学校へ向かう弟と分かれて、私は郊外にあるカフェーへと向かう。
 どこまでも続いているように見える青空と、欧州辺りのどこかの絵画で見たような、ぽっかりとした白い雲に、図らずも気分が上昇する。出店の並ぶ大通りを歩いていくと、徳川の時代までは大名屋敷の並んでいた土地の広い場所に出る。やっと町の風景に馴染むようになったとは言え、やっぱり洋館はまだ見慣れない。大名屋敷が取り壊されて維新後に連続して建てられた洋館が続く道の終わりに、和洋折衷のこじんまりとした館が見える。
 その館の真ん中にどっしりと構える重そうな鉄の扉を開けると、チリン、と内側で鈴が軽快に鳴った。いらっしゃいませ、と女性特有の高い声が響き、私は店内のカウンター席へと女給さんに案内される。ダージリン、と注文をすると感じの良い落ち着いた女給さんは一礼してカウンター内へ消えた。

「珍しいな、いつもアールグレイなのに」

 そう言って彼女と入れ代わるように奥から顔を出したのは、マスターの黒川である。
 いつもよりもラフな格好で、カシャカシャと生クリームを泡立てている。

「なんとなくそういう気分なのー。あ、ねえ、もしかして今日のケーキはショートケーキ?」
「いちごのな」
「おひとついただけますか、マスター」

 かしこまりましたお嬢様、とわざとらしく恭しい態度で一礼すると黒川はカウンター奥へと消えていく。

 私がここへ転居してくるよりも早くからこのカフェーはある。なんでも黒川の祖父の代から茶屋として町の人に愛されていたらしく、数年前に黒川が改装して茶屋ではなく外観もカフェーらしくなってからも、馴染みの客は絶えない。黒川と、彼の父と、彼の祖父に共通してある、どことなく居心地の良い雰囲気と、ここ自体のうるさくなく、かつ寂しくはない雰囲気が、人々に安心感を与えるのかもしれない。

「どうぞ」

 そう言って女給がアンティーク風の淡い藤色をしたティーポットと、それからセットになっているカップとソーサーを二組おいていく。え?と不思議そうに顔をあげると、カウンター越しに相変わらずクリームを泡立てながら黒川が、つばさ、と口の動きだけで言い、それから少しだけ笑った。特に連絡を入れてからここに来たわけではないけれど、どうやら待ち人がいることはお見通しらしい。
さすが、と私が感心したのと、店内に軽い鈴の音が鳴り響いたのはほぼ同時だった。

「人と待ち合わせしてるんだけど」

 現れた椎名翼は、きっちりとした正装で、最近流行りものの帽子を被っていた。コートと帽子を女給に預けると、店内をぐるりと一度見渡した彼と目が合って、右手を上げて合図する。

「マサキ、ダージリン」
「もうご用意してございます」
「さすが」

 私が抱いた感想と同じ言葉を残して、翼は足早に私の元にやってくると、目の前の椅子に腰を降ろした。

「珍しいね、翼から呼び出すなんて」
「そりゃ今日は特別な用事だからね」
「特別?」
「そ。年末年始なんだかんだバタバタしてての誕生日きちんと祝えてなかっただろ?だからプレゼント一緒に選びに行こうと思ってね」

 私の誕生日は12月27日である。
 しかし、お互いそれなりに名のある家であるため、年末年始は親戚を始め政界・財閥界関係者への挨拶で慌ただしい。誕生日の当日に、翼から綺麗な手紙は届いたけれど、結局会えたのは新年明けてからの、挨拶周りの時だった。お互いの親戚も多く集まる席だったために、当然ゆっくりと話す時間などなく、二言三言会話をした程度だった。
 言うまでもなく同じ空間に居られただけでも私は幸せだったけれども。

「で、何が欲しいの?」
「えー?翼かなっ」

 手が飛んでくるのを覚悟の上で、机の上のティーカップやらを危険でない場所に移してからの発言。身構えてみた、けれど結局何も飛んでは来なかった。あれ、と思いながら翼に視線を向けると、口の端を吊り上げて、にやりと彼は笑っていた。
 経験からわかる。
 翼に、何かこう、スイッチが入った時だ。

