「・・・・・・・・・・・」

立ち入り禁止、と書かれた扉が、ドアノブを少し右に回しただけで開いた時点で、もちろん先客がいるだろうとは思っていたけれど、まさかそこに1つ上の見知った先輩がいるとは思わなくて、私は言葉を飲み込んだ。それだけならまだしも、なんだか見てはいけないものを見たようだったので、私はどうすることもでき ずに、呆然と彼を見つめていた。



目は、逸らせない。



相手は広がる空に顔を向けたまま動かなくて。



真っ白な練習着には、茶色と赤の染みがところどころについている。その辺で転びました、なんていう言い訳はとてもじゃないけど通用しない。だからこそ、ここ、屋上に彼は来たのだろうけれど。



「・・・なに」



ぶすっとした声色で彼は短く言う。
気付いていないとは思わなかったけれど、声をかけてくるとも思ってもみなかったので、私はさらに驚いた。

「・・・・おはようございます、三上先輩」
「あー、はよ」
「・・・・今の突っ込み所です」
「うるせーよ」

ぶっきらぼうなところはいつもと変わらないのに、覇気がない。振り返った三上先輩の口元にはうっすらと赤い花が咲いていた。
何があったのかなんて聞くまでもなく明白で、だからこそ私はストレートに言葉を投げた。

「私たちの、2個上の先輩ですね」

そう言って彼をじっと見つめると、「はっ」と三上先輩独特の笑い方で彼は笑った。

「一軍レギュラーおめでとうございます」
「これ見てそれ言うのかお前は。良い性格してんな」
「誰かさんの影響を受けましたのでね」

そう言えば先輩はとても嫌そうに眉をひそめる。私は彼の隣に移動して、ゆっくりとフェンスに体を預けた。

ついこの間、夏の大会のスタメンが発表されて、その中に新に三上先輩と水野が加えられていた。当然彼らが加わった分下げられた人たちがいるわけで、その人たちは控えに回ることになる。それが三年生とくれば、悔しさも並ではない。

「・・・・誰かに、相談したりしないんですか?」

私のこの一言は、馬鹿にしたような笑いでなかったことにされた。「相談?何を、どうやって」、三上先輩にそう言われたような気がした。

「それに、」

しばらく沈黙が続いた後、三上先輩はぽつりとそう切り出した。空を彷徨っていた視線を、首ごと先輩へのろのろとした緩慢な動きで向ける。彼の視線は相変わらず、反対側のフェンスの奥を見つめていた。

「お前が思ってるほど陰湿なもんでもねえし」

三上先輩の言葉を上手く飲み込むことができなくて、私は思わず顔をしかめた。暴力に、陰湿もなにもあったものじゃない。一方的である限り、何があったって、それが正当化されることなんてあるわけがない。
私のその思いが伝わったのか、三上先輩は私をちらりと見た。お世辞にも心地よいとは言えない風が屋上を南から北へ擦り抜けていく。

「女子にありそうな、なんかしつこそうなもんでもねえし」
「爽やかに青い春ってことですか」
「そこまではさすがに言えねえけどな」

言葉を切る。きゅ、と口を結んで前を見据える彼の目は、私がフィールドで見てきたものと同じだった。





強い人。





それが私の彼の印象。
藤代や渋沢キャプテンとはまた違うけれど。
ずるずるとフェンスを伝ってしゃがみこむ。目線を三上先輩と同じにしても、彼が見ているものなんてわからなかった。



「あいつらが真っ正面から来るから」



相変わらず視線が絡むことはない。私の視界にも、彼はほとんで入ってこなかった。聴覚と、触れるか触れないかの距離だけが、三上先輩の存在を認識している。
私が無言で答えると、彼は続けた。





「俺が逃げてちゃ、ダメだろうが」





当然のように三上先輩は言った。当たり前のように言えてしまう彼を、すごいと思った。思ったけれど、口に出したら怒られそうで、私は適当に相槌を打つ。「そんなもんですか」、私が空を見上げると三上先輩は薄汚れたコンクリートの床を見た。










――あの人、優しすぎるから。

いつかの笠井の声が蘇る。
あの日も確か、三上先輩はあちこちに傷を負っていた。それは確か、誰かと喧嘩したとか言っていたけれど。
私と水野が首をかしげていると、藤代が珍しく苦笑いをしていた。

――優しいとはちょっと違うっしょ。ただ真っすぐなだけで。
――そうとも言うね。あの人、こどもなんだよ。

こどもなのはわかるけど、そう言った水野はなんだか納得がいかないみたいに唸っていた。
笠井は本当に他人をよく見ていると思う。その人の本質みたいなものを見抜く力が長けているのかもしれない。常々そう思っていた私は、その時の笠井の三上先輩に対する評価を、きっと素直にそのまま受け入れていたのだろう。










「真っすぐ、か。」
「あん?」
「や、こっちの話です」

何となく笠井や藤代の言わんとしていることがわかったような気がして、私は一人笑いを噛み締めていた。

私は武蔵森高等部サッカー部のマネージャーだ。選手とは違う。決してフィールドには立ち得ないから、共有できるものは少ないけれど、数少ない共有できるものを大切にしたいと思う。



例えばそれは、誰かが誰かを思う気持ち。




4限終了を告げるチャイムが足元で響き渡る。もうそんな時間かと思うと少しだけ名残惜しいような気持ちになった。よいしょと掛け声をかけながら立ち上がる。

「ねえ先輩、あたしこれから藤代たちと昼ご飯食べに行く約束してるんですけど、一緒に行きません?」
「ぜってー行かねえ」

寸分の迷いもなく切り捨てられた。
ひどい。

「あー、そうだ

誘いを断られて仕方なく一人出口へと向かっていた私の足は、三上先輩の声でぴたりと動きを止める。何ですか、ぎろりと睨み返すと、彼は頭をがしがしとかきながらボソボソとつぶやく。

「わかってっと思うけど、お前、このこと気にすんじゃねえぞ。俺になんか構ってる場合じゃねえんだから」
「・・・俺になんかって・・・何ですかその自虐的な言い方。先輩らしくないなあ」

そう言った私に三上先輩がさらに何か言おうとしたところで着信音。表示されている名前は藤代誠二。「すみませんもう行きます!」ばたばたと扉へ向かう。通話ボタンを押して電話を耳に当てるとがやがやとしたざわめきと、藤代のあの元気な声が一気に飛び込んできて、脳内に思いっきりこだまする。
携帯を少し遠ざけつつ後ろを振り返ると、いまだぼんやりとしている三上先輩が見えた。
足を止めてきちんと振り返ると、そんな私に気づいたらしい先輩が顔をあげた。何か、呟いたらしいけれど、聞き取ることはできなかった。









   


END
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懲りずにまたこういう内容。

08年04月07日


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