毎年一通のアドベントカードが送られてくる。手紙なんかはついていない。書いてあるのは、手書きの宛先と差出人だけ。 でもそれが、私の人生が確かに一度、彼と交差したのだという証だった。 遠い地で活躍する彼を、私はずっと応援している。 海とまぼろし 一年で一番冷え込む季節が来た。 山の中腹にあるこの家は、昔ながらの日本家屋で、居間の天井は高く中々温まらない。昔は囲炉裏があったという場所を板で補強して真ん中に炬燵が置いてある。朝一番、ストーブ(しかも薪)を点けてから部屋が温まるまでの間は、その炬燵に身体のほとんどを埋めていないと耐えられない。 今日は船に乗って本土まで出る予定だ。そうでなければこんなに早起きをしたりはしない。桟橋までは隣の家のおじさんが連れて行ってくれる。隣と言っても500mくらい先だけど。 大学生にとっての長い春休み、暇しているなら手伝ってほしいと教授から依頼を受けたのは、ほんの1週間ほど前だった。旅行の予定もあるけれど、別に春休み中旅しているわけでもない。何をするのかと聞けば家の整理だと言う。教授の家は都内のマンションでは?と首を傾げていたら、親戚から譲り受けたまま手つかずの家があるとのことだった。行ったことのない島に行くのも悪くないと思い、私は了承した。バイト先には2週間程度お休みを貰っている。 教授が起きて来る気配がない。昨夜、明日の朝は早く起きると告げた時も、好きにしてくださいと言っていたので、そもそも起きるつもりなどないのだろう。この島に来て早3日、どうやら彼女は究極の夜型人間なのだと知る。言われてみれば授業はどれも3限目以降だ。 どれくらい炬燵に埋もれていたのだろう。ぷあ、と間抜けなクラクションの音がして、送迎人が到着した。昨夜まとめておいた荷物を慌てて掴んで、そそくさと玄関に向かう。 「本土に行くっていうからてっきりめかし込んでるかと思いきやいつもと変わんねえなあ」 快活に笑うその男性とは知り合って間もないというのに、いつもの私、とは何を指して言っているのだろう。 「便利道具をまとめて買ってくるだけなので。と、いうかすみません、送っていただきありがとうございます」 自動車へ向かう道すがら、そんなことを言えば、いいのいいのと人の良い笑顔が返ってくる。こういうところで生活してりゃ相乗りなんてしょっちゅうよ、とのことで、確かに効率が良い。 目的地までは車で15分ほどだ。あっという間に到着した船着き場で、トランクに預けた荷物を取り出していると、ふいに運転席から大きな声が聞こえてきた。おおーい、と窓を開けてどこかに向けて叫んでいる。知り合いでもいたのだろうか、と私はトランクの扉を閉めて顔を覗かせる。大きなスーツケースを転がす人が目に入った。 お世話になります、と頭を下げる人物の声は思いの外低く、男性らしいとわかる。 「お知り合い、ですか?」 後ろから回った私に、大きなスーツケースを持った男性は驚いたようだった。もうひとりいるとは思いもしなかったのだろう。おお、と運転席のおじさんは私を手招くと、「ほら、隣に大学の先生いたろ、ほとんどいないけど。そこに手伝いで来た学生さん。一週間くらいいるんだって」と私を紹介する。名乗って一礼し、顔を上げて真正面から男性と向き合った私は、思わず動きを止めた。 「椎名と言います、僕も同じく期間限定ですけど榊さんのところに厄介になります。よろしく」 ちょっと信じられないくらいの美人だったのだ。 遠い親戚みたいなもんでな、榊さんは椎名と名乗ったその男との繋がりをそんな風に適当にまとめて、私の鞄が入っていたトランクへ今度は使いこまれたスーツケースを入れる。椎名さんを助手席の乗せると、「帰りは16時の船だよな?こいつが迎えに行くから」との爆弾発言を残してあっという間に車は遠ざかっていった。今なんて?と聞き返す間などあるはずもない。 シイナ、シイナ、芸能人じゃないよなあ…。必要なものをひとつずつ確認しながら籠へ入れつつ、私はぶつぶつと呟く。美しかったけれど、見覚えはなかったから、芸能人ではないのだろう。ちょっとこちらが気後れするような美人が迎えに来るなどというシチュエーションが、あの小さな島で起こり得るとは想像だにしていなかった。いや、島にいる美人と知り合いになる可能性はあったのかもしれないけれど、まさか美人な男が隣の家を訪ねてやってきて、あまつさえ自分と関わるとは思ってもみなかった。