「ふうん」
「え・・・なに・・・?え・・・?ちょ、怖いんだけども」
「僕が欲しいわけでしょ?」

 にこり、と翼の表情は輝かんばかりの笑顔だ。



「いいよ、じゃあ、僕をあげよう」










 まだまだ子供と言えども、私だってそれなりに生きてきたわけで、従ってそれなりに窮地に立たされたことはある。自分の力の及ばないような壁が立ちはだかることだってあったし、どうしようもないような事態に陥って泣いたこともある。激動の明治維新を肌で感じながら成長期を過ごして、代わり行く社会に置いて行かれないように必死になった。徳川の平和な世の中に比べれば、ずっと荒波に揉まれて育った。窮地には、それなりに慣れている。

 だけど。

「いやいやいやいやいやいやいやいやいや落ち着いた方がいいよね」
がね」
「何よ、あたしの気持ちも知らないくせに!」
「知らないね。いい加減良い大人なんだから追い詰められて俺の部屋に来るのやめてくれる?」
「落ち着こう、やればできる」
「人の話は聞く」
「だけど英士の話は聞かない」
「怒るよ」
「怒らないで」

 と、ここまでくだらないやり取りをしたところで、とうとう無視された。けれど何かと文句は言いつつも、追い出すことをしない弟に愛を感じながら、勝手にベッドサイドに腰掛けてランプの中の蝋燭に火を点ける。まだ灯りを点けるには早い時間だけれど、弟は何も文句を言わなかった。私が、この灯りがあると落ち着くということを、もしかしたら知っているのかもしれなかった。
 辞書をめくる音だけが部屋に響く。時折何かわからない問題があるのか、こつこつと鉛筆を爪で弾く音がする。横浜で手に入れたという希少なそれを弾くだなんて!と思う反面、そういうところが弟らしいな、とも思う。
 少しの音しかしない空間で、ひっそりと息を潜めるようにして縮こまっていた私に、弟が声をかけてきたのは、それから半刻ほど過ぎた時だった。

って、椎名さんのこと、どれくらい好きなの」
「・・・・どれくらい?そんなの、考えたこともないんですけど」
「じゃあ何が不満なの?」
「不満?不満は、ないよ」

 即答で返した私の返事に、弟は怪訝そうな顔をした。
 コツコツ、鉛筆を弾く。

「・・・・じゃあなに、さっさと自分の部屋戻って椎名さんのところに行けばいいでしょ」

 心底理解不能、と弟の顔には書かれているようだ。眉間の皺が三倍くらいに増えている。それとこれとは話が別です、という私の言葉に、返されたのはため息だけだった。立ち上がる弟に、どこへ行くのか尋ねれば、飲み物とって来る、と素っ気無い返事を置いて彼は部屋から出て行ってしまう。残された私は、弟がいなくなったのをいいことに、ベッドに横になって、なんとなしに天井を見上げた。

 別に不満があるとかそういう問題ではない。
 ただ単に、翼が訪ねて来たときに条件反射で英士の部屋に逃げ込んでしまったので、出るに出られなくなっただけだ。
 それだけであって、他に理由はない。

 ないはず、だ。

 じゃあ何故逃げたのかと言われると、それに対する明確な答えなど持ち合わせているはずもなく。
 だって私は悪くない、と口の中で呟く。
 毎年誕生日は何がいい?と聞かれては「翼!」「はいはい」というやり取りを繰り返してきたわけで、だけど結局はしれっと何か用意してくれているのだ。それが何故今年に限って「こんにちは、が僕をご所望のようなので、一日失礼します」だ。玄関先で私の代わりに翼を迎え入れてくれた弟がドン引きしていた。
 ああもう!と叫んでベッドに顔を沈める。





 少しだけ眠っていたらしい。
 いつの間にか部屋に戻ってきたらしい弟の横に置かれたカップの中に、もう飲料はほとんど残っていなかった。しまった、と飛び起きると、背中を向けたままの弟が「おはよう」と言う。間を空けてとりあえずおはようと答えると、「おはようじゃないでしょ」と呆れられた。最初に言ってきたのはそもそも英士の方だというのにこの言われようである。

「もうすぐ一馬が来るから、早く出てってよね」
「えー!何よ!英士はあたしと一馬どっちが大切なの!」

「すみませんでした・・・・・・って、え?」

 当然のことながら友人の名が呼ばれるであろうと思っていた私は、弟が言葉を紡いだとほぼ同時に謝罪の言葉を述べたわけだけれど、その答えが予想外のもので、思わず間抜けな声が出た。間違えたのだろうかと彼の横顔を窺ってみるけれど、特に訂正する気はなさそうだ。

