どうして神社に出向いたのか、中西は自分でもわからなかった。 仕事終わりに、ただ、なんとなく足が赴くままに町をふらふらと歩いていたら、小さな神社の境内にいたのである。廃仏毀釈だなんだと寺院が迫害されていく中で、逆に盛り返した神社なのか、どことなく真新しい。ただし、人気がまったく感じられず、無人の神社だという雰囲気を建物自体が醸し出している。まだ夜明け前ということもあって、灯りのない神社は鳥居や賽銭箱など、どれも非日常のものばかりだからなのか、異常な雰囲気である。 ぼんやりとしたままぐるりと回ると、奥に小さな祠があった。 人が、いる。 ぼうっと、祠を見つめたまま立っているのは、どうも女性のようで、中西は一瞬ひやりとした。霊感の強い方ではないし、あれが俗に言う霊というものだとはさすがに思わなかったけれどm夜明け前のこんな時間に、人がいるとは思わなかったからだ。 じゃり、と思わず踏み出した中西の足音に、その女性が振り返る。 目が、印象的な女性だった。 「・・・・どーも」 どう声をかけるべきか迷い、結局そんな言葉しか出てこなかった。女性は呆気に取られたように目を見開いていたけれど、数秒開けて、こんばんは、と返してきた。何かに引かれるように、中西は祠へ、女性へ近づいていく。 「何してんの?」 「・・・・お参り?」 中西の質問に対して不思議そうに首をかしげて見せるその仕草は、女性の印象を幾分か幼くさせた。中西からは暗くてよく表情が見えていなかったが、思っているより若いようだ。自分と同じくらいかもしれない、と中西は思った。 「こんな時間に?変な人」 「それ言ったら貴方だってこんな時間に何してるの?」 「散歩」 「変な人」 くすくすと、女性が笑う声が、しんと静まり返った境内に静かに響く。彼女は祠に向かって一礼すると、くるりと中西の方へ向き直った。群青に染まる世界のせいで、どこか非現実的な空気が漂っている。 「その、手に持っているものは何?」 す、と細い指で手の中のものを指され、中西はそこで初めて商売道具をそのまま持ったままここへやってきたことを知った。鈍い色で光る、細い細い、針。 「なんだと思う?」 「質問を質問で返すって、失礼だよ。でも、答えてあげる。それ、刺青の針でしょ」 彫師なんだね、と女性はにこりと微笑んだ。刺青だなんて、決して女性にとって良い意味など持たないはずなのに、微笑むばかりか、ほとんど足音も立てずに中西の側に歩み寄ってくると、するりとその針を撫でる。 不思議な女だな、と中西はぼんやりと考えた。 自分の居候先の主人も、随分と怪しげな女性をよく連れ込んでいるけれど(しかも寺に!)、そういう女性とはまた違う。着ている着物が、夜明け前の青に同化していることも、そう見える要因なのかもしれない。 「ちょっと興味あるんだよね、刺青」 「・・・・なんで?痛いけど」 「そりゃあ針なんだから痛いでしょ」 突然、女性が手に持っていた小さな包みを開けた。 じゃらりと顔を出したのは、大量の、硬貨。 さすがに真意を掴みかねて、中西は反応できなかった。どう見ても小金というレベルではなくて、ありもしない想像をしてしまう。沈みかけた僅かな月明かりできらりと光るそれは、いつも見ている見慣れた硬貨とはまったく違うものに見えた。ふと、中西が顔をあげると、その視線の先には、口元に微笑みを称えたままの女性がいる。 「これ、何?あんた、危ない人?」 「危ない人って、何それ。そんなこと言ったら彫師なんてやってる君の方がよっぽど危ないでしょ。このお金は別に賄賂とかじゃないよ。で、物は相談、」 これで刺青入れてくださいって言ったらできる? 絶句した。 不思議な女だ、と先ほど思ったけれど、不思議なんて可愛い言葉で括ることはできなかった。不気味だ。 それでも、じっ、とあの目に見つめられると、今まで考えていたことが割とどうでもよくなって、中西はしばしの間考え込む。難しく考えないでほしいんだけど、と女性は髪をかきあげる。要は取り引きでしょ、と随分とあっさりした口調で言った。 こんなよくわからない神社で出会ったよくわからない女と取り引きも何もあったもんじゃない、と頭の片隅ではわかっているけれど、いいじゃん、とまた軽い調子で言われてしまうと、本当にそんなような気もしてしまう。暗い空と同じ色の瞳に見つめられて、結局中西は頷いてしまった。 「・・・・あー、知らねえからな、どうなっても」 「なに?君、腕悪いの?」 「そーじゃなくて、・・・・あーやっぱもうどうでもいいや。何がいいんだよ?」 「えっ、型とかあるんじゃないの?」 「俺はそういうの使わない、発想だけ」 不安ならやめれば?ちゃり、と針を鳴らす。肩から提げていた袋から、道具を取り出して並べる。怖気づくかと思った女性は、まったくそんな素振りを見せることもなく、むしろ興味津々といった風で覗き込んできた。へえ、と感心したように呟く。さらりと髪が揺れて露になった耳元に、きらりと金属が光っていた。 「あ、羽根」 ほとんど覆いかぶさるように覗き込んでいた彼女が、思い出したようにぽつりと言う。訝しげに振り返った中西は、思っていたよりも近くに彼女の顔があって、思わずすぐに目を逸らした。間近で見た彼女は、遠くから見るよりも魅力的な人だった。どこに惹かれているのか、自分でもわからない。 「羽根がいい、羽根にしてよ」 「羽根?何でまたそんなもん・・・・」 「いいじゃん、なんでもやってくれるんでしょ?」 にこり、と。 にこりと微笑んだ彼女は、より幻想的で、思わず中西は腕を伸ばした。右腕に、力を込めて彼女の腕を束縛する。少しだけ沈黙して、すぐに、なに、とほとんど抑揚のない声で言われ、するりとその腕を解放した。 神社の境内の奥に、入り込めそうだ。 中西は何も言わずに上がりこむと、一度も振り返らずに、奥の部屋まで進んだ。窓が広く、明かりの多い部屋の隅に座る。針を磨く。 部屋の入り口で立ち止まったままの女性に、おいで、と声をかけると、ゆっくりと彼女は部屋に足を踏み入れた。 「ねえ、あんた名前は?」 「・・・・。」 「ね。俺の名前は、」 「いい、知らないでおく、羽根くれた人って、覚えておくよ」 明日挙式なの、と全てを終えた後でぽつりとが言った。全てが無事にいきますようにってお願いするつもりであのお金持ってきたんだけどね、そう言った彼女の言葉の語尾は小さくて、ほとんど聞き取れない。え、とそう中西が言った時には既に彼女は立ち上がっており、さよなら、と一言だけ残すと、あっという間に消えていく。朝日が境内を照らし出していて、その光に目がくらんで、一瞬出遅れた中西は、そのまま追うことができなかった。 挙式前日の女が、何故羽根など欲しがったのか、中西にはわからなかった。 ただただ、いつまでもその幻影だけが彼の目の前にちらついている。 そのままどこか END 水方千月さんへ。 12年06月04日 |