当たり前か。 どこか上の空で用事を済ませ、気が付けば帰りの船にいた。間もなく島へ到着するとアナウンスが流れる。平日だけれどパラパラと客の姿はあって、近づいてきた桟橋には、迎えらしい車が数台止まっていた。 本当に迎えに来るのだろうか?つい疑ってかかりながら船から降りる。見渡してみると、見慣れた隣家の車が一番遠いところに停まっていた。整理整頓に使う便利道具が詰まったスーツケースをガラガラと引いて車へ近づいていく。 運転席には誰もいない。 「いないんかい!」 ひとり突っ込みも空しく島の空へ。まさか車のキーを持っているはずもない私は、なるべく車の影になるようにスーツケースを置くと、周囲を散策する。少し歩いていくと、堤防に腰かける人影を見つけた。シルエットから判断するに、恐らくは椎名さんだ。この時期にしては暖かい日とは言え、一年で一番冷え込むこの時期に、よくそんなところに登るものだ。 「何か珍しいものでもありました?」 下から見上げて声をかけると、私が近づいてくるのをわかっていたのか、さして驚いた様子も見せなかった。ここの海好きで、そう答える椎名さんの視線は、遥か水平線へ向けられている。 迎えに来てもらった手前、早く帰りましょうとも言えず、どうしようかと考えあぐねていると、椎名さんが当たり前のように「上がって来ないの?」と聞いた。いや上がりませんでしょうよ普通。そう返しそうになるのを何とか堪えてアスファルトの堤防へ足をかけた。片膝を立てて両手を後ろへ回して体重を支え、隣にやってきた私には目もくれずに、椎名さんはきらきらと光を反射する海を見つめている。 「は大学生?」 突然呼び捨てにされたことに驚いたが、不快な感じはしない。椎名さんの視線が自分に移っていることに気づき、私はひとつ頷いた。 「椎名さんは、…大学生ですか?」 「まさか。よりずっと上だよ」 ずっと、というがそんなに年上でもないだろう。学生ですと言われればそれで通用するような気もする。 「ハルさん、やっとあの家整理する気になったんだな」 「…やっぱり隣人としてもあれは気になりますよね?」 「なるだろ。ならないあの人が可笑しいんだよ」 正確には椎名さんを隣人と呼べるのかは微妙なところだけれど、教授をハルさん、と親しげに呼ぶ程度には知り合いのようなのでよしとする。 文学を専門とする教授は、長い休みの度にここへ大量の本を持ち込んでは研究という名目で引きこもって本を読み漁っているらしい。話だけ聞けばさぞ理想的な環境のように思えたが、実際に来てみると屋敷は荒れ放題だった。リノベーションすれば流行りの古民家にだって変身しそうな物件だというのに、そこら中に本や資料が散らばっていた。どうやら前の主も無類の本好きだったようで、教授曰く譲り受けたその時から大して変わってないとのことだった。大学の構内になる教授の執務室から想像するに、さらに散らかしたのだと思うけれど。 「ゴミがないのがせめてもの救いだね」 「それは思いました!最初に玄関を開けた時点で覚悟しましたもん」 玄関から続く廊下にさえ積み上がる本に、訪れた初日は茫然としたけれど、入ってみるととにかく大量の本と資料が散らばってはいるものの、意外と生活空間―――例えばトイレや洗面所、台所なんかは綺麗だった。 「期間限定って言ってましたけど…、その間は教授の家にも来るんですか?」 「本を読みにね。だってここ、何もないだろ」 「東京にはないものもたくさんあります」 海が好きだと言ったその口から、何もないだなんて否定的な言葉が出てくるとは思わなくて、私は思わずむっとして言い返す。この島については椎名さんの方が恐らくは詳しいのだろうけれど、透き通った海を前に、そんな風に言わないでほしい。 「へえ。都会っ子だからこそこういう田舎に憧れるってやつ?東京は何でもあって便利でそれを享受している奴はどれだけ恵まれているか自覚ないんだよね。その発言、気を付けた方がいいよ」 ずけずけと人を勝手に決めつけて好き勝手言ってくる。綺麗な顔をしているのにもったいない、思わずそんなことを口走ると、椎名さんがあからさまに迷惑そうな顔をした。 「なに?容姿で発言していいことと悪いことがあんの?へえ、それは知らなかったな。お前の住んでる世界って残念だね」 矢継ぎ早に次々と繰り出される言葉に圧倒される。