諦める、とは違うのだ。
諦めちゃうの?と、口々に人は言った。だってあんなに、と眉を八の字にして訴えてくる人もいた。そう言われる度に、私は何度も違うのよと叫びだしたくなったけれど、きっと言ったところで理解してくれる人は極稀なんだろうと想像が出来たので、その言葉をなんとか飲み込んでいた。
逃げるの?と、彼は言った。その目に非難の色はなかった、多分、純粋にそう思っただけなのだろう。その方が私には堪えた。諦めるのとは違う、とずっと思っていたけれど、それならば逃げですか?と聞かれると、いいえ違いますとは胸を張っていえないような気がしてしまった。
放課後、色々な音が混じり合う校舎の片隅で、彼はじっと私の言葉を待っていた。「あなたから、逃げるのではなくて、」一度、呼吸する。
言い訳しそうな私から逃げるのです。
「いや、まあ、あー、そうだな、うん、まあ、そうなるだろうなとは思っていたような思ってなかったような、そうならないでくれたらいいなとは思っていたような」
その男にしては歯切れの悪い言葉選びになっていた。口数があまり多い方ではない彼は、何事に対しても短い言葉で的確に突いて来る。けれど、さすがに今回ばかりはスパッと私を切りつけるわけにはいかなかったようで、事の報告を一通り聞き終えると、何度かその感情を持て余すかのように、手をいったりきたりと忙しなく動かした。対する私は、ようやく他人に自分の考えを全てぶちまけることができた、と妙な達成感と安心感に駆られていて、一人満足してコーヒーを啜る。一つの相槌さえも許さない勢いで一気に話し終えた後のコーヒーは、すっかり酸味の強い物へと変化してしまっていたけれど、それが気にならないくらい、喉と舌がひりひりと乾燥していた。
黒川柾輝は、もう一度だけ、「・・・思っていたような」となんだかよくわからないコメントをして、それから深く長い溜息をついた。まるで身体の中に溜まってしまった何かを全部吐き出すみたいに、ゆっくりと、けれどひどく長く息を吐く。そうして同じくらいの速度で首をもたげて、私を見る。「お前さ、翼のこと好きなんじゃねえの」疑問なのか、怒りなのか感情を読み取ることが難しい口調だった。
「それは、まあ、柾輝もご存知の通りですけど」
「ご存知も何も、実際の口から聞いたことはないんだけど」
「うん?そうだったっけ。言うまでもないと思っていたし。うん、好きだね、多分、結構どうしようもないくらい、好きなんだと思う」
「どうしようもないくらい好きで、振ってしまう理由がよくわからんけど」
「今、説明したばっかりなのに」
「訂正、理由がわからないんじゃなくて、その理由に行き付く意味がわからない」
柾輝は、納得がいかない、と頬杖をついて私を睨んでくる。目つきがもともと悪い方だから、そういう表情をされるとその迫力は三割増しになる。さてならばどう説明すればわかっていただけるのでしょう、とこちらも不満げに言ってやれば、降参の意を示すかのように、彼は両手をひらりと挙げた。
「これから先も友好な関係でいたいから別れましょう、って言われて納得する彼氏がいると思うか?」
「いるから、私は翼と円満に別れられたんじゃないかな」
「全然円満じゃねえよ、俺たちがとばっちり受けてんだから」
「それはごめんなさい、でも翼は多分全部わかった上で、別れることを了承してくれたんだと思う」
だってそうなのだ。そうでなければ、あんな風に別れた次の日に話しかけてなど来ないだろうし、あんな風に質問だってしてこないと思う。
夢を持つ人は、同じく夢を持つ人に、多分きっと絶対的に、弱い。
だから翼は、私に弱い。
選択しなければならない、人は夢を追う時に、必ず。それはもちろん類稀なる所謂天才と言われる人だって世の中にはいるわけで、そういう人たちはもしかしたら選択するまでもなく自然と道を進むことができるのかもしれないけれど、ほとんどの人が、夢を叶えるために、ほとんど強制的に、選択しているのだと思う。そしてその帰路に経った時、何を秤にかけるのかは、その人次第だ。
椎名翼は、私の全てだった。
言葉にすると、なんだか安っぽくなってしまうことが非常に残念でならない。全て、というのは本当に文字通り、つまりイコール私なのであって、翼がいなくなるというのならば、そこに私の存在意義はないと言っても良い。
第一優先が翼だということ。
えー何それ超ラブラブカップルじゃんなにそれノロケ?と友人は言った。「ノロケなんて可愛いもんじゃないですよこれは死活問題です」私が真顔で答えると、彼女たちは大きな声で笑った、好きすぎて困るってやつ?そう聞かれたので、はいそうですと答えると、彼女たちの笑い声は一層大きくなった。
私は困っていた。
それも結構本気で困っていた。
進路相談中に先生にうっかり話してしまいそうになるくらいには困っていた。
先生、私、自分の才能と職と、恋人とどっちを選べばいいのです?
この腕一本で食べていくためには、生半可な覚悟ではいけなかった。残念ながら私は天才肌ではなかったので、常人を超えるためには常人異常の努力が必要だったからだ。そしてそれは、他のことに構っている時間など、1秒たりとも許されなかった。少なくとも、夢を現実にするまでは。
「私、このままだと翼を言い訳にしそうな気がするんだよね」
この際面倒だったので、恋人に全部ぶちまけてみた。一言それだけ言えば、怪訝な顔。
「何言ってんの?」
「翼が好きすぎて、翼を言い訳に、人生を諦めそうということです」
「・・・・お前、そういうの、僕が嫌いなのは知ってるね?」
「知ってるから、相談に来たんだよ」
聞いてやるから今考えてること言ってみ、それまで今後の対戦表片手に聞いていた翼が、私に向き直る。さすが、頭の良い人は話が早い。
「ほら、私たちもう高校三年生じゃないですか、人生の岐路に立ったわけですよ。特に大学進学組ではなく就職組の私たちにとっては、かなり大きな分かれ道だと思うわけですね。そうしてご存知の通り私はこの腕に全てがかかっているわけで、それはもう努力して努力して努力しなければならないわけですよ、他には構ってられないくらい」
「だから?」
「別れましょう」
3日頂戴、と一言告げて、また対戦表に視線を戻した翼の横顔は、今でも目に焼き付いて離れない。
お前相談じゃなくてそれ報告だからね、翼がその後私に視線を向けることはなかった。
店内のテレビから、聞きなれた声がする。美人のアナウンサーが、翼にインタビューをしていた。内容は頭に入ってこない。別れたのはついこの間だというのに、憎たらしいほどいつも通りの彼に、少しだけ苛立つ。そんな資格がないのは重々承知だ。
私の視線の先を追ったのか、柾輝が「待ってもらえばよかったんじゃねえの」と言った。ダメです無理ですその間にきっと翼を言い訳にしてしまうから、そう思ってゆるゆると首を振る。相変わらず強情だな、と昔から私を知る幼馴染は諦めたように言った。
椎名翼は私の全てだった。
それはもう眩しいくらいの存在で、理想だった。
だから、私は貴方に対していかなる理由であろうとも憎しみなど向けたくないのです。
言い訳になどしたくないのです。
この先もずっと、貴方の手がしわくちゃになってしまう日までずっと、私の中で貴方は穢れることなく輝くのです。
手にすることはないけれど。