「なんで?」

練習試合の帰り道。
主語も述語も修飾語も綺麗に取り去られた一言に、笠井は怪訝そうに顔をしかめた。

「あのさぁ、いつも思ってたんだけど、もう少しわかりやすく言って」

いつもって何だ、と反論しようかとも思ったが、話が極端に逸れてしまうことが目に見えていたので私はなんとか本題に関係のある言葉を選んだ。

「なんで竜也なのかなって思って」
「・・・・なんでって?」
「だって笠井、ファーストネームで呼んでる人、水野以外にいないでしょ?」

ことりと首をかしげるという滅多にやらない動作で私は言う。笠井は鳩が豆鉄砲を食らったような顔で私をまじまじと見つめている。いや、どちらかというと様子を伺っているとか観察しているといった方が正しいかもしれない。どちらにしたって大した違いがないことは確かだけれど。



むせ返るような暑さが私たちを包む。夏も本格的になってきて、そこら中で蝉の鳴き声が響いている。ペットボトルを再利用して作られたアスファルトにあたって太陽の光が乱反射して眩しかった。

私が入部して2ヵ月が経った。期末テストを終え、あとは夏休みに入るだけというこの時期は部活により精を出すものが多い。サッカー部はいつだって部活一番の人たちが大半だけれど、彼らにとってもこの時期は少し違うらしく、いつもよりも少しだけ雰囲気が緊張している。決してそれは悪い意味なんかではない。その良い意味での緊張感が効果をもたらしたのか、今日の試合も4対0の快勝だった。

「試合中は名字なのになって思って」

今日の試合を見ていてなんとなく思ったのだ。

「・・・・別に竜也だけじゃないよ、誠二だって、名前呼びだし」
「でも藤代のことは藤代に言われたからでしょ?」
「なんで知ってんの?」
「本人に聞いたから」

笠井は再び不愉快そうに顔を歪めた。
その横顔に一筋の雫が通ったのを見て、夏だなあ、なんてことを思う。何があってもあまり表情には出さない笠井でも、さすがに汗まではどうすることもできないらしい。ガンガンに照りつける太陽が欝陶しかった。

「なんで?」

もう一度同じように言葉を吐く。それからさらにしばらく黙っていた笠井だったが、私は引かないと諦めたらしく、深いため息をつくと視線を寄越した。



「・・・・俺が、ただ単にそう呼びたかっただけだよ」



ほんとにただ純粋にね、そう言うと同時に笠井は私から目を逸らす。
意外だった。
正直そんな答えが返ってくるとは思っていなかったし、何よりまずそうはっきり述べたことが驚きだった。だけどそれと同時に言われてみれば笠井らしい気もしてきて、私はなんだか無性に嬉しくなる。
と、いうことは、教室でなんだかんだずっと一緒にいるのも、部活で気に掛けているのも、単純に水野のことを気に入っているからなのだろうか。



「笠井は、水野のこと、嫌いなんだと思ってたけど」



つい出てしまった本音に、笠井は不思議そうな顔をする。なんで?目で今度は私がそう訴えられた。

「嫌い、まではいかないかなぁ。うん、好きじゃないけど、気になる、みたいな感じなのかと思ってた。水野と藤代って、根本は似てると思うから」
「その理屈でいくと俺は誠二も好きじゃないことになるんだけど」
「違うの?なら、藤代のことどう思ってるの?」
「すごい奴」

笠井が笑うから、私も笑った。

初めて笠井と藤代に会った時から不思議に思っていたことがある。
おそらく藤代は笠井のことを友達だと思っているだろうし、懐いていることは紛れもない事実だと思う。だけど、それに対して笠井はなんだかどことなく藤代と一線を引いているように見えた。春の霞の向こう側を見ているみたいにそれはとても曖昧なのだけれど、存在していることは確実だった。
笠井が藤代を心底毛嫌いしているとは思えなかったし、笠井の方が藤代を意識しているのもまた事実だったから、今までこの考えを口に出したことはなかった。
聞いたってどうせまた曖昧に笑ってはぐらかされるとばかり思っていたら、案の定。もしかしたら藤代とのことを聞かれるのが嫌なのかもしれない。

