天気雨の向こうに君を見た。
天気雨
あ お ぞ ら か ら し ず く
質量のありそうな雲がどっかりと青空の真ん中に座っている。
美術の時間に使ったポスターカラーの青みたいな空に、絵本で見たことがあるようなはっきりとした雲。足元には見慣れた黄色いたんぽぽの花が咲いていて、春の気配がそこかしこに充満している。
そういう時はどういうわけかいつも気分が良い。チューリップが咲き乱れる時分みたいに甘ったるい匂いもしないし、何よりそわそわした雰囲気が心なしか薄まったような気がして過ごしやすい。
一日の大半を影が覆い隠す学校の廊下を歩いていると、目の前を見覚えのある顔が横切った。
転校生の椎名翼だった。
転校生、と言っても転校してきたのはもうだいぶ前の話で、今は別の転校生の方が皆の話題に上っている。
それでも椎名が私たち女子の間で常に注目の的になっているのは、きっとそのずば抜けた容姿と、可愛らしい顔の裏に秘められたマシンガントークのせいなのだろう。
「椎名」
呼び掛けると椎名は肩越しに私を振り返り、それから少し驚いたような顔をした。
「?」
私が椎名と同じクラスになったのはついこの間のことで、正直彼が私を覚えているとは思わなかったので、安堵する。
ざわざわとした昼休みの雰囲気から遠ざかるように椎名はゆっくりと背を壁にあずけて私を怪訝そうな目でみやる、「何?何か用?」、用が無ければ呼び掛けてはならないなんて法律はなかったはずだけど、と思いつつ、私は使い古した学生カバンに手を突っ込むと綺麗にラッピングされたピンクと青の物体を取り出して、いよいよ盛大に顔をしかめた椎名に投げてやる。
「なにこれ。から、ってわけじゃなさそうだけど」
「そうだね、なんか今日朝後輩に『これ椎名先輩に誕生日おめでとうございますって渡してくださいっ!』って言われたから」
「それはどーもわざわざありがとうございます次からはもらわなくていいから」
不機嫌そうに椎名はこつこつと壁を叩く。
私も同じように冷たい壁に背を預けて、それから大きく息を吐いた。「なに?」、そう言う椎名の声はいつもの透き通るような声よりも幾分か低くて、今日一日彼の機嫌は悪いままかもしれないと思った。
「別にもらえるものはもらっておけばいいのに」
「あのね、顔も名前も知らないような人たちからプレゼントされてみればにだってわかると思うよ。大体自分で渡しに来ないようなやつが僕は大嫌いなんでね」
「いや、そこは乙女心をわかってあげなよ」
「僕は乙女じゃない」
正論であることは確かなので、私はそれ以上何も言えなかった。
「っていうか、そもそもそいつらは僕の何を知ってるっていうわけ?何を根拠に好きだとか何とか言ってんの?上辺だけで言ってるんだったら失礼にもほどがあるってことくらいわかんないわけ」
「今、世の中の一目惚れで成り立っているカップルを全否定したね」
「外見の一目惚れなんてそんな信用ならないもので成り立つカップルなんて、この世から消えてくれてかまわない」
椎名の毒舌を流しつつ、私は汚れてしまった上履きの爪先で、なんとなく床をこする。
他人から見れば羨ましいほどの容姿も、持っている本人にとっては煩わしいものなのかもしれない。椎名のあの性格からして間違いなく利用価値のあるもののような気もするけれど。
椎名に微笑まれて綺麗だと思わない人間なんて果たしてこの学校にいるんだろうか、と思う。わかっていてそれをやる椎名も椎名だけれど、だからこそ時折見せる打算無しの笑顔なんて、惚れるのには十分すぎる。
「?」
うつむき加減で考え事をしていたら椎名に呼び掛けられた。
「体調良くないの?」
「や、違う、ちょっと考え事してただけー」
右手をひらひらとさせて笑うと、椎名は「何だよ」と言いながら視線を私から外した。だけどその瞬間、彼の顔に安堵の色が表れたのを私は見逃さなかった。
そういう一瞬に惚れることさえ彼にとっては嫌悪の対象になってしまうのだろうか。
例えばこの間消しゴムを忘れて困っていた時に、「あんたって変なとこで抜けてるよね、完璧かと思ってたけど」、なんて悪態をつきながら自分の消しゴムを半分に割って私にくれた時の椎名にうっかりときめいたとか、そういうのもダメなんだろうか。
黄色い悲鳴をあげる女の子たちを、確かに私も欝陶しいと思っているけれど、気持ちだけはわからなくもない。ただ、椎名のことを少し知ればその行動が愚かだと気付くはずなのに、と考えて、なるほどだから椎名はああいう子たちが嫌いなんだ、と妙に納得した。
「椎名、芸能人にはなれないね」
「いきなり何の話?」
「見ず知らずの人にときめかれて、プレゼントも大量にもらうじゃん」
「なるつもりなんて毛頭ないから別に構わないけどね」
ゆっくりと午後の日差しが傾き始めている。薄暗い廊下から教室に視線を向けると、もうほとんどの生徒が帰宅したらしく、閑散としていた。
「椎名、部活は?」
「今日は監督の都合で少し遅めの開始。もうそろそろだけど」
「そっか、ごめん呼び止めて」「ほんとだよ、呼び止めたくせにくだらないことだったし」
椎名はため息をついて少し前に私が投げた可愛くラッピングされたプレゼントを掲げてみせる。「じゃあね」、と去っていく椎名を一瞬躊躇ってからまた呼び止め、彼が振り向いたと同時に簡易な包装をされた小さな箱を投げた。
「ナイスキャッチ。さすが飛葉中サッカー部キャプテン、運動神経抜群だね」
「なめないでくれる?これくらいサッカー部なら誰だってできるぜ。で、これは何?」
「もう一個あったの、忘れてた」
ふうん、と椎名は興味深そうに呟くと、私を一別して、「さんきゅ」、と今度こそ去っていった。てっきりまた小言をくらうかと思っていた私はなんだか拍子抜けしてしまう。
何故か夢心地のような気分で教室に戻ると、カバンを自分の机に置いて、窓際へと向かう。部活動に精を出す生徒で活気に満ちている校庭を眺めていると、隅の方から椎名とサッカー部の面子らしき人が数人現れる。ボールを出したりラインを引いたりと準備をする彼らを横目で見ていたら、歓声が聞こえてきた。
青空から大粒の雨。
嘘みたいに幻想的な光景の中、椎名が教室を見上げて笑っている。
右手には、私が選んだリストバンドが見えた気がした。
ハッピーバースデー、呟いた言葉は雨音にかき消された。