秋特有の、高い青空が広がっている。 夏が嫌いなわけではないけれど、秋のぐんと高くなった青空が好きだ。いつもは遅くまで寝てしまう休日に、珍しく早起きをしたら良い気分になった。早起きは三文の特だなんて嘘だと思っていたけれど、秋なら早起きしても良いと思う。 「珍しい、ぜったい寝ていると思ったのに」 「虫干しするから寝坊したら許しませんよ、って言ったのは誰よ?」 居間に降りて朝食の準備をする母に挨拶をしようとしたら、開口一番にそう言われる。確かに朝は強い方ではないけれど、だからってせっかく起きてきた娘に対してあんまりだ。 見渡せば起きていなかったのはどうやら私だけのようで、「早く準備!」と弟に言われ、しぶしぶと食器棚に向かう。「せっかくだから椎名さんにいただいた漆椀を使いましょう」という母の命令に従って、食器棚の一番下を開けた。漆は乾燥に弱いため、湿気の溜まりやすい一番下に仕舞うのが普通だ。桐の棚はしっかりと湿気を閉じ込めておいてくれたらしい、開けたと同時に湿っぽい桐の香が鼻をくすぐった。 「食器棚も一緒に虫干ししようかしらね」 「・・・えええええ面倒・・・」 「あら、じゃあのは放っておこうかしら?翼くんからもらった桜の陶器物、しばらく出してないんじゃないの?痛むわよ」 「やります!」 天皇家に代々仕えてきた(らしい)我が家は、明治になってからは所謂華族と呼ばれる地位にあり、生活にはあまり苦労していない。どころか、生活必需品以外の物であふれ返っている。祖父の父も美術品には目がない人で、家にはそういったお宝が眠る蔵が三つある。普段用がない限り開けられることはないその扉が、一斉に開かれる日、それが、虫干しの日だ。蔵の中に眠っている品を一気に外に出し、湿気を飛ばすことが目的で、大体秋のよく晴れた日に行う。お寺なんかが、よく曝涼と称して虫干しを行い、展覧会を兼ねていたりもする。うちの虫干しはそんなに大きいわけではないけれど、近所では結構有名で、この日、多くの人が家にやって来る。 「今回はの担当は巻物ね。正午には始めるから、きちんと準備揃えておきなさい」 「えー巻物ー!?やだって言ってるのに!」 「文句言わない。そういう態度だからいつまで経っても三上さんと仲良くなれないのよ」 「いや三上と仲悪いのはそういう理由じゃない上に仲良くなるつもりもないんだけど」 馬鹿なこと言ってないでいいからさっさとご飯食べなさい、と母が席を立ちあがる。隣で弟も呆れたように溜息をついたけれど、見なかったことにした。 朝食の後片付けを終えると、動きやすい洋装に着替えて町に出る。女学校は和装が基本だから、今日の格好は動きやすいはずなのに、なんとなく着心地が悪い。慣れないものは、やはりよくない。今度からはたまには洋装になろうと決心して道を曲がる。金木犀の甘い香を胸いっぱいに吸い込みながら人通りの多い道を進んでいくと、出店が並んでいるのが見えた。 色とりどりの風車に目を奪われて、しばらくそれを眺めていると、道の向こう側に見知った顔を発見する。本人は私には気づいていないようで、視線は合わない。昼間の下町にいるには何となく似合わない風体の男が、私を視界に捉えたのは、結局目の前まで来てからだった。 「あーじゃん、今日曝涼するんじゃねえの?」 「虫干しね。曝涼とはうちでは言わないし」 「細けーな、どっちだって同じじゃん」 大きな欠伸をしながら目を細めてそう言ったのは、近くの寺に住み込みで働いている中西秀二だ。別に宗教家というわけではまったくないけれど、とりあえず住む場所が欲しくて住みついたお寺が、居心地がよくてそのまま居座っているらしい。住職は寺の跡継ぎのくせにやたらとちゃらちゃらした関西人で、お堅い人たちからは評判が悪いけれど、人柄故か、若者なんかからは慕われている。中西もそうして集まったうちの一人で、うっかり住みついている。 「今年は担当なに?」 「まさかの巻物。