「今はね。だから、心配してあげてるんだから、早く元気になってくれる?」
「・・・・」
「いずれ夫婦になるんでしょ、だったら一方的に追いかける立場じゃなくなるんだし、いい加減椎名さんのこと信用してあげればいいのに」
「・・・・」
「疑ってかかんなくても、嘘じゃないと思うよ。この間の虫干しの時だって、何か言ってたでしょ」
「・・・・何が」
「わかってるくせに聞くのやめて」

 それきり弟は黙り込んでしまった。何と声をかけても頑なに無視で、ただひたすら白いノートの上に鉛筆を走らせている。私にはわからない言語が、つらつらと並んでいく。出て行けと言われていることはわかっているけれど、体が動かない。結局私の背を押したのは、弟の友人の来訪を告げて鳴り響いたベルの音だった。










 部屋の前で立ち止まる。
 自分の部屋に入ることを躊躇うのは初めてだった。階段を昇ってきた少年と目が会い、彼は遠慮がちに会釈すると弟の部屋の中へ消えていく。あまり陽の入り込まない暗い廊下を辛うじて照らすのは夕焼けで、そういえば翼が来たのはまだ昼間だったということを思い出した。思い出して、待たせたことに申し訳なさを覚えるけれど、それでもまだ扉を押すことはできない。柄にもなく変な緊張をしている私を、頭を振ることで否定して、冷たいドアノブに手をかけた。
 と、ほとんど同時に扉が内側から開かれる。ノブに手をかけたままだった私は、ほとんど崩れ落ちるように部屋の中に滑り込む。倒れると思っていた体は、どん、と何かにぶつかった。



 当たり前だけれど、翼だった。



「遅すぎ」
「・・・・」
「何か言うことは?」
「すみません」
「それじゃ済まないけどね」
「何が!?」

 顔を上げて、やられた!と後悔した。思わずがばりと上げた顔を、しっかりと両手で固定され、「はい捕まえた」と微笑まれる。ああ相変わらず麗しい、と考えて、つまりその分だけ遅れて逃げ出そうと反応した自分が、まさか翼から逃れられるはずもなく、そのまま閉められた扉に背を押し付けられて、ずるずるとしゃがみこんだ。
 じっと覗き込んでくる翼に居心地が悪くなって、せめて目線だけ逸らそうと努力しても、視界から彼が消えることはなく、気まずい。目が合わないだけ緊張は柔らぐかと思いきや、まったくもってそんなことはなかった。

が欲しいっていうからせっかくの休日を丸々に費やしてやろうとこんな田舎くんだりまでやってきた僕をこんなにも長い間放置するだなんていい度胸だよねさすが
「いやもうほんと仰るとおりでっていうかうち田舎じゃないしっていうか近い!!」
「いつも抱きついてくるのはじゃん、それよりは距離離れてると思うけど」
「それとこれとは話が別です!!」

 そう叫ぶと、私の両頬を掴んでいた手がすっと離れていく。ほっと胸を撫で下ろした瞬間に、翼が言った言葉に私は硬直した。すぐさま否定しなかったのは、頭が追いつかなかったからで、それを肯定したわけではない。否定しなければと思いながら、だけど上手く言葉が出てこなかった。そうしているうちに、翼がもう一度、



「いらないの?」



 と、静かに言った。
 脳から指令は下されている。否定しなさい、と警報がけたたましく鳴り響いているのだけれど、口が言うことをきかない。じわりと浮かんできた涙は、瞬きをし忘れているせいであって、別に泣いたわかじゃない。ぎゅう、と膝の上で握り締めた両手が白くなっているのは、力を入れすぎたわけではなく、ただこの部屋が寒いせいだ。
 だからいつも通り返事をすればいい、ただそれだけだ。
 それなのにやっぱり口は動かなかった。

 そう、と一言残して、翼が立ち上がる。立ち上がって、少しの間そこに留まっていたけれど、結局私の上から扉を開けて、横を通り過ぎていく。
 彼が部屋を出て行こうとしたその直前に、やっと私の口は言葉を発した。喉が渇いて口の中がざらついている、きっとしばらく飲み物を飲んでいないせい。



