群青みたいね、と彼女は言った。
 群青だよ、と彼は言った。





















 東京に初雪が降って、三日が過ぎた頃だった。
 積もった雪のほとんどがとっくに姿を消していて、残っているのは、一日中陽の当たらないところにある、踏まれて固く茶色くなった、ほとんど氷みたいな雪だけだ。

 郭英士は、ゆっくりとした足取りで、そういう雪なのか氷なのかわからない物体をしっかりと避けながら学校へと向かっていた。コートに身を包んで寒そうに彼の前を歩くサラリーマンの横を、マフラーをぐるぐるに巻いた女子高生が元気いっぱいに抜いていく。
 郭はちらりと自分の手に視線を遣った。制服の上に着込んだPコートの袖から覗く手は、少しだけ荒れている。グラウンドの水はけをよくするために、雪が降ると予想された日の前日は、炭酸マグネシウムを撒くことが多い。軍手を嵌めて作業をしていても、大体荒れてしまうのは、浸透してくるからなのだろうか。今度からはゴム手袋をしようと決めて顔をあげると、同じ制服に身を包んだ生徒がちらほらと視界に入る。
 その中に見慣れた顔と、それから声を見つけて、彼はわき道に逸れた。

 住宅街の小さな路地を行く。
 塀の上から覗く鮮やかな花に、冬にもこんなに綺麗な色で咲く花があったんだな、とそんなことを思いながら、郭は少しだけ歩調を速めた。路地裏を通るのは、どうしても遠回りになってしまうため、最短距離を行くつもりで家を出た今日は、早めに歩かなければ遅刻してしまう。あまり太陽が当たらないが、雪はほとんど見当たらなかった。きっと午後になれば当たる場所なのだろう。帰りはあまり路地裏を通ったことがないからわからなかった。

「郭!」

 二つ目の角を曲がったところで、ふいに名前を呼ばれた。
 振り返って、別の曲がり角から顔を出したのは、クラスメイトのだった。先ほど大通りで見かけたはずの彼女が、こんなところにいる理由が見当たらず、郭は内心眉を顰めるような気持ちで、それでも一応立ち止まる。

「おはよ、変なの、いつもこんなところ通ってるの?」
「いつもじゃないけど、たまにね」
「ふうん、人あんまりいないんだねえ」

 きょろきょろと周りを見渡して、は郭の隣に並んだ。
 膝丈のスカートから、ハイソックスまで少しだけ覗く足が、それでも寒そうだ。赤いチェックのマフラーに顔半分を埋めて、今日は冷えるねえ、とが言った。

「あ!そだ!今日誕生日だよね!おめでとー」

 くるりと顔を郭の方へ向けて、はにこにことした表情で、そう告げる。ありがとう、と郭が言うと、やはり満面の笑みで、「どういたしまして」と言った。

 郭とは、別段仲が良いわけではなかった。クラスメイトである以上もちろん会話をする機会はあるので、話したことがないわけではないけれど、クラスの中心にいると、どちらかと言えば教室の端から見守るタイプの郭とでは、あまり接点がないのは当然といえば当然だった。
 教室の一番後ろの席に座りながら、黒板の前で友人と笑い合っているを、郭は日に何度も目にする。

さん、少し早めに歩かないと、間に合わないから、急ごう」

 郭が歩調を速めても、気にせず自分のペースで歩こうとするに、郭が声をかける。先ほどの郭と同じく塀の上から覗く鮮やかな色をした花に気を取られていたらしいは、一拍空けてから、小走りで郭の下へと近づいてきた。

「遠回りなのに、なんで裏を通るの?」

 郭の顔は見ずに前を向いたままが訪ねる。笑っているのか笑っていないのかわからなかった。真っ赤な唇から吐き出された空気が、外気に曝されて白くなる。本音を言う必要などどこにもなかったのに、その白くなった吐息に気を取られていたからなのか、郭の口からはいつの間にか本音が滑り出していた。



さんたちが見えたから」



 ぎっ、とそんな音がするのではないかと思うような動きでは止まった。口元はマフラーに覆われていて感情を読み取ることができそうなところは目しかない。光が微かに反射するその双眼は、無機質なガラスのようで、郭には彼女の感情を知ることはできなかった。郭は言った瞬間に確かに、言ってしまった、とは思ったけれど、特に後悔しているつもりもない。

 いつもニコニコと笑っているのことを、郭は、奥が見えない人だ、と思っていた。
 裏表があるだとか、そういうことを勘繰っていたわけではない、ただ、あれが全てではないのだろうと、漠然と感じていた。よく通る高い声を持つ彼女に、自然と目がいってしまうのは、何も郭だけではないはずである。そうして何と無しに郭は彼女に目を向けるようになり、そして気がつけば目で追うようになっていた。