絶対やだって言っておいたのに!あー虫干しが嫌になる日が来るとは・・・! 「虫干しが嫌なんじゃなくて三上のとこに行くのが嫌なんだろ。どうせ借りに行くだけなんだしさっさと行きゃーいいのに」 「甘い!返すっていう仕事もあんの!」 「ああそう、っていうか巻物なら客間とかの掛け軸選びもがするんでしょ?俺の浮世絵にするっていうのはどう?」 「却下」 中西は別にお寺での坊主まがいの仕事を本業にしているわけではない。どういうわけかやたらと器用なその手先を使って、浮世絵師なんかをやっている。江戸時代ほど人気なわけではない浮世絵だけれどけれど、中西の描く、その性格と見た目にそぐわない風景浮世絵は結構評判で、わざわざ注文しに来る人もいるらしい。私にはその魅力がいまいちわからない。 「昨日も一枚せっかく大作が出来たのに」 中西が脇に抱えるようにして持っていた大きなものは、どうも浮世絵だったらしい。確かにその大きさは見たことがないくらいで、気にならないといえば嘘になるけれど、さすがに買う気にはならなかった。 「売ればいいでしょ売れば」 「売りたい人はもうどこにいるかわかんねえし。さっきまで一緒にいたんだけど」 「・・・・それ、本業の話?」 浮世絵師が表向きの本業ということになっているけれど、皆の知らないあいつの本業は彫師だ。常に隠れてはいるけれど、中西の左腕には大きな刺青がある。自分で彫ったらしいけれど、詳しいことは聞いていない。 出店の前で話しこんでいると、おばちゃんに注意された。商売の邪魔はしないでね、とにこやかに言われ、慌ててその場を離れていく。 「今から三上んとこ行くんだろ?俺もついていこうっかな、これ売る」 「・・・・・三上に売ってどうすんの、それ誰かのために描いたんでしょ?」 「そう、千月さんっていう美女。超綺麗だった」 「誰だし」 通りから外れるように細い脇道に入った私の後を、中西はついてきた。こちらは寺とは反対方向で、どうやら本気で三上の家まで行くつもりらしい。文句を言おうとしたけれど、なんだか面倒になって、そのまま好きにさせることにした。 細い路地裏は、表の通りとは打って変わってしんと静まり帰っている。時折民家から物音が聞こえてくる程度で、あとは遠くの喧騒が微かに耳に届くだけだ。太陽の光さえもがどこか暗い。何軒目かの民家まで来て、そこを曲がると、今まで続いていた平屋とは異なる、大きな家が建っている。 ここが、三上家だ。 いつ来ても私はこの家が嫌いだった。最初の第一印象が悪かったと言えばそれまでだけど、なんとなく空気が好きじゃない。型にはまったような伝統的日本家屋で育ってきた私だから、この近代的な洋館とは、生理的に相容れないのかもしれない。 嫌なことはさっさと終わらせようと、意気込んでベルを鳴らす。少しだけ間が空いて、はい、と落ち着いた声が聞こえてくる。毎年恒例の虫干しのことを伝えると、それだけで通じたようで、ちょっと待ってくださいね、とすぐに切られた。中西がいることを伝え忘れたことに気付いたけれど、きっと問題ないだろう。 程なくして玄関の扉が開けられ、中から出てきたのは予想外の人物だった。 「渋沢さんじゃん、どうしたの?」 「昨日から三上に呼び出されて手伝わされてるんだ。って、中西も来たのか、珍しいな」 そう言って苦笑したのは、渋沢克朗だった。 三上の元学友だかなんだかで、現在は学校の先生として教鞭を執っている。これがまた先生になるために生まれたような男で、とても三上の友人だとは信じられない。 「・・・・もしかしなくても三上機嫌悪い?」 「最悪だ」 げっ、とうめき声をあげた私を華麗に無視して渋沢さんは私たちを招き入れた。重い扉の閉まる音を背後に聞きながら、天井の高い洋館の中を進む。廊下をまっすぐに行って突き当り左側の部屋の前で立ち止まると、渋沢さんはその部屋の扉を遠慮なく開けた。バン!!と驚いてしまうような音が響く。 