「陸上の選手って羨ましくない?」

 古びたテレビの奥で、盛大な喝采を受ける黒人ランナーをぼんやりと見遣りながら、伊月が言った。黒子は自分が話しかけられているわけではないだろうと思い込んでしまったので、返事をするのにたっぷり1分かかってしまった。あのすみませんもしかして話しかけてます?黒子が一応伺いを立ててみると、伊月の頭が一度、上下に揺れた。肯定に違いない。そもそも部室には今二人しかいないのだから、どちらかが声を発して、相手に対して話しかけたのではないのだとすれば、独り言ということになる。自分の存在をきちんと認識してくれていたことに驚きつつ、黒子は伊月へ向き直った。

「はあ、まあ、足が速い人って格好良いですよね」
「そういう話じゃなくて」
「じゃあどういう話ですか?」

 これ、と伊月が指差すのはテレビ画面で、見ればハイライトの途中だった。男子200m決勝、一千分の一の差で、世界のトップに躍り出た男の、力強い走りが再生されている。即座に判決は出されずに、画像による解析が必要だったようだ。決勝が終わったというのに、妙にざわついた会場、それでいて騒がしい雰囲気ではない。ただ黙って何も表示されない電光掲示板を見つめる選手、次の瞬間、地響きのような歓声、歓声、歓声。
 何とも感動的なシーンですね、黒子は素直な感想を口にした。ずっと長年に渡って勝てなかったライバルに、コンマゼロゼロイチの差で勝つ。掴み取った優勝。世界王者の座から引きずり降ろされたはずなのに、二位の選手も何故か笑顔だった。それくらい、申し分ないほどの感動的ストーリーだった。

「いや別に感動して欲しいわけでもなくて」
「伊月先輩、これ見て感動しないんですか?心揺さぶられないんですか?」
「まったく無表情の黒子にだけは言われたくないよね!」

 鷲の目と言われる細い目を、さらに細めて伊月はほとんど睨むようにしてテレビ画面を見つめていて、一向に目を離さない。そこから感じられるのは感動でも羨望でもなくて、小さな絶望だった。ああ、と黒子は思い当って呟いた。



「線引きがわかりやすいから、ですか」



 画面上に綺麗に表れたレーンの境界線を指でなぞって、ゴールラインを超える。1レーンから8レーンまで横切るように今度はゴールラインをなぞって、そしてそのまま振り切って画面からはみ出していく。黒子の指の動きを目で追っていた伊月は、安心したような表情を見せた。

「陸上競技って、誰が見ても明らかな数字で勝敗が決まるだろ?こうやってパッと見じゃわからないことだって写真判定すれば歴然とした差が出るわけだし、スポーツマンに優しいよなあ」
「貴方は負けましたよってはっきりきっぱり見せつけてくれるところがですか?」
「そんでしかもそれは自分が遅かったってわけじゃん」
「そりゃあ個人競技ですからね」
「そ、だからそこがいいなって。チームってそんな単純じゃねえじゃんか」

 黒子はあまり伊月と話したことがない。と、言っても部員数が少ない誠凛高校バスケ部は、部員同士と会話をしないことなどありえない環境なので(水戸部は例外)、帝光中学時代の所謂「あまり面識のない部活仲間」に比べたら格段に接触はしている。けれどわかりやすい部類に入る日向や小金井、火神などに比べれば、やはり謎多き先輩だった。
 普段は意味のわからない面白くもないダジャレばかり言っているし、中学からバスケットをやってきたという割に、日向や木吉に比べて熱血ではない。スポーツをする者である以上、勝利に対する執念はあるのだろうけれど、それをあまり後輩に見せる男ではなかった。

 よって、今のこの状況に黒子は判断をしかねていた。

「スポーツである以上点数によって勝敗が決まるわけだし、人間負けた時は大抵心底悔しくてそんでそれを自分のせいだと思い込んで、それバネにして頑張るわけだろ。けど勝利は違うよなあ」
「何がですか?」
「自分が頑張ったからかも、自分ってすごいのかも、って思っちゃうじゃん?」

 伊月は部室の真ん中にあるベンチに思い切り寝そべった。同じタイミングでテレビのスイッチを落とす。騒がしかったテレビの向こう側が急に消えて、いくらか静けさが戻ってきた。

「いいんじゃないですか、実際チームに貢献したわけですし、伊月先輩は上手いです」
「でも俺が5人いたって勝てない」

 何に?とか、どこに?という質問はどうも許されない空気のような気がして、黒子はなんとか声を飲み込んだ。
 ああくそでも単純に嬉しい、伊月が言った。



「伊月先輩がいたから勝てたんですよ、誠凛はそういうところです」



 試合後は一緒になって馬鹿みたいに勝利を喜んでいた男が、ぐるぐると余計なことを考えて沈んでいる。黒子は立ち上がって、伊月を見下ろした。
 誰のおかげの勝利かなんて、チームの勝利には関係ない。そう言い切れなかった自分に嫌気が指した。けれど、伊月に言った言葉にも嘘はなかった。誠凛にいるだけで得られるものがあることに、黒子は改めて感謝した。ここを選んだ過去の自分に、迎え入れてくれた先輩に、共に戦ってくれる同輩に、ライバルに。そして神様に。



 だけど、ねえ神様、どうせ感情を作るのならもっと単純な喜怒哀楽だけにしてくれたらよかったのに。






優しくないスポーツ






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