 自分とは、似ていない。
 はずなのに、どこか、共鳴するような気分になる。



 ふいに、が視線を外した。

「『花が、私を画家にしてくれました』って知ってる?」
「・・・・は?」

 の目線の先には、鮮やかな花が咲いている。突拍子もない言葉に、郭は間抜けな一文字を返すことしかできず、緩慢な動きで視線を追った。

「あたしも詳しくは忘れちゃったんだけど、モネの言葉だよ」
「・・・モネ、ってあの、睡蓮の?」
「そう。あの人、花が好きなんだって」

 それってきっと花がなかったら画家にはならなかったってことでしょう、そう言い切るなんてすごいよねえ。
 は塀のギリギリまで歩み寄り、ぼんやりとした表情でそう言った。少し離れた大通りを、何人かが駆けていく音がする。慌しい朝の時間間隔が、急げ急げと急かしてくるけれど、何故か二人が動くことはなかった。共に、視線は花に向けたままである。

「『睡蓮』って作品、いくつかあるんだけど、あたしの記憶に残ってるのは、群青なの」
「群青?」
「そう、群青が目に飛び込んでくる、『睡蓮』。ほら、社会の資料集に載ってるじゃん」

 言われて郭は資料集に載っていたモネの『睡蓮』を思い浮かべ、「あれは群青じゃなくて紺色じゃない?」と訝し気に言う。

「違うの、実際に見ると、群青なんだよ。紺色なんだけど、でも、群青って感じなの」

 ふうん、と返事をしながら、何が言いたいのだろうと郭はをただ見つめることしかできなかった。確かに目を奪われるような花だし、そこから繋がった花の話のように思えるけれど、それでもその終着点は予想できない。
 くるり、とが振り返った。





「郭は、群青みたいね」





*********************





 キンコンと軽い放送の鐘の音が学校中に響き、昼休みになった。
 ざわざわとした余韻が教室には充満している。部活に向かう生徒もいれば、一目散に校庭に駆け出す生徒もいるし、教室に残っている生徒だっている。各々が好きなように行動し始めたそのタイミングで、が郭の元へとやってきた。

 結局あの後、走らなければ遅刻してしまうということにやっと気づいた二人は、ほとんど会話らしい会話をすることもなく、なんとかチャイムが鳴る寸前に教室に滑り込んだ。2人の席はそれなりに離れているため、午前の4コマの間、会話をすることはなく、そのまま給食の時間を向かえ、そして昼休みになった。いつも通り、の高い声が教室の前方から聞えてくるな、と郭がぼんやりとそう思っていると、ふいに机に影が落ち、顔をあげると彼女がいた。

「嫌いなわけじゃないよね」

 と、一言だけ言うと、は郭の前の席に腰を降ろす。サッカー雑誌をめくっていた手をぴたりと止めて、郭はに向き直った。

「どれの話?」
「どれ?いや、あたしの話」
「・・・・裏道に逸れた話?」
「ああ、そうそうそれ!」

 はクラスでも目立つ存在だ。つまり、目を引く。数人の視線が郭たちの方に集まっているのを、彼は気づいていたけれど、気づかなかったフリをして、「それで、なに?」と話しの続きを促した。

「なに?じゃないよ、だったらなんでわざわざ逸れたのかなって思って」
「なんでって言われても、そのままなんだけど。さんたちが見えたから、逸れた」
「それってつまり、あたしたちに、あー違う、あたしに会いたくなかったってことでしょ?でも、別に嫌いなわけなじゃない。それじゃあ、避ける理由、にならないよね?」

 ニコニコと、いつも通りの笑顔をいつの間にか装着したは、手持ち無沙汰な両手でスカーフをいじっている。窓から差し込んでくる太陽の光と暖房のせいで変に教室の空気は高揚していて、それはその中にいる、郭も、そしても例外ではなかった。「そう?」と少しだけ口の端を持ち上げて意味有り気に郭が微笑むと、は面を食らったような顔で「そりゃそうでしょ」と続けた。

「と、言われてもね。だって、好きだけど別に会いたいわけではない人だっているでしょ?それと同じようなものだよ。会いたくないからって嫌いなわけじゃないよ。にはそういう人はいないの?」

 カシャン、とそこで初めて郭はシャープペンシルを筆箱に仕舞った。数学の教科書は無造作に開かれたまま。はそこへ目を落としながら少しだけ考えるような素振りを見せ、それからちらりと目線だけを上げる。