相当頭の回転が早い人のようだ。そういう物言いはどうかと思いますけど、と言いたいのを堪え、少し間が空いたタイミングで何とか一言ねじ込んだ。ごめんなさい。ちゃんと目を見てそう言えば、椎名さんは面を食らったような顔をする。 「…なに?今のはどれに対する謝罪?」 「どれって言うほど私はしゃべってないですよ…。容姿と言動を結びつけるような発言をしたことです」 「何だ、偉いじゃん。よく言われるけど大体こうやって捲し立てると逃げ出す輩が多いんだよね。俺も年下相手に言いたい放題言ってで悪かった。その理屈で言えばだって相当いいこちゃんな発言しかしないんだろうなって思ったらむかついてさ」 「………褒めました?」 「顔はね」 「………椎名さんも大概ですよ、それ」 それから大学は東京ですけど、と私は言った。出身地を言えば、椎名さんはまた驚いたように何度か瞬きして、ごめん、と真剣に謝ってくれた。彼の真似をして、何に対する謝罪かと問うてみる。 「東京人だって決めつけたところ。初めてこの島に来た時の僕と同じ発言だったしさ」 「椎名さんは東京出身なんですか?」 「そう。色んなものを犠牲にした結果何でもある東京の出身。言っとくけど、東京が嫌いなわけじゃないよ」 それから他愛もない話をした。身の上話はほとんど聞かなかったけれど、この島にいるうちにやった方がいいこと。小さい神社の話。榊さんの庭に生えている見たことが無い植物。麓のおばあちゃん。 少し話し込んだところで、椎名さんの携帯電話が鳴った。ディスプレイに表示される名前に、やべ、と呟く。 「早く帰んないと。今日は蕎麦をうつから手伝えって言われてるんだった」 「榊さんて、何でもやりますよね。うちの実家の近くにもそういう人いましたけど」 「言っとくけどお前も多分頭数に入ってるよ、ハルさんは昼間からこっちにいたし」 「えっ」 驚いて振り向いた時には、既に椎名さんは堤防を降りていた。沈みかけている夕陽が彼の影を長く伸ばしている。私はそうっと堤防から降りると、影だけ置いて先を行く彼の後を追いかけた。 「椎名さんってプロサッカー選手なんですか!?」 家の至る所に散らばる全集を一から順番通りに並べる作業をしながら、私は思わず素っ頓狂な声を上げた。教授の家の整理に呼ばれて六日目、椎名さんと出会って三日目のことである。 「むしろ気づいてなかったの?すごいなあ、翼くん結構有名だけど」 ゆったりとした口調でそう言ったのは、東京へ持ち帰る本を選別している教授である。私はあと三日で帰るけれど、彼女はまだしばらくいるのだから、そういう作業は後回しにしてほしい。 ではなく。 「私、あんまりスポーツは興味がない…、あっ、違う、えっとあんまり知らなくて」 「いいよ、要は興味ないってことだろ」 「興味なくたってニュースとか見てればシーズン中は結構映ってるから目にするけどねえ」 「ニュースも見ないし新聞も読まないんだろ、は」 「うっ…」 痛いところを突かれて何も言い返せない。つけっぱなしにしているテレビがニュースになると、すぐチャンネルを変えてしまう。来年からの就職活動に向けてニュースに目を向けておいた方がいいのはわかっているのだけれど、どうしても興味がわかないのだから仕方ない。 「今はシーズンオフってことなんですね」 何の気もなしに自分から話題を逸らそうとそんな発言をしたら、一瞬にして変な間が空く。 「えっ何ですか!?仰るとおり興味をあまり持って来なかった女なので間違えた発言していたら訂正してください…」 「何も言ってないだろ。まあそんなところ」 椎名さんは可笑しそうに笑いを堪えている。真意が読み取れずに教授へ助けを求めて視線を遣るが、自分は無関係とばかりに作業へ戻っていた。これ以上サッカーの話題を続けても墓穴を掘るだけだ。私も同じように作業を再開する。 外の気温は相変わらず低かったけれど、見事に空は晴れ渡っていて、天窓から差し込む光が柔らかい。立春はもう過ぎたから、これから春に向かっていく。もう一度くらいは寒波が来るだろうけどね、と教授は昨日薪を割っていた。溜めておくらしい。 家の整理は随分と進んできた。残すところはこの客間と寝室だけ。だけと言いつつ、この二部屋が最も散らかっているので、私が帰る日までに終わるかどうか、微妙なところだ。