「〜〜〜〜私が翼いないと生きていけないことくらい翼だって知ってるじゃん!」



 そうしてどうにか紡がれた言葉は、考えていたよりも大分可愛げのないものだった。言ってから後悔するけれど、発した言葉を取り消すことはもちろんできるはずもなく。顔は上げられない。上げられないまま心臓だけが破裂しそうで、というかもうむしろ口からこんにちは!と出て来るんじゃないかという勢いで、つまり私は混乱したまま翼の足首を掴んでいた。

「・・・・そうだっけ」

 降って来た言葉は、抑揚がなく、冷たい。

「そうだよ、知ってるでしょそんなの、毎日言ってるじゃん、会った時から言ってるじゃん、なんでそういう言い方するの!意地悪いよ今日の翼、っ」

 それでも好きだけど、続けようとした私よりも先に、翼が私の腕を掴んで、引き上げる。変な体勢で起き上がった私をきちんと立たせると、バタン!と大きな音を立てて扉が閉められた。



「意地悪いのは、どっちだよ」



 あまり私と身長差のない翼の、大きな目が覗いてくる。今度は顔を固定されたわけでもないのに、動けない。

「いつも言ってる、それは嘘だったわけ?僕が少し寄れば、逃げ出すくせに、自分の気持ちは信じろって言う。ねえ、どれだけ自分勝手なこと言ってるかわかってる?」
「・・・・っじゃあ翼だって普通に言ってくれればいいでしょ!」

 叫んだ瞬間、それまで耐えていた涙が零れ落ちて、私はそれを慌てて拭った。

「泣いてないです!」
「・・・・いや、別に責めてないし。それにどう見ても泣いただろ、今」
「目にゴミが入りました!だから泣いたわけじゃないです!だから気にしないでください!翼のせいじゃないよ、」

 何故こんなにも必死で否定しているのかというと、涙は女の武器よー、ところころと笑いながら言っていた近所のお姉さんが頭をよぎったからだった。あの人ならばそれをしていても罪ではないだろうけど、私はどうしても翼相手にそれを使うことはしたくなくて、溢れ続ける涙を何度も何度も拭った。もちろん使うつもりで流した涙ではないのだけれど、それでも嫌だった、泣きたくなかった。けれど止まらない。理由が、自分でもわからない。今回悪いのは、私であることもちゃんとわかっている、わかっているけれど、口とか目とか、そういう体の一部が私のものではなくなってしまったかのように言うことを聞かなかった。

 耐え切れなかった嗚咽が喉の奥から聞えてきたところで、翼の手が首に回されて、そろそろと背中に回す、と安心したのか呼吸がしやすくなった。

「・・・・ごめん、ちょっと、意地悪しすぎた」
「・・・・・・・・やっぱ、り、意地悪、かったん、じゃん!馬鹿!好き!」
「・・・・」

 はいはいと呆れているけれど優しい声が耳元で聞える。

「・・・・でも、あたしも、ごめん、ね」
「ん」
「ごめんなさい」
「いいよ、もう。俺もごめん。けどさ、いつも自分ばっかりだろ、この前も言ったけどわかってんの?俺も、ちゃんと好きってこと。だから、あんなあからさまに拒否されたら傷つくわけ、わかる?」
「すみません」

 わかればよし、と頭をくしゃくしゃに撫で回して、翼が言う。
 別に翼のことを信用していないわけではなかった。ただ単に、慣れていないだけだったのだ。だから驚いた。驚いたから、逃げた。それが、不安に繋がるだなんて、考えたこともないわけで。ましてや相手はあの椎名翼なのだ。
 そういえば近所のお姉さんは、人は恋した相手には大胆にも臆病にもなるのよ、とも言っていた。

「はい、終わり、で、どうする?」

 べり、と剥がされた私の呼吸は、気づけば正常に戻っていた。あんなに止まらなかった涙も、いつのまにか乾いていて、ぱちぱちと何度も瞬きをする。絨毯に投げ出された腕と足に、やっと感覚が戻ってきたようで、どくどくと波打つ心臓から送り出される血が全身を巡るのがひどく顕著になる。どうするって?少しずつ脳内がいつもの調子に戻りつつあるのを確認しながら、私は首をかしげた。

「結局、僕のこと、いるの、いらないの」
「いります!」

 そうほとんど間髪入れずに答えると、翼は満足気に笑って、私を抱きしめた。





from here,my dear




END


ミサキさんへ。

12年06月04日


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