「いるけど、その場合、自分が踏み込みたくないっていうよりも、自分がその領域に入るべきではないって思うくらい、特別な人だし、郭にとってのあたしはそういうのじゃないでしょ?だから、理解ができない」
「もし、そうだと言ったら、どうする?」

 は大きな目を見開いて、驚きの表情を見せる。郭が何も言わずに様子を見ている間、何人かの生徒が二人の横を横切って不思議そうな顔をして見せたけれど、二人共視線さえもそちらには向けなかった。変に熱気を帯びた教室内にいるせいで、身体は火照ってしまうけれど、郭の脳は急速に冷えていく。
 数分の沈黙を破って、は言葉を切り出した。



「もしもそれが本当なら、つまり同じってことになるね」



 落ち着いた声ではっきりとそう言ったの様子はいつも教室で甲高い声を響かせながら皆の中心で笑う彼女とは、似て非なるものだった。滑るように自然に吐き出された言葉を一語一語噛みしめながら郭はの次の言葉を持つ。
 郭が、のように驚かなかったのは、どこかで彼女がそう答えるのではないかと予測していたからだった。

「群青に似てるって、朝言ったでしょ?あれ、私の郭くんのイメージなんだ」
「へえ、なんで?」
「群青、って辞書で引いてみたことある?」

 の問いに郭は小さく首を振った。

「じゃあ、郭にとって群青ってどういう色?」
「どうって言われても。そのままかな、青系統の、落ち着いた色」
「うん、そうだね、でも群青は、鮮やかな色なんだよ」

 鮮やか?と郭は聞き返した。鮮やかと言えば朱や黄、晴れた日に見る青を思い出すけれど、どうもそれらと群青は結びつかない。

「そう?」
「そうだよ、綺麗で、はっとするような色じゃん。一見落ち着いていて、クールに見えるけど、実は行事事はきちんと力を入れるところとか、喜の感情をきちんと表に出すところとか、そういうところが、郭の鮮やかなところ」

 ね、と今度は深みのある微笑みで、が笑う。何がどう普段と違うのかと言われると、郭自身もわからない。普段のがまるで仮面のようだというわけではないけれど、それでも何かが引っかかる。その引っかかるものが、今は取れたように感じられるのである。
 今度は少しだけ郭が考える仕草をしてみせて、それから、ああ、と思いついたように呟いた。



「それならさんは、群青だ」



 鮮やかな色だと言われるのに、奥深く、見る者を落ち着かせる色をしている。それでいて、人を引きつけて止まない。


「・・・・そう?」
「うん。まったく違うのに、似ているなと思うのは、そのせいかな」
「似てる?あたしと郭が?」
「うん、本質が。よくわからないけど」

 表に現れる性質はお互い異なるけれど、持ち合わせる二つの性質は、同じ。



 同じというほどには、遠く、異なるというには近すぎる。



 !と後ろの扉から隣のクラスの女生徒が顔を出し、を呼んだ。とたんに、プツ、と二人をつないでいた緊張の糸が切れる。ほぼ同時に前の方でクラスメイトの誰かが窓を開け、ひゅう、と冷たい寒気が流れ込んできた。二人を取り巻いていた熱気も、あっと言う間に冷えていく。
 今行く!とは叫んで、立ち上がり、郭を見る。

「朝に言ったモネの言葉、覚えてる?」
「花が画家にしてくれた、ってやつ?」
「これ、ちょっと恥ずかしいから忘れてくれても構わないんだけど、私にとっては郭が花だよ」
「それで、じゃあ俺はを何にしたの?」
「それは秘密」

 にこ、といつもの笑みでは綺麗に笑い、それから乱雑に並ぶ机の間を、扉に向かって駆けていった。

 珍しいじゃん郭くんと話すなんて、そうだねそういうこともあるんじゃないかな、ふうん仲良くなったの?、ううん別に。

 郭の周りに寄ってきた友人の声の向こう側で、の声が混じったそんな会話が聞こえてきた。「郭ってと仲良かったっけ?」パックのジュースをストローで勢いよく吸い込みながら聞いてくる友人に、「別に」と一言郭は答えた。

 キンコン、と軽い予鈴の鐘が鳴る。





 いつも通り、教室内が慌ただしくなった。





END
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『睡蓮』クロード・モネ 1898年
『おそらく、私は、花のおかげで、画家になれたのでしょう』クロード・モネ 1924年
2011年1月現在 渋谷Bunkamuraミュージアムにて開催中の『モネとジヴェルニーの画家たち』を参考に致しました。

郭英士誕生日企画【0125】様提出

11年03月05日 HP再録

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