がんばる君に、


 携帯電話が軽快なメロディーを奏でた。

 私が登録している着信音の中でも一番のお気に入り。と、いうかそれ以外は登録していない。この曲が流れるということはすなわち電話の相手は、椎名翼。
 社会人になって忙しくなって、めっきり会う回数も減ってしまったけれど、これでも一応私たちは恋人同士である。プロサッカー選手として華々しい活躍を続ける彼と、実は仕事が嫌いじゃない私、そんな二人なのだから、デートの回数が減ってしまったのは最早自然の流れだった。
 最近ではデートどころか電話やメールでさえも稀になっていて、思い返してみれば最後に声を聞いたのは、まだ海の日前だった。暑さも最高潮に達する八月上旬。思考回路も溶けかけていたらしい。随分と翼の声を聞いていないという事実でさえ、忘れかけていた。順調に進んでいた仕事の手を休めるのもなんだか躊躇って、少しだけ逡巡するけれど、結局通話ボタンを押す。

「はいはーい、こちらの携帯」
『寝ろよ』

 へ、と間抜けな一文字が口から飛び出して、それからぐるりと首を後ろに回し、時計を見遣れば、いつの間にか12時を過ぎていた。なるほど。

「ははーん、なるほど」
『何がなるほどだよ、さてはまた仕事に熱中してて気づいたら日付変わってたとか言わないよね』
「言うよね」

 綺麗すっかり忘れてたよ!と笑い飛ばすと、受話器の向こう側からは盛大なため息が聞こえてくる。耳をくすぐる声は、久しぶりだというのに、少しも変わらず私を安心させた。ふ、と肩の力が抜ける。翼の声は、間違っても癒し系ではないはずなのに、私には絶大なヒーリング効果を発揮する。大好きで毎日飲むミルクティーだって、こんな風に一瞬で私を癒してくれることはない。
 私は凝り固まった身体を思いっきり伸ばしながら、胡坐をかいて座っていたフローリングから立ち上がると、ベッドの上に寝そべった。やりかけになってしまった仕事は、また明日やればいい。

「翼ちゃんと寝てる?」
『それはこっちの台詞。また追い込んだりしてないだろうね』
「どうだろうね」

 追い込むって、どういうことなのか実はよくわからない。あまり自分を追い込まないでね、なんて言葉をよく耳にするけれど、自分を追い込んだ状態というのはどういう状態のことなんだろう、と随分と昔から思っているのだけれど未だに答えは出ていない。
 出ていないけれど。

『追い込んでると思うけど』
「そう?翼が言うならそうなんじゃん?」
『あのね、いい加減にしなよ…って言いたいけど、は昔からそうだから、まあ今更変えろって言ったって無理なんだろうね』

 翼が尋ねてくるタイミングはいつだって巧妙だった。
 基本的に、あまり自分のことを後ろ向きには考えない。だから、他人に言われなければ気づかない、負のスパイラルがあったりする。それが精神的なものなのか身体的なものなのかは、その時々によって違うのだけれど。
 疲れてんのかな、と呟きながら、私は自分の右手を伸ばしてじっと見つめる。特に変わりはない。それから奥にある鏡を覗き込むために起き上がる。鏡に映る自分の顔色はいつも通りだけれど、言われてみれば最近またニキビが増え始めたような気がする。てっきりチョコレートのせいだと思い込んでいたけれど、それだけではないのかもしれない。

『前から言ってるけど、ブレーキかけるの下手なんだから、適当に休よ?』
「はいはい」
『ほんっとにわかってんの?』
「わかってるわかってる、でも翼の声聞いたらもうほとんど回復したようなもんだから、問題なし!」

 翼は不満げにぶつぶつと文句を言う。
 多分彼は、私が適当にごまかしていると思っているのだろうけれど、そういうわけではない。本当に、翼によって、私は支えられているのだ、ということを、本人はわかっていないのだと思う。もちろん彼の一声で、疲労が全部なくなるわけではないけれど、彼のように私を想ってくれる人が、世界に一人いるんだという安心感があるから、私はこの世界に立っていられる。
 こう言えば多分、いつものようにちょっと胡散臭いものを見るような目で見てくるだろうけれど、嘘じゃない。

『まあ、頑張るって、の専売特許みたいなところあるからね』
「いえい!私、頑張るの嫌いじゃないからさー」
『頑張る人って格好良いしね、頑張るが好きだけど』
「すみませんどさくさに紛れて好きとか言われるとテンション上がるんでそういうことはまずフラグ立ててから言ってもらえますか」
が好き』
「ひっ!」

 ひってなんだよ、翼は可笑しそうに喉をくつくつと言わせた。



『だけど、たまには俺に弱音吐いたって、誰も怒らないよ』



 耳に届くのは、さきほどよりも一段低い、良く通る真剣な声。思わず言葉に詰まって、携帯電話を握りしめたまま、動けない。
 思考が目まぐるしく頭の中で回っている。けれど何を考えているのか、何を言葉にしようとしているのか上手くまとめられず、沈黙のままだ。階下から聞こえてくる家族の声が、急に大きくなったような気がした。

「…うん、ありがとう、でもまだ、大丈夫」
『ほんとだな?』
「うん」

 感情が、揺れる。ぐらついている時の自分の感情を、言葉にすることは苦手、というよりもあまり好きじゃなかった。だから、どうしたって上手く伝えることはできない。突然、昔聞いた話が蘇る。



 子どもが転ぶとするでしょう?その子の側に誰かいて、大丈夫?って声をかけると泣いてしまうけれど、誰もいないと一人で立ち上がるのよ。なんでかわかる?それは「転んだ」ってことがどういうことなのかわからないからなんだって。でも「大丈夫?」ってきかれると「自分は大丈夫じゃない状況なんだ」って判断するから、泣き出してしまうらしいの。大人も似たようなところがあるけれど、大人の場合は大丈夫じゃない状態だってことを認識しているからこそ心配されると感情が溢れてしまうじゃない?だから子どものそれとはまた別だと思うのよ。



 ああ、それなら多分私は子どもと一緒なんだな、と思った。わかっていないけれど、翼によって自分の状態を知ってしまう。別に彼を責めるつもりはない。どちらかといえば安心している。だけど、知った状態を上手く相手に伝えることはできない。子どもと同じだけれど、子どもではないから、泣くことはできないのだ。

 つう、と額から汗が流れ出る。冷房のないこの部屋は、八月ともなれば、さすがに暑く、実は仕事をするには適していない。だからこそ集中して暑さを忘れ、一気にやってしまうことが多いのだけれど、さすがにこの状態では暑さを忘れるほど集中することなどできないし、集中するものもない。
 頭を冷やそうと窓際によって、カーテンをあけた。身を乗り出して風に当たる。





、おいで」





 突然機械越しだったはずの翼の声がクリアになって耳に届く。驚いて思わず辺りを見回してみるけれど、ここは二階で、同じ高さに人はいない。まさか、と視線を下へとずらす。





 ああベタなことやってくれたな!そう思いながらも既に身体は階段を駆け下りていて。「あんたどこ行くの!」という母の声を背中で受け止めながら、私は玄関を飛び出した。



ありったけのエールを



   

椎名翼誕生祭「0419-2011-」提出作品

12年06月04日 HP再録

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