「客だぞ、三上」 どうやらその部屋は書庫だったらしい。部屋の真ん中で本に囲まれてあからさまに不機嫌なオーラをまき散らしているのは、三上家次男、三上亮だった。 こいつの職業はなんだかよくわからないけれど研究者のようなものらしく、いつ来ても本の山に埋もれている。 「客なら客らしい態度取れって話だよな」 「客なんだから敬えし」 「俺の客はお前じゃなくてお前の両親」 眉を寄せながら振り向いた三上は、いつもに増して眉間に皺が増えていて、どうせまたロクに寝ていないんだろうと思った。中西も隣で「とばっちり受ける俺らのこと考えてる?」とか何とか言っているけれど、気にしない。何も言わない渋沢さんが一番大人と見せかけて、完全に無視しているのだから卑怯だと思う。 言えないけど、怖いから。 「で、どこにあるの。あれ無いと始められないんだけど。あと、香草、寄越せ」 「・・・・おっまえ、ほんと良い度胸してんな。郭家の娘じゃなかったらぶん殴ってるぞ」 「それなら仕方ないね、紛れも無い郭家の娘なので」 大変不本意ながらいつも通りの流れになってしまったところで、珍しく割って入ってきたのは中西で、「もーはさっさと帰れって。俺の用事が進まないだろー」とふて腐れている。「げ、お前本当に用事あって来たのか、最悪」と三上が毒づくのは、基本的に中西の用事というのが絵を売りつけることだからなのだろう。売りつける、というよりは、それを三上がどこかに転売しているらしいのだけれど、詳しいことは知らない。 行くぞ、と私の手を引いてくれたのは渋沢さんで、渋沢さんが三上家の一員でないことが、心底悔やまれた。彼が長男であったならば、次男となんか口をきかなくてもいいのに!と本気で思う。 案内されたのは二階の客間で、大きなシャンデリアが飾ってある部屋だった。豪華絢爛という言葉がまさに当てはまるようなその部屋は、我が家の客間とは対照的でやはり最高に居心地が悪い。弟はここを「趣味の悪い部屋」と一蹴していた、気持ちはわからなくもない。 部屋の真ん中の大きなテーブルの上には、見覚えのある風呂敷に包まれた道具がどんと構えていた。一人で持って帰らなければならないことを考えると憂鬱で仕方が無い。 巻物の虫干しには色々と道具が必要で、その一式を貸し出してくれるのが、この三上家なのである。本当ならば一介の華族なんかが借りられるようなものではないらしいが、両親同士が仲が良く、その関係で毎年少し協力してもらっているのだ。なんでこんな奴に!と思わなくもないけれど、それは私が言えることじゃないので黙っておく。代々文化財保護を手がけてきている家柄らしいが、あまりにも情報が少ないのでよくわからない。 「あー・・・もう三上家以外もこの職業やっとけよ!」 「、お前三上が何してるかわかってないだろう。ちょっとやそっとの人じゃ出来ないんだから仕方ない」 「それはこの家が他人に伝承する気がないからでしょー!内弁慶!」 「内弁慶の使い方、間違ってる」 ほら、と渋沢さんが手渡してくれたものは、新しい香草袋だった。質素な紙袋に包まれた、品の良いものだ。これならば、きっと母も気に入るだろう。紙の文化財にとって天敵である害虫を、寄せ付けない働きをもつこれは、自然の物を使用しているため効力が弱い。虫干しの際には必ず新しいものに取り替えなければならないのだ。 「ありがとう」 「作ったのは俺じゃなくて三上だがな」 「聞えない」 風呂敷を肩に担ぐと、思わずぐらりと体が傾いて、慌てて踏み止まる。風呂敷の端を支えてくれた渋沢さんが「大丈夫なのか?」と聞いてきたので「じゃあ一緒に持ってってよ」と言ったら即否定の返事を返された。前から思っていたけれど渋沢さんは意外と私の敵に回るタイプのような気がしてならない。何がいけなかったのだろうと過去の自分を振り返ってみて、原因の候補が思い当たりすぎてやめた。 廊下に出たところで来客を告げるベルが鳴る。