早くやらないと終わらないですよ!と発破をかけたのだけれど、翼くんも来てくれたし、と勝手に隣家の客人を労働力としてカウントしていて、急ぐ気はないらしかった。椎名さんも整理をすることに文句を言っているわけではないので、私からつべこべ言う話でもない。とは言え、折角それを目的に呼ばれたのだから、なるべく片付けてしまおうとは思っている。 椎名さんと教授は、時々本を片手に話し込んでいた。専門書について議論する場面もあったので、てっきり椎名さんも文学関係者なのかと思ったが、まさかプロサッカー選手だったとは。場合によっては原書の話もしているようだったので、元々語学に堪能な人なのかもしれない。そもそもあれだけ頭が良ければそれくらいの教養は身に付くのだろう。羨ましい。 ゆっくりと話す教授の声と、よく通る椎名さんの声が心地よく、二人の会話を邪魔しないように作業を続けていたら、ふいに声をかけられた。気づけばもう昼時で、何か食べるものを調達しなければならない。 「私は午後出かけるから、お昼は別で。さん、午後は作業しなくていいよ。大分進んだし、ここまで来ればあとは私と翼くんが帰るまでにどうにかなりそうだし。ほとんど観光してないでしょう。明後日の朝一の船に乗らなきゃならないから、実質あと一日半だけになっちゃったけど…、行きたいところがあれば翼くんに連れてってもらうといい」 「そこはハルさんが労働の対価に連れてってやるんじゃないの?」 「私は対価として賃金を支払うので」 「お金貰えるんですか!?やったー!」 「知らなかったのかよ、っていうかそれなら僕にもくれるってことだよね?」 「あれだけ稼いでいるのにまだお金が要るんですか?」 稼いでる?と私が椎名さんを見遣ると、諦めたように彼は肩をすくめた。 「で?はどっか行きたいところあんの?」 お気に入りの食堂の名前を出せば、椎名さんが「観光じゃないじゃん」と笑った。まずは腹ごしらえからしなければならない。 ちょうど近くに用があるという教授を誰かの家に送り届けて、私たちは海辺にある小さな食堂へ向かった。老夫婦とその息子が切り盛りするそこは、地元の食材を使った定食が美味しい。海辺にあるのにどういうわけか肉料理のメニューも豊富なのだ。肉好きとしては嬉しい限りだった。 店内は家族連れが何組かいた。今日は土曜であることを思い出す。長期休みに入るとつい曜日感覚がなくなってしまう上に、いつもの日常から離れているせいで何曜日であるか気にしていなかった。どうやら椎名さんも同じことを思ったようで、楽しそうに両親と話をする少年を見て、「休日か」と呟く。 好きな席へと言われて遠慮なく窓際の海が良く見える席に座る。私は看板メニューのひとつである鹿肉のカレーを、椎名さんは本日の魚定食を頼んだ。 「で、この後どうするの」 「うーん、そもそもあんまり観光地ってわけでもないしなあ…」 食べている間に考えることにして、運ばれてきた料理に舌鼓を打つ。さすがに明日は来ないと思うので、ここの料理を食べられるのも今日が最後だろう。 窓ガラスの向こう側に続く水平線を見遣って黙々と食事を進めていたら、食事を追えたらしい親子連れがこちらにやってきた。少年は人見知りなのか、父親の後ろに隠れているが、ちらちらと椎名さんを見ている。 「あの…、椎名選手、ですよね?」 いかにも優男な雰囲気のその父親は、確認をするように椎名さんに伺った。そうだ、この人はプロのサッカー選手だ。知っている人がいても不思議ではない。どうにか息子を前に出そうとしている様子から、きっと話しかけたかったのは少年の方なのだ、と椎名さんも気づいたのだろう。少年に向かって笑顔を見せて、はい、と返事をした。 「前回いらっしゃったときもお見かけしたんですが、声をかけられなくて…、実は息子がサッカーが大好きで、もし、今回の滞在中にお時間が少しあれば、相手をしてやってもらえないでしょうか」 ほら、挨拶しなさい。父親がどうにか自分の足元から少年を引きはがそうとしているが、足にしがみついたまま首を横に振っている。それでも椎名さんのことは気になるようで、隠れているのにじっと見つめたままだ。 「君、お名前は?」 椎名さんが視線を合わせるように椅子から降りてしゃがみこんだ。しばらくは父親と椎名さんを交互に見ながらもじもじとしていた少年だったが、やがて蚊の鳴くような小さな声で名前を告げた。