対桐皇戦終了後、笠松はキャプテンとしてチームメイトの健闘を称え、冬に向けて鼓舞した後、一人ロッカー室に籠って泣いた。泣いたというよりは、叫んで全て吐き出した気分だった。背負ったものを降ろす術が、他に見当たらなかった。同じ三年の仲間たちが、何も言わずに去ってくれたのが、彼にとってはとても有難かった。笠松自身も一人になりたかったこともあるが、負けた悔しさに泣いた後輩を連れていってくれたことに感謝した。後輩に頼りっぱなしでは情けない。せめて自分自身へのけじめくらい、自分でどうにかしようと笠松は思った。そうして、泣いた。泣いて、吐きだした。
 どれくらい時間が経ったのかはよくわからなかった。ただ、ふと気づいたときに、遠くでまだ試合の歓声が聞こえたから、そう時間は経っていないはずだった。30分も経っていないのかもしれない。きっとひどい顔をしているのだろう、と思いつつも、顔を洗うためにはまずはここから出なければ始まらない。散らばるジャージを羽織って、乱雑に物を鞄に詰め込むと、笠松は立ち上がってロッカー室を後にしようと、扉を押しあけた、「わ!」と同時に扉が何かにぶつかる感触と、少し控えめな悲鳴が響く。人に当たったのだと瞬時に判断し、笠松は慌ててもう一度閉めた。

「す、すみません!」

 扉の内側から声をかけると、「いえ、こちらこそすみません」と返ってくる。今度はぶつからないようにと慎重に開扉し、そっと扉を潜り抜けると、そこには見覚えのある顔があった。

「・・・・黒子?」
「・・・・!」

 出てきた笠松を見て、黒子は驚いてみせた。笠松さん、と、ぽつり、そう呟く。「お疲れ様でした」息を大きく吸い込んでそう言う黒子の目は、まっすぐだった。同情も、蔑みもない。そうか、と思い出す。誠凛も、桐皇に負けたのだ。

「青峰君、強かったでしょう」
「・・・・強いなんてもんじゃねえよ。ああいうのが五人もいただなんて、ほんとどうなってんのお前の母校」
「お陰様で色んな異名がついてます」

 肩を竦める黒子の視線が、少し笠松から逸らされた。すっかり忘れていたが、自分が泣きはらした目をしているであろうことが思い当り、笠松も条件反射で、ふいと横を向く。
 まったくの他人というわけではないけれど、ここに黄瀬という媒介がいない今、微妙な隔たりが二人の間にはあって、さてこの沈黙をどうしたものか、と笠松が考えていると、先に口火を切ったのは黒子だった。

「こんなこと言われても混乱するだけだと思いますけど、でも言わせてください」

 予想だにしない言葉がするりと黒子から飛び出してくる。笠松は眉根を寄せつつ、黒子に視線を戻した。ふ、と小さく微笑んでいる。

「ありがとうございます」

 ゆっくりと目を瞑ったと思えば、そんな一言を黒子は紡いだ。はあ?黒子からお礼を言われる理由が、微塵も思い浮かばない笠松は、遠慮なしに不躾な一言を発する。黒子は相変わらず口元に笑みを称えたまま、「ですよね」と少しだけ困ったように言った。ちらりと腕時計を見遣って、まだ時間があると判断したのだろう、黒子は笠松を見上げる。

「黄瀬君が、色んなことを学べたみたいですから」

 何を言い始めるのかと思えば、笠松の後輩、黄瀬涼太の話だった。モデルをしているとか何とかで、やたらとルックスのレベルが高く、かつバスケットも文句なしに上手い。今日の桐皇戦でも一番の活躍をしていたのだ。

 キセキの世代が敗北を知らないことは、最早有名な話だった。
 最強の五人(正しくは黒子を含め六人)が揃った、キセキの世代。その無敵さ故に、帝光中学は負け知らずだったと聞く。黄瀬涼太が海常高校にやってきたばかりの頃も、何かとそういうことを匂わせる発言をしていて、些細なことで先輩を苛立たせた。本人は無自覚なのだからこれまた性質が悪い。黄瀬自身、あけすけな性格のせいか、どうも許してしまうのだけれど。
 そんな黄瀬が敗北を知ったのは、つい先日、目の前のこの男、黒子テツヤが所属する誠凛高校に負けた時のことだ。