渋沢さんが不思議そうな顔をしながら、階段を降りていく。誰か来たのならば、鉢合わせるのも微妙だと思い、私は裏口に回ることにした。当たり前だけれど中西はもちろん三上さえも見送りには出て来ない。私も二人を見送ったことなど一度もないからお互い様なのはわかっているが、それでも少し腹立たしい。 風呂敷を担いだまま扉を開けることは難しそうで、仕方ない、と肩の荷を下ろそうとしたところで、玄関先から渋沢さんに名前を呼ばれた。とりあえず荷物はそこに放置して、歩きなれない絨毯の上を足早にかけていく。 玄関扉を開けながらにこやかに渋沢さんは笑っていた。 「まあ、なんとなくそんな気はしていたんだが、まさか本当に来るとはな」 言っている意味がよくわからず、首をかしげると、渋沢さんは外の誰かに向かって手招きをする。弟が手伝いに来てくれたんだろうか、と考えて一瞬でその考えを打ち消した。虫干しの日は、他の人を手伝えるほどの余裕はない。 「昨日、ちゃんと手伝うって言っただろ、忘れたの?」 呆れ顔で扉の向こうから顔を出したのは、 「翼!」 許婚の椎名翼だった。 「鶏以下」 と、私の知力を評価して、翼は次々と作業を進めていく。 家に帰って、物を外に出す準備を進めるために、太陽の光が十分に差し込まない倉庫に篭っているせいで、翼の表情は確認できないけれど、確実に馬鹿にされていることだけはわかる。呆れた顔の翼を想像して、幸せな気分になった。 「・・・・なんで喜んでんの」 「え、翼が返してくれる全ての反応が嬉しいから!」 「今僕はを貶したはずなんだけどね」 カタン、カタン、と一定のリズムで、翼は和書の入った箱を積み上げていく。 「いや、だって翼にしてみたら私なんて鶏以下だろうし、三上なんて蟻以下だろうし」 「・・・・前から思ってたけど、なんではそんなに三上と仲悪いわけ?」 「そういう星の下に生まれてきちゃったんだよ、仕方ない。だけどいいんだ!何故ならその星の下に生まれた結果こうして翼に出会えたわけだし!」 「馬鹿?」 ごつん!と割と大きな音がして、同時に側頭部に尋常ではない痛みが走った。痛い!と叫ぶ私を、梯子の上からケラケラと翼が笑って、手に持っているものを振って見せた。大きな巻物だった。 「翼先生、」 「はいなんでしょう」 「それで人を叩いてはいけないと思います。何故なら痛いから」 「あ、そう?痛かった?」 いやあの音聞けばわかるでしょ!?と思ったときには既に翼は作業を再開していて、結局私は口を開いたままその言葉を告げることはできなかった。 カタン、カタン、再び音が反響する。 桐箱同士のぶつかり合う音は、暗い倉庫の中でよく響く。物持ちがよくて、湿気の調節を自然としてくれる桐箱は、何か大切なものを仕舞う時には打って付けのもので、ここにあるほとんどのものがそれに仕舞われている。 倉庫には、小さな窓が一つ付いているだけで、他の光源は蝋燭しかない。昼間は蝋燭をつけなければならないほど暗くもないので、あまりそこに火が灯ることはない。遥か頭上に見える小さな窓と、開け放した入り口の重い扉から入る光だけでは全体を明るく照らすことはない。 けれど、そうした限られた光のおかげで、空中に舞う塵さえもちかちかと光って見えるのだ。別にあって嬉しいものでもなんでもないはずだけれど、綺麗に見える。梯子の上で作業をする翼の周りにも、もちろんそのきらきらと光るものはあって、幻想的に見えるから、私はこの瞬間が好きだった。 「・・・・ちょっと」 「ぅあ、はい!」 「手、動かす!人のことばっかり見ない!毎年言ってるのに学ばないよね」 「しょうがないよね、好きだから」 最早何度目になるかわからない言葉を紡ぐと、はあああああああ、と長いため息が降りてきた。 同時に、今まで響いていた音も、鳴り止んで、翼が作業を停止したことを知る。怒らせた!?と慌てて見上げると、ギッ、と梯子が軋む音がして、翼が降りてくるのが見えた。