「なんで呼びたかったの?」

話題を、水野へと変える。荷物が入った大きな鞄を、笠井は右肩から左へ移動させた。

「・・・・随分つっかってくるね」
「気になるんだもん。珍しいなって思って」

がざがさと鞄を探っていた笠井は、探し物を見つけたらしく、ぴたりと右手の動きを止めた。はい、そう差し出されたのはウィダーインゼリー。昼ご飯を食べていないことがばれていたらしい。私はそれをありがたく受け取るとさっそく開封した。パキリ、そんな小さな音がする。





「俺、竜也のこと知ってたんだよね」





笠井はペットボトルに入った飲料水を流し込む。私はその様子を見ながら、ゼリーが喉を通り抜けていく冷たい感触を楽しんでいた。飲み込むのと同時に笠井の言葉が頭に響く。

「・・・・はい?」

ゆっくりと脳内に染み込んでいったその言葉の意味を理解するまでには至らなくて、私は疑問系で聞き返した。

「だから、俺、竜也のこと知ってたんだよねって言ったの」
「・・・・知ってた、っていつから?」
「小学生かな」

驚いた。
しょうがくせい、と何だか片言な発音で私が繰り返すと笠井は笑った。
高等部の入学式で初めまして的な挨拶を交わしていたあれはなんだったんだろう、とまじまじと笠井を見てしまう。

「前から知り合いだったってこと?」
「違う。たぶん俺が一方的に知ってるだけ」

そう言う彼の横顔は妙に清々しい。
わけがわからなくて、私は両手を挙げて、降参、と呟いた。
私が押し黙っていると、笠井はぽつりぽつりと水野を知った経緯を教えてくれた。
まだ小学校3〜4年の時に、サッカーの大会で見たのが初めてらしい。高学年ばかりの大会で、1人だけ小さなやたらとサッカー技術の秀でた少年がいて、目を引いたのだそうだ。加えてあの容姿。印象に残らないわけがない。

「で、武蔵森の入部試験で見て、入ってみたらいなくて、桜上水に敵としていて、現在に至るってわけ」

なるほどと何度も頷いていると笠井に肘でこづかれた。
と、気が付けば目的の駅に辿り着いていた。私たち2人は他の部員とは違う駅を利用して実家まで帰るので、2人だけでこうして歩いてきたのだ。今日は土曜日。明日は休み。たまにこうして家に帰る。
ちょうど電車が到着したばかりなのか、人々が一斉に改札口から波になってやってくる。その波に逆らうように合間を縫って私たちは駅へ滑り込んだ。ホームに人がまばらに立っている。

「でもどうしてそれが名前呼びに繋がるわけ?」

訝しげに私が言うと、笠井は苦虫を噛み潰したような変な顔をした。
あまり言いたくないことなんだと思うと追求したくなる。
なんでなんでーと私がまくしたてていると、笠井の乗る電車が来てしまった。残念ながら私とは反対方面なのだ。仕方なしに掴んでいた袖を離す。
風を切って入ってきた電車に彼は乗り込むと、じゃぁねと手を挙げた。私も同じような動作を取る。閉まる間際に何か言おうとしたのはわかったけれど、結局何を言ったのか聞き取ることはできなかった。くるりと背を向け、ちょうどやってきた反対側の電車に今度は私が滑り込む。

ブブブッ、とポケットの中の携帯電話からの反応に、私は慌ててそれを取り出した。



新着メール1件。
差出人:笠井竹巳
題名:無題
本文:ずっと憧れみたいなものだったから、そうでもしないと遠いんだよ。



特に意味もなくディスプレイを見つめる。
なぜかどうしても返信メールを打つ気にはなれなくて、私は静かに携帯を閉じた。



――藤代はああ言っていたけど、



深く深く息をする。



――あっちの名前呼びにも何かわけがあるのかもしれない。



タタ、タタン、電車は揺れる。過ぎていく景色を私はただボーッと見つめていた。









   


END
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笠井と水野が幼馴染っていう設定も大好きですが、笠井が一方的に知ってたっていうのも実はこっそり好きです。

08年04月25日


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