「いい名前だ」そう言って椎名さんは少年の頭を撫でる。少年は嬉しそうにはにかんだ。いつがいいでしょう、と椎名さんが父親へ問う。 「お願いをしておきながら、我儘で恐縮なんですが…、実は我々は隣の島に住んでおりまして。船の運航日に合わせてもらえますと非常に助かります」 「ああ、なるほど…。実は私も来週にはここを発ってしまうんですよね。いつが運航日でしたっけ」 「時間があるなら今日にすればいいんじゃないですか?」 店内に貼られた運航日のポスターを椎名さんが確認しようとしたところで、つい口を挟んでしまった。部外者だからと黙っていたのだが、少年が後ろに背負っているのはどう見てもサッカーボールだし、もう一度島に来るよりは都合が良いように思った。 「こちらとしては願ったり叶ったりですが…、そちらのご都合は?」 遠慮がちに父親が言った。 「、行きたいところは決まったの」 「考えてたんですけど、あんまり思い浮かばなくて…、で、思ったんですよね。椎名さんがサッカーしているところが見たいかなあって」 「お前ね……」 「いやほんとに。プロサッカー選手の競技を生で見ることなんて、私はこの先あんまりなさそうだし。サッカー見ながら行きたいところについてはまた考えますから」 そう言えば、椎名さんはわかったと頷いた。少年の父親が、ありがとうございますと頭を下げる。一連の様子を見ていたらしい店主が、「椎名さん、サッカーしてやるなんて珍しいじゃないか」と食後のコーヒーを盆に乗せてやって来る。椎名さんに教えを乞うたけれど、大人は却下と跳ね除けられていた。 コーヒーを持ち帰り用のカップへ入れてもらい、私たちは近くの広場―――もとい空き地に来た。先ほどまでに人見知りはどこへやら、少年は楽しそうに椎名さんとサッカーをしている。 「丁度いい空き地があって良かったですね」 空き地と言ってもよく見かけるような整備もされていないようなところではなくて、綺麗にならされている。私は少年の父親と一緒に、空き地の入り口にある車止めのポールに腰かけた。 「もう結構前のことなんですけど…、ここ、小学校だったんですよ」 「えっ、そうなんですか?あ、もしかして校庭?」 「そうです。といっても分校ですから、小さい校舎とこの校庭があっただけなんですけどね。僕が卒業して間もなく廃校になりましたから、もう随分経つんですが」 元々は校舎があったという場所は、小高い丘のようになって、気が生い茂っている。それだけ年月が過ぎたのだということを感じさせた。校舎は跡形もない。 「この島のご出身だったんですね」 「はい。中学校も無かったので、そのタイミングで島を離れて、それから戻ってはいないんですが。まさか椎名さんがこんなところにいらっしゃるとは思わなかったです。確かに、療養するには良い環境なのかもしれませんね」 療養、という言葉に驚いたけれど、本人のいないところで掘り下げるのも躊躇われて、私は適当に相槌を打った。怪我か病気なのだろうか。スポーツ選手だから後者なのかもしれない。少年の父親は、椎名さんと一緒にいた私については特に触れず、椎名さんと楽しそうにサッカーをする少年を眩しそうに眺めている。 私もつられて視線を二人へ向けた。難しそうな本を読み耽っている印象の方が深く、運動をしている姿は新鮮だった。軽やかにボールを操る姿は楽しそうで、そして美しい。 椎名翼、と携帯電話のネットサービスで検索をかけようとして止めた。本人が目の前にいるのに、こっそりと探ろうとするのは失礼な気がしたからだ。パチン、と携帯電話を折りたたんでポケットへと仕舞う。 椎名さんのことは、名前と東京が出身地だということくらいしか知らない。 あとは日当たりの良い廊下で寝そべって本を読んでいる姿とか、流暢なスペイン語を話すところ、意外と不器用で不揃いな蕎麦を作ること、運転中の横顔、それくらいしかわからなかった。 ぽーん、と、椎名さんが蹴り上げたボールが大きな弧を描く。少年が歓声を上げてボールを追っていくのを、椎名さんは笑顔で見守っている。 サッカーをするとこんな風に笑うのか。 競技中はきっともっと真剣な表情なのだろうけれど。 しばらくすると少年の父親がおもむろに立ち上がった。そろそろ船が出る時間なのだという。飽きもせずボールを追いかける息子に向かって声をかけると、不満そうに駄々をこねた。