大人しく下で待機する。 最後の一段を降りて翼が同じ目線になった。 翼のあの大きな目に真っ直ぐ見つめられると、思考が上手く働かなくなる。いつもはあんなにも色々と好き勝手な言葉をぶちまけている口の使い方も忘れて、上手く言葉が出て来ない。 ずるい。 「」 呼ぶ声が反響する。 いつもとは、少し違う、ピンと張り詰めた糸の上を走るような、そういう声。蔵の壁はとても厚くて、外界と私たちを遮断する。そのせいか、声がいつもよりも響いて全身を駆け巡る速さも違う。 椎名家はうちなんかよりもずっと大きな伝統ある家柄で、政界でその名を知らないものはいない、くらいの規模を誇る家だ。幸いなことに派閥が同じであるという、たったそれだけのことで、私は翼と知り合いになった。知り合いになった、だなんてそんなものではなくて、見た瞬間に、恋に落ちた。落ちた、という表現はすごいと思う。本当に、転がるように、でもなく、ただひたすらに、落ちていった。 弟曰く「あの時のの顔、結人だってしないくらい間抜けな顔してたよ」らしいけれど、そんなことはどうでもいい。齢八歳にして、私は生涯の伴侶を見つけたのだ。 ずっと好きだった。 いや、これって本当に好きなの?と思ってしまうくらい、好きだった。 どこが?と聞かれても困る。 全部だ。 私よりも大きな目も、綺麗すぎる肌も、可愛い顔して繰り出してくるマシンガントークも、さらさらの髪も、彼の持つ物も、周りの空気も、全部。 「いつもそうやって言うけど、」 はい座る、と腕を引かれ、二人揃って埃っぽい床に腰を降ろす。しゃがみ込んで見上げる天井は、いつもよりも遠くに見える。ぺたりと足を伸ばすと、体温よりも幾分か低い温度が伝わってくる。一年のほとんどを、太陽の光を浴びずに息を潜めている蔵の床は、ひんやりと冷たい。それとは対照的に、翼が触れる右腕だけ、異様に熱を帯びている。 慣れない。 一向に、慣れない。 多分、一生、慣れない。 「見返りは、いらないわけ?」 とんでもないことを、翼が仰った。 「・・・・あいとはみかえりをもとめないものです」 「は?なに?」 「愛とは!見返りを!求めないものです!!」 叫んだら、うるさいと叩かれた。そんなことを言われても、これ以上今の翼の言葉を聞いていられる自信はない。何か、もっととんでもないことを言われるような気がして、思わず身体を強張らせる。 「じゃあ聞くけど、は僕のどこが好きなの?」 「えっ、全部です翼の吸ってる空気さえも、踏まれている土さえも羨ましい!っていうか世界が終わっても翼が好きです!」 言っていることは大体いつもと変わらない。私がこういうことを言って翼が呆れるか手を出すかそういうのが、日常。 だから今回もまた、呆れられるんだろうなあ、と怖くて視線を外していると、ゆっくりと翼の手が私の頬に触れて、驚いた。振り向けば、何故か笑顔がそこにあって。 「僕は、がいる世界を、何があっても終わらせないくらい、が好きだよ」 世界は、自分とその他で区別されるのよ、と昔誰かに聞いた。幼かった私は、その言葉を鵜呑みにして、自分と他人で世界が回っているのだと思っていた。私を除いて、他は皆、「私以外」になる。 そこに舞い込んできたのが、翼だった。突然綺麗な蝶々が、目の前を過ぎったら、誰だって捕まえたくなる。 ただ、私は、そうしただけだ。 「ちょっと、聞いてる?」 「・・・・聞いてるけど、ちょっと何言ってるのかわかんないです」 「ふうん、そう、僕の想いは伝わらなかったってわけ?」 「・・・・ちが!う!だって!私ばっかずっと好きで!翼が婚約承諾したのは政略結婚のためでしょ!?そんな簡単に信じないもん!大体私は一目見た瞬間恋に落ちましたけども翼さまは一体私のどこがお気に召したと申されるのか!」 「落ち着けば?」 また、翼が、呆れるでなく、ふわりと笑った。 何なんだろう、今日は何の日なんだろう、と思わずそんなことを考えてしまう。 