そうして貴方は笑うのでした。










サファイア

 










 教室がいつもより静かだった。
 と、言ってもこのクラスは比較的落ち着いている方であるので、普段からさほど煩いわけではない。それでも、幾分か静まっているように見えるのは、人数のせいなのだろう。
 今日は、この辺りでは、規模の大きな私立高校の受験日だった。私立というのは不思議なもので、どこの学校も、大概レベル別に受験できるシステムになっている。特選、と呼ばれる最難関大学を目指す生徒を育てるためのトップクラスから、特進、総合、とその幅は広い。だから、受験する中学生の人数も必然的に多くなるのだ。
 の中学からも、実に学年の半分弱が受験している。故に、平日である今日、学校へ顔を出したものは少ない。バラバラに座るクラスメイトを、一人一人見渡して、は着席した。

「おはよう」

 隣から声をかけられる。
 郭英士だった。の隣は学級委員の真面目な男子のはずなのに、郭がそこに当たり前のように座っていて、一瞬驚いてしまう。それから、ああそうか、と理由が思い当って納得した。
 年明けてから、受験者が多く出席人数が少ない日は、自分の席ではなく、前から順に適当な席に座る。授業をやりやすくするためだ、と教師は言う。面倒だ、というクラスメイトも多いけれど、は嬉しかった。このクラスに居られるのも、もっと言えばこの学校に居られるのも、あと2か月を切っている。少しでも、皆と一緒に居たいと思っていたのだ。それはきっと、だけではないだろう。
 の席は前から3番目の窓側。多分、郭がその隣を選んだことに、特別な意味はない。前から3番目、窓際。誰もが無意識に選びそうな席である。

「おはよ、郭くん受けないんだ?」
「…ああ、A校のこと?まあ、もう推薦で決まってるし」
「そういえば、そっか、クラブチームに近いところ受けたんだっけ」

 郭英士は川崎ロッサのクラブチームに所属している。高校サッカーはやらないの?と前にがふと疑問に思って尋ねてみたが、多分俺はクラブチームの方が合っているから、と静かに彼は答えた。そしてその言葉通り、彼は高校でもクラブチームでのサッカーを選んだようで、1月早々、単願推薦で受けた私立高校に、合格していたようだ。

「俺、さんにも言ったよね?」
「いや、合格した、っていうのはみぃから聞いただけだよ。受けるっていうのは聞いたけど、―――あ、誕生日だね?おめでとう」

 目線を上げて黒板の隅に書かれた日付を見て、は小さく声をあげた。郭は特に驚いた風でもなく、ごく自然に「ありがとう」と言う。

「今日はお祝いだね?」
「さあ、どうだろう。サッカーあるしね」
「お、ならあれじゃん、カズマくんとユウトくんから盛大に祝われるよ!」

 二人は、2年間同じクラスだった。
 特別仲が良いと言えるわけではない。良いか悪いかの二択しかないならば、良いに入る、そんな程度である。仲が良い、わけではない、けれど。



 似ている、



 とは思っていた。共鳴、という言葉が一番しっくり来るのかもしれない。
 郭がどう思っていたのかは、にはわからない。けれど、おそらくは、同じことを感じていたはずである。



 一見クールで取っ付きにくく見える郭の内側には、実は情熱が潜んでいる。
 鮮やかで弾けた印象を与えるの内側には、人を安心させる静寂が潜んでいる。



 お互いが、このことについて実際に言葉にしたのは、おそらく一度だけ。昨年の、やはり郭の誕生日の辺りだった。そういう理由がなければ、特に話しかける理由がなかった、と言っても間違いではない。
 けれども、はずっと、彼を見ていた。
 自分でも不思議だった。40人弱の生徒が入り乱れるこの空間の中で、ふと、目に留まる存在。ぱ、と顔をあげて、すぐに見つけられる。

 でも、それだけだった。

 それだけだったけれど、小さな幸せだった。今日も、彼がいる。今日も、彼は同じことを感じてくれているのかもしれない。

「寂しいなあ」

 思わず口をついて出た言葉に、瞬時に手で口元を抑えるけれど、既に時遅し。鞄の中身を整理していたらしい郭が、ゆっくりと振り返った。

「…卒業が?」

 ガラス玉のように綺麗に光る郭の双眼から、心情を読み取ることはできない。

「うん」
さんは、友達多いからね」
「…その発言の意味を問いたいんですけどお兄さん」
「そのままだよ、さんの周りはいつも人で溢れてるから」
「その、周りの中に、郭くんは含まれてないの?」

 他意はなかった。
 ただ、彼の発した言葉を、素直に受け取れるほど、もう子供ではなかっただけだった。頬杖をついて、臆することなく、は彼を射抜くように見つめる。近くで交わされるクラスメイトの会話が、徐々に遠ざかっていく感覚。浮かび上がるように、郭だけがそこに存在していた。
 不思議だった。
 好き、なのだろうか、と何度もは自分に問いかけた。それでもその思考の先に答えはなく。ゆらゆらと心の内で、不安定に揺れるその感情に、名前をつけることは、未だにできていない。

「含まれてないよ」
「なんで?」
「言ったでしょ、踏み込めない、って」



 俺はさんに踏み込めないし、さんは俺に踏み込めないよ、きっとずっと。



 は、祭り事が好きだった。
 大人数で騒ぐのが好きだし、何かの行事で中心となって動くことも、好きだった。休み時間はどちらかと言えば皆でわいわいおしゃべりをする。放課後は部活がなければほとんど必ずと言っていいほど、数人で遊びに行く。学校へ通う通学路を、一人で歩いたことがない。
 そうやって、ずっと生きてきた。それは、もう大分幼い頃からのの生活スタイルで、誰かがいるのに、一人になることはない。

 だから、郭に惹かれるのかもしれなかった。

 別段、彼が人見知りであるとか、人から疎まれているだとか、そういうわけではない。それなのに、休み時間は、静かに一人で本を読んでいたり、登校中は大抵一人だった。
 そして、それが「普通」だった。
 教室内で、誰かが一人でいれば、それはどうしたって、誰かの目に留まってしまう。それが、郭にはなかった。そして、話しかけにくいわけでもなかった。「独り」という印象を、与えないのだ。

「寂しいなあ」
「…何が?」
「そうやって、重なることはない、って言いきられることが、だよ」

 共鳴するのは、重なるからではない。裏表だからなのだ、と気づいたのは、いつのことだろう。





「でも、だからずっと、キレイなままだ」





 郭は笑った。



 きらきらと。
 多分この先ずっと、その光が失われることはなく。


 
 鮮やかに、けれどひどく冷たく、ゆらゆらと揺れる、ブルー。





「…サファイアだ」





 キンコン、場に似合わない軽いチャイムの音で、の呟きはかき消される。何?と郭が問うてきたけれど、は曖昧に笑うことしかできなかった。





END
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郭英士誕生日企画【0125―vol.jewelry―】様提出

12年03月08日 HP再録

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