帰れなくなるよ、というと、渋々認めたので、船に乗り遅れることの恐怖は既にわかっているらしい。 「またサッカーしてくれる?」 「いいよ。レギュラー取れたらね」 椎名さんが提示した条件に、少年は力強く頷いた。どこかのサッカークラブにでも所属しているのかもしれない。 ありがとうございました、と何度も何度も頭を下げて、親子は去っていった。その姿が見えなくなると、椎名さんが私を振り返る。 「で?」 「…で?」 「僕がサッカーしてるところを見ながら行きたいところ考えるって言ってただろ」 「あー…、もういいかなあ」 「そんなことだろうと思った」 「あ、でもどうせならひとつだけ」 「なに?」 「私にもサッカー教えてよ」 そんなことを言われるとは思わなかったのか、椎名さんは目をぱちくりと瞬かせた。 「椎名さんがあまりに楽しそうに、しかも上手にボールを蹴るから、ちょっと興味出た」 「そりゃどうも。でも残念、ボールがないから無理」 「……そうですよねー」 あのボールは少年が持っていたものだった。すっかり忘れていた。名案だと思ったのだが仕方ない。ふと、椎名さんは持ってないの、と聞こうとしてやめた。先ほど男性が言っていた「療養」の言葉が頭をよぎる。きっとここには持ってきていないのだろうと思った。 「プロサッカー選手から教えてもらえることなんて、滅多にない機会だったのになー」 「サッカーよく知らないくせによく言うよ。…いいじゃん、にとって俺は、たまたま大学二年の春休みに来た島でちょっとだけ一緒に過ごしたよくわかんない人、ってことで」 何それ、と私は吹き出したけれど、注がれた視線が案外真剣だったので、思わず口を結ぶ。どういう意図でそう言ったのか正確にはわからないので、せめてとそのまま受け取ることにした。それなら。 「じゃあ、椎名さんにとって私も、榊さん家のお隣に一週間だけいた少し仲良くなった女子大生、だね」 「仲良くなったって自分で言うか?」 「えー、いいじゃないですか、それくらい」 私が不貞腐れてみせると、椎名さんはそうだなと言って笑った。これで晴れて私と椎名さんは「仲良し」である。 冬至が過ぎて大分経つとは言え、まだ日は短い。少し傾き始めた日の光が、きらきらと海を照らしている。元は小学校の校庭だったというこの空き地から、海がよく見えた。 明後日、私がこの海を渡ってしまえば、また元の日常に戻っていく。 連絡先くらい、聞けば教えてくれるかもしれないけれど、聞いたところでどうすればいいのかもわからない。どうしても用件が出来れば、教授経由で連絡くらい取れるだろう。 他愛も無かった島での数日間は、このまま閉じ込めておくことにする。 きっとここから出て出会う椎名さんは、別の人だ。 「明日は何するか決めてあんの?」 「何も…、というか片付けるつもりだったし、元々そのために来たわけだし、あの家で片づけしつつぼーっとしてようかなと思います」 「いいんじゃないの。僕も気が向けば行くよ」 じゃあ帰ろう、と椎名さんが言った。はい、と返事をして、私たちは海の方へ向かっていく。車は海辺の食堂へ停めたままだ。 やっぱり私たちは、他愛もない話をしながら帰路について、またねと言ってお別れをした。椎名さんは気が向いたらと言ったけれど、何となく明日は来ないような気がしている。 それならそれでいいと思った。 彼が、何かを決めたような気がしたのだ。 封筒を開けると、顔を出したのは珍しく絵葉書だった。自分で撮った写真を印刷したらしい。中高生くらいの少年が笑顔で手を振っている。すぐにあの少年なのだと気づいた。約束を果たしたらしい。 何にやにやしてー、たまたま遊びに来ていた友人が、私の肩越しに覗き込んでくる。さっと絵葉書を封筒に仕舞って、何でもないよと私は振り向いた。 一年に一度の大切な手紙。 忘れられない思い出。 大事な人。 ******************************** リクエスト:原作から10年後くらいの椎名翼 ミサキさんに捧げます。 最近判明した年表とは照らし合わせていません。榊さんはあの榊さんの親戚くらいに思っておいてください。 25歳の椎名翼って格好良すぎでは?と思いながら書きました。 リクエストありがとうございました! 20年1月25日 ピクシブ掲載 21年5月8日 サイト再掲 |