ずっと、好きだった。 一方的に、好きだった。 好きでいられるだけで幸せで、同じ世界に生きているだけで幸せで、だけど不安がないかと言われればまたそれは別の話で。 許婚だなんて、そんなものにさえならなければ、多分味わうことのなかった感情。 親の勧めとは言え、翼が承諾してくれた時はこのまま世界が終わってもいいと思ったくらい嬉しかったし、毎日「椎名翼は私の許婚」と唱えるくらいには幸せだったし、だけど、許婚というのは、一応双方の意思があって初めて成立するもので。 好きだと何度も言う私を、絶対に拒絶だけはしないから、嫌われているとは思っていなかったけれど、でもきっとこの想いは一生一方的なんだろうな、と思っていた。 「なんで、僕が、を選んだかわかる?」 「・・・・全然」 「大切なものを、大切にできるやつだなって、思ったからだよ」 思い当たることはない。本当にまったく見当もつかなくて、私はただ翼を見つめた。 「追いつけ追い越せと西洋ばかりを真似ていくこの日本の中で、先祖が培ってきたものとか、今後きっと受け継がれるであろうものとか、そういうの」 思考が、追いつかない。 わかることは、翼が、私のことを、話しているらしい、ということだけ。 薄暗い、けれど仄かに光のさす四角い世界に、翼の声だけが反響する。たまに響いてしまう自分の衣擦れの音が、否に耳に響いてそれが不快だった。動かない。じっと、待つ。 「初めて、僕がこの虫干しに参加したときに、に聞いたんだよね。『こういうの興味なさそうだから参加しないと思ってたけど、好きなの?』って。そしたら、きょとんとしたあのいつもの馬鹿みたいに開けっ広げな表情で、だって子どもが好きになるかもしれないからって。自分の祖父が大切にしてたものだから、誰か共感できる子を産むかもしれないしって、そう言った」 言ったかもしれない、とぼんやりそう思った。 もともと、別に私には芸術を理解できるほどの高尚な頭脳はない。綺麗だな、とか、なんだか素晴らしいな、と思うことはあっても、それがどういう理由で素晴らしいのかなんてわからないし、ましてやそれを知りたいとも思わない。 それでも、代々私の祖父だとか曽祖父だとかが大切にしてきたものたちには、芸術以外の価値が詰まっていると思う。私には理解できなかったものでも、もしかしたら私の子どもたちはそれをとても大切に思うかもしれない。そう考えると、何が書いてあるかよくわらない和書だとか、変な柄の鏡だとか、目の細い変な人の絵だとか、そういうものが愛しくなる。 だから、私は、この行事が好きなのだ。 人の、想いが、わかるから。 だけど、それを、強く感じるようになったのは、翼のおかげだった。 彼がいる、彼が存在する世界を、少しでも多く感じていたくて、できるだけ多くのことを拾い集めようとした。そうしたら、世界は広く広がっていて、そして思っていたよりも複雑で、綺麗だった。 「変なやつ、って思ったけど、将来子どもを大切に育ててくれるだろうなって、思ったわけ」 翼が、少し照れたように笑い、視線を外した。 私ばかりが追いかけていると思うことも多い日常だけれど。 こうして、こうやって、些細なことを、覚えてくれて、そして私を見てくれる。 「っていうか!!!っていうか!!!子どもって言ったね!!!今!!!」 「あのね!ほんとなんていうかは空気を読まないよね!!今良い雰囲気だったのに!!」 「ええ!?そんなことないし!いつだって翼には全力なだけだよ!!!」 寄るな!と翼がまた梯子を昇っていく。今度は下から見上げることはせずに付いていく。「ちょ、倒れるだろ少しは考えて行動しなよねこの馬鹿!」と翼が怒鳴るのと、弟が「うるさい。もう始まるけど終わったの?」と蔵に顔を出すのは、ほぼ同時だった。 翼が好きです。 そうして、世界を紡いでいく END ミサキさんへ。 12年06月04日 |