い。12月上旬という割には冷え込みが激しい日だ。黒子がマフラーに首を埋めていると、紫原がそれを羨ましがった。よくよく見ればコートはおろか、制服のブレザーさえも着ておらず、カーディガン姿の彼はさすがに寒そうだった。 「知らない、何それ超行きたい!」 「僕も気になってます。何でも地域限定のものも集結しているそうですよ」 「えーすげー」 今日部活サボろっかなあ、などと簡単に口に出した紫原に、黒子はぎょっとした表情になる。 「何言ってるんですか、赤司君に怒られますよ?」 「それはやだけど・・・・でも早く行きたい!」 「・・・・先ほど差し上げたのは、朝宣伝代わりに配っていた物なんですけど。もう一つあげますから我慢してください」 「え!くれんの!?黒ちん大好きー」 「部活出てくださいよ」 「うん、わかったー」 無邪気な笑顔で紫原は笑う。絶対一緒に行こうね、峰ちんと居残り練習とか無しだよ。目をきらきらと輝かせるその様は、プレゼントに喜ぶ子どものそれそのものである。はいはい、と適当に相槌を打ちながら、黒子は急激に冷えていく心を冷静に分析していた。外が寒いせいかもしれない――――、それならばどんなにか良かっただろう。 バスケットも勉学も、黒子にとっては簡単には切り捨てられないものだった。優先順位こそ歴然とした差があるものの、それらと天秤にかけられるものなど少ない。けれど隣に並ぶ男は、その二つを簡単に些細な事と天秤にかけるのだ。 勉強も、バスケットも。――――お菓子と比べられてしまうだなんて。 波長は合うというのに、たった一つの違いがあるだけで、彼がそうあり続ける限り、きっと永遠に相容れることはないのだろう。黒子は寂しい気持ちを紛らわすため、鞄の紐を握る手に力を込めたのだった。 |