「って言ってもなあ、やっぱあいつにとってはお前が大きいんじゃねえの」

 笠松はキセキの世代間に何があったのか、詳しいことは知らない。それでも、黄瀬が黒子を追いかけている様を見れば、黒子が離脱していったことは想像に難くないし、それが大きな波紋となってキセキの世代の連中の間に横たわっているのではないかと考えている。決してずば抜けた運動神経を持っているわけでもないのだが、それでも天才と称される他のキセキの世代が注目する男、黒子テツヤ。笠松も黄瀬が変わったのは誠凛に負けてからだと思っているし、黒子も彼を負かすことに何か意義を見出しているように見えた。
 だから黄瀬が何かを学んだのだとすれば、きっと黒子からなのだと思っている。

「気づいてないんですね」
「何を?」
「黄瀬君が、無表情になる瞬間があるってこと」
「無表情?」
「はい。ああ、黄瀬君も吐き出せるようになったんだなと思いました」

 無表情、という言葉にあまり良い印象はない。ついでに言うなれば、黒子こそ最も無表情に近い男である。少なくとも笠松の知る限りでは。一体何を言おうとしているのか、皆目分からず、笠松はただ適当に相槌を打つことしかできなかった。

「黄瀬君て、人当りが良いでしょう」
「まあ、そうだな。それがあいつの良いとこなんじゃねえの」
「そういう見方もありますね。でも、僕は黄瀬君のそういうところが苦手でした。気を遣う、というのとは違うんでしょうけど、あまり負の感情を吐き出さなかったので」

 それは、と笠松は反論する。

「お前がそうだったからじゃねえの?」
「それもあると思います。でも僕の場合はそれは無意識ですから。感情に乏しいと言われますけど、別にそういうわけじゃないんです。表に出ないだけで」
「別に乏しいとは言ってないけど・・・・」
「ああ、気にしないでください。よく言われます」

 そこで黒子は一旦言葉を区切って、考え込むような仕草をした。表に出ないだけ、と簡単に言うけれど、それはつまり本人以外には中々彼の感情を読み取ることは難しいということで、笠松は黒子が自分に何を伝えようとしているのか、やはりどうもわからなかった。

「でも、黄瀬君は違う」
「違うって何が」
「彼は意識的に、表情を作ります」

 どの辺が!?と笠松は思わず声を荒げた。まだ黄瀬に出会って数か月しか経っていないものの、思い出すだけでたくさんの表情が脳内を駆け巡る。それは何も笠松だけに向けたものではないはずだ。落ち込んだり笑ったり、何かと忙しい。

「あいつ、いつもころころ表情変わるけど・・・・別にお前らと話してる時と変わんなくねえ?」
「そうかもしれません」



 でも多分、貴方は僕らが知らない黄瀬君を見ていると思います。



 だからありがとうございます、と黒子はもう一度頭を下げた。無表情の黄瀬?と笠松はどうにか記憶の引きだしを開けたり閉めたりしながら引っ張り出そうと試みるけれど、どれが黒子の言う「無表情」に当てはまるのかわからなかった。

「笑いたくないときに、笑う必要なんて無いってことです」

 黒子は時計を見遣り、そして今度は、「あ、もう行かなくちゃ」と呟いた。肩から下げるエナメルと軽く飛び跳ねるようにしてかけ直す。つられて笠松も自分の腕時計を見れば、乗る予定だった電車の時刻をとっくに過ぎていた。

「やべ、俺も急がねえと!」

 結局何を伝えたかったのか、理解できないままだったけれど、悠長に話している時間はない。笠松は簡単に別れを告げると、すぐに踵を返して出口へと向かう。



「笠松さん、黄瀬君のこと、よろしく頼みます!」



 背中に追いついてきた言葉に、お前は黄瀬の母さんか!?と思わず笑いながら叫び返す。「似たようなものです」「はあ?」自分で振っておきながら、肯定の言葉が返ってくるとは思わなくて、笠松は思わず足を止めて振り向いた。

 もう黒子は反対を向いて歩き出していた。
 心なしか、背中が寂しいと言っているようだった。






弟子のゆくえ






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