世界が反転した。



 それはもう、文字通り。白黒反転。ぼう、と浮かび上がる扉。立ち上がって水分を補給しに行こうとした黒子の頭は、ぐわん、と揺れた。数メートル先の体育館の扉が、果てしない向こう側にあるように感じてしまう。呼吸が中々整わない。元々周りに比べて体力のない黒子は、回復するのも遅い。だから、ペース走を終えて戻ってきて、一人黒子がバテていても、きっと誰も気にしなかったのだろう。部員は皆体育館に戻ってしまっていた。けれど黒子はすぐに体育館には戻れずに、木陰で呼吸が整うのを待っていたはずなのだが、一向にその気配はなかった。ひゅ、と吸い込んで、上手く息が吐き出せない。ああこれが過呼吸か、と、どこか冷めた様子で黒子は自分の現状を分析していた。瞼を開けることさえままならないし、そんなことでさえ体力が消耗されるのではないかと思ってしまう。ぐったりと芝生に横になる。肩でする呼吸が如何せんつらい。誰か通りかかればいいのに、という思いと、誰も来ませんように、という相反する思いが彼の中でせめぎあっていた。

 あ、やばい。

 動かない手足と、妙な形のまま固まってしまった手先。感覚がなく、しびれている。苦しい、吐き出せない、酸素が上手く回らない。



「ゆっくり呼吸しろ。自分で吐いた息を吸え」

 何時の間に現れたのか、黒子の背中をゆっくりと撫で、呼吸のリズムを作り出してくれる人がいた。口元に何かを当てられたような気がして、うっすらと目を開けると、どこから持ってきたのか紙袋だった。そういえばどこかでそんなことを聞いたなと思いつつ、ゆっくりと呼吸しようと試みるも上手くいかない。身体も動かない。自分の身体が思い通りにいかない恐怖に、黒子は焦っていた。

「しびれているのはその呼吸のせいだ。呼吸が落ち着けばすぐに戻る」

 黒子の心情を読み取ったかのように、言葉が降ってくる。

「長く吸って、吐いて。吸って、そうだ、ゆっくり吐く」

 言われてもすぐにはできない。ぜえはあと大きく呼吸を繰り返す黒子に、辛抱強く語りかける。段々と、背中を摩るリズムに合わせて呼吸ができるようになってくる。ゆっくり吸って、吐いて。何度も何度も繰り返す。
 まだ呼吸が乱れてはいるものの、過呼吸気味ではなくなってきた。そのタイミングを見計らってのことなのだろうか、ふいに黒子の横で気配が動いた。目を開けてその影を追うにはまだ回復していなくて、黒子はただその気配が離れていくのを感じることしかできない。
 しかし思ったよりも早くその人物は戻ってきた。黒子の呼吸も大分落ち着いている。ひやり、頬に冷たい感触がして目を開ければポカリスエットのペットボトルだった。

「飲め。脱水にはなっていないだろうが一応」

 しびれた手を動かすのはまだしんどくて、無理です、と首を横に振って意思表示をすると、横向きの状態のまま、無理矢理飲まされた。少しずつそれを飲み込むと、なるほど、大分楽になった。



「――――ありがと、ござ、いました、緑間君」



 途切れ途切れにお礼を言っても反応は返って来ない。

「無茶するからこうなるのだよ」
「そ、なに、いつもと、変わらな、い、と思い、ます」
「いつもオーバーワークだ。お前は青峰や黄瀬とは違うのだから自覚しろ」
「自覚、し、てます」

 ぎぎぎ、と腕を動かして少しだけ上体を起こす。木の幹にもたれかかるように座って、もう一度ゆっくりと深呼吸をした。呼吸は大分整ってきたものの、しびれてしまった手足の感覚は、まだあまりよくならない。傷めないようにそうっと握っては開くを繰り返す。ちらりと緑間を見遣れば、ただ黙って隣に座っている。さらさらと風に靡いていく前髪を鬱陶しそうに払いのけていた。

「助かりました」
「一度なると癖になりやすいから、気を付けた方がいい。紙袋も常備しておけ」
「う・・・・癖になるん、ですか・・・・嫌だなあ・・・・」
「飲み込むように呼吸するからそうなるのだよ」
「飲み込む?」

 つらいことを、だ。緑間はそっぽを向いた。それは一体どういうことですか、と黒子が問うても答える気はないようだ。蒸し暑い夏の午後、吹き抜けていく風も気持ちが良いとは言えない。渡されたポカリスエットのペットボトルの冷たさが、非現実的だった。

「慣れて、ますね」
「・・・・」
「緑間君も、なるんですか」
「俺はお前のように軟弱ではないのだよ」
「じゃあ何故」
「昔の話だ、癖でも持ち歩いてる」

 緑間真太郎。彼のバスケットの実力はさることながら、その努力も天才の領域だ。どちらかと言えば「技を磨く」ことでその天才っぷりを見せつける彼の得意技は、習得するのに相当な努力が必要だった。「人事を尽くして天命を待つ」などと言っているけれど、つまるところ自分にできることは出来る限り全て行うということであって、努力の塊だった。

「僕も、いつかは、そうなれますか、ね」
「愚問だな」
「・・・・それは、どういう意味ですか」
「そのままだ」

 Tシャツから延びる長い腕、ハーフパンツから覗く長い脚、どこにも無駄な筋肉など無いように見える。青峰のそれには叶わないにしても、十分すぎるポテンシャルだ。彼もこれを作り上げたのだろうか、もしそれが事実ならば一縷の望みをかけてもいいのだろうか、黒子は変わらず無表情のまま、緑間へ視線を送る。

「休憩終わるまであと10分。それまでにせいぜい頑張って復活するんだな」

 言い残して、緑間は体育館の中へと消えた。
 太陽が眩しくて、黒子はその姿を追うことができなかった。






だから手をのばす






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