それは、一見大した差はないように思われた。



当たり前だけれど目の前に広がる風景だって季節によって違うものの、建物の配置や木の位置は変わらない。変わったと言えば人数くらいで、練習メニューだって変わらないし、監督の怒声に違いもない。新しい緊張感がプラスされて、これもこれでいいのではないかと思ったほどだ。



そんな、三年生引退後の新チームになってから2週間と4日後の、ほとんどの者がその体制に慣れてきた頃のことだった。



「今日藤代は練習休むから、俺がキャプテン代理を努めます。じゃあ、アップ始めるよ」

なかなか現れない現キャプテンの藤代について皆がざわざわと少しだけ噂し始めた頃、遅れてやってきた副部長の笠井が淡々とそう告げた。「キャプテンはどうしたんスか?」、後輩の言葉を笠井は目で制す。

、」

呼ばれて顔を上げた私の視線の先で、笠井は哀しそうに笑っていた。
どうしたの、と言っても首を横に振るだけで何も言わない。水野が無表情で、「裏門のとこにいるから」と告げた。いってやって、そう続ける。水野が去っていったのを目で確認して、笠井は私に顔を近付けると聞き逃してしまいそうなほど小さな声で呟いた、「3年前と同じ、まぁ多少大人にはなったみたいだけど」。一瞬私が眉をひそめたのが笠井にはわかったらしい。彼は困ったように苦笑するとグラウンドの真ん中へ駈けていった。








厳しい寒さがそこらじゅうに蔓延している。
顔に容赦なく吹き付ける北風は冷たいというよりも痛くて、私はウインドブレーカーに顔を埋めるようにして一歩一歩ゆっくりと進んでいた。放課後の閑散とした雰囲気に染まりつつある学校が掛け声や歓声の聞こえる校舎とは対照的で何か不思議な感じがした。昼間と立場の逆転したそんな校舎の脇を擦り抜けて裏門へと向かう。夏には鬱蒼と生い茂っている木々たちも、枯葉の絨毯を足元に敷き詰めるのに全て使い果たしたらしい、淋しい姿へと変容していた。おそらくはそのせいなのだろう、夏には紛れ込めばあまり人目につかないその場所も、見通しがよくなっていて目的の人物をすぐに見つけることができた。



藤代誠二はどこか負のオーラを纏ったようなそんな目で空の一点を見つめたまま動かない。



私は若干の間を空けてから、彼に話し掛けた。





「誠二」





名前を呼ぶと、藤代はひどく緩慢な動きで少しだけ欝陶しそうに私の方を向く。
視界の端に捉えたのが私だったことが不満だったらしい、返事もせずにまた同じ方を向いてしまった。

「何が、あったの」

わかりきっていることを敢えて聞くと、案の定彼からの返事は「わかってるくせに」。小さく肩で息を切らせているところを見ると、どうやら彼は先程まで走り込みでもしていたらしいことが予想された。何か悩み事があると走り込む癖は変わっていない。

「いい加減、渋沢さんたちから自立するころなんじゃないの?」
「できれば苦労するわけないじゃん」

小さな子供のように藤代は頬を膨らませるとそっぽを向いてしまう。

3年前も、そうだった。
藤代にとって渋沢さんたちの世代は、本人でさえも自覚できていないほど、影響の大きな人たちだったらしい。レベルの高い人たちの中でサッカーができることの素晴らしさを、その意味を一度知ってしまったのだ、それ以下が許されるはずがない。もちろん武蔵森のサッカー部1軍に所属しているのだから、渋沢さんたちと入れ違いになった彼らにだって実力はあるのだけれど、どうやらそういう問題でもないらしい。



いつも笑ってばかりの藤代を理解できている人間は少ない。



笠井と、渋沢さんと、三上先輩、それから多分、中西先輩と近藤先輩。
少なくとも、今の1軍では、笠井くらいだと思われた。辰巳もそれなりにわかっているとは思うけれど、彼はあまり藤代に干渉しないから、よくわからない。水野と藤代はよく似ていてとても違うから、多分彼にも藤代の内面を理解することは難しい。

「わかってんだけどさ、」

珍しくトーンの堕ちた声を出す藤代を、きっと他の人が見たら驚くだろうけれど、これでも彼を付き合ってもう大分経つ私は、ごく普通に返事を返した。ずるずると、樹の幹にそってしゃがみこむ彼を、私は後ろから見つめている。

「わかってんだよ、だってしょうがないじゃん、キャプテンとか三上先輩とかといつまでも一緒にサッカーやってられるとは思ってないし、むしろそうだったら俺だってびっくりだし、だけど、」





身体がついていかねーの、と藤代は呟いた。





「頭ではわかってるつもりなんだけど、無理。全身が、キャプテンたちとサッカーしたいって騒ぎ出すんだ」



膝に顔を埋めた藤代の声はくぐもっていたけれどしっかりと私に届いていた。



「水野も笠井も辰巳も皆すげーよ、あいつらとサッカーできること、幸せだと思うけど、」
「うん、仕方ないね」

仕方ないね、もう一度私が繰り返すと、藤代はもう何も言わなかった。








――あいつの渋沢先輩たちに対するあれは、ほとんど刷り込みに近いと思うよ。

笠井の言葉が蘇る。
中学3年の時の渋沢さんたちの引退試合を見に行った帰り道、なんだかやたらとハイテンションな藤代を寮まで送り届けたあと、笠井が校門で話してくれた。

――刷り込みって、あの雛鳥が最初に見た動くものを親として認識するってやつ?
――そう。いつだって自分一番の環境でサッカーしてきたからさ、多分衝撃だったんだと思うよ。

その時の私にはそれがどういう意味なのかよくわからなかったけれど、高等部に上がってサッカー部のマネージャーを務めるようになり、武蔵森に編入してきた水野竜也を見ていて、ああなるほどと思った記憶がある。水野は素直じゃない性格が邪魔をして色々と問題を起こしたけれど、藤代のあの変にまっすぐな精神ならば、きっとまた違った見方をできただろう。

――ポジションが違うっていうのも学年が1つ上っていうのもあるだろうけどね。

笠井は、心底面倒くさそうに、呟いた。









「なに?」
「あともう少しだけだから、」

藤代は顔を上げて私を見た。
その表情は何を表しているのか私には判断できかねた。泣き出しそうにも見えたし、苛立っているようにも見えた。
風がすり抜けていく音が心地よく耳に届く。グラウンドと体育館から聞こえてくるはずの音はまったくと言っていいほど聞こえない。吹き抜ける風の冷たさも、空から降り注ぐ太陽の光の影も全部偽りのもののように見えるのは、きっと何かと葛藤している藤代がひどく人間味を帯びているから。
藤代の手を握って私も同じようにしゃがみこむ。



目を閉じて見えてくるのは、一年前の、あのグラウンド。



だけどそれは、どこかぼんやりと霞んでいて。
藤代もそれは同じなのだと思う。





「誠二、がんばれ」





どんなに望んでも、彼らはもう、



ホワイトノイズの向こう側





No.12「ホワイトノイズの向こう側」夜桜ココ(ナタデココ中毒