私の誕生日を空けておいてねと三上に言うと、「ならお前はその前日を空けておけ」と言われたので、つまるところ必然的に、二日間の休みをいただくことになった。あいつは仕事上休みを取りやすい。しかし悲しいかな、私は休日が定められているため、そう簡単には休めないだろうと思っていたけれど、案外あっさりと許可をいただいた。特に理由を伝えたわけではないのに、「ごゆっくり」と含み笑いで言われたことを考えると、私の誕生日だということを知っていてくれたということなんだろうか。 その日の東京は、見事な青空だった。気温も過ごしやすい暖かな春の日で、目覚めた時から調子が良い。コンロでお湯を沸かしながら準備を進める。と、言っても昨日ほとんど済ませていたので、やることといったら細々としたものを詰める作業だけだった。 お気に入りの小袖に手を通し、昨年の誕生日に三上からもらったきれいな琥珀の髪飾りを髪に通す。最後につけたのは、夏だったはずだから、実に久しぶりだった。どこに行くのか聞いていないけれど、さすがに山に登るわけではないだろう、と無難に着物を選んだ。洋装も嫌いではないけれど、やはりきちんとした格好と言えば着物になる。 ちなみに前日に、三上からかかってきた電話は『7時に東京駅』というだけのもので、行先と目的を尋ねても、はぐらかされて結局教えてくれなかった。 熱いお湯でこの間上司からいただいた中国茶を煎れて時計を見やれば、時刻はすでに家を出る時間で。だけど汽車に間に合えばいいだろうと特に急ぐこともなく、私は洗面台へと向かった。 「遅い」 と、鼻歌まじりに家の扉を開けた私を待ち構えていたのは、機嫌が悪そうな三上だった。いつになく正装している彼に、少しだけ驚きながら、鼻緒に足をかける。「東京駅集合だとばかり」瞬きをゆっくりと繰り返す。表情は変えることなく、「迎えに来ちゃ悪いかよ」と、三上はさらに不機嫌になった。不機嫌な彼の隣に並ぶと、私に視線を向けることなく彼は歩き出す。シャラ、と私の髪の間で揺れる髪飾りになんてもちろん目もくれるはずがなく、わかってはいたけれど、なんだか釈然としなかった。 数歩先を行く三上の後を追いかけるように桜並木を進んでいく。と、言ってもすでに桜の花は散り、最早葉桜とさえ呼べない。芽吹き始めた新緑は、それはそれできれいなのだけれど、やはりどうせならば桜を見たかった。ここのところ仕事が忙しく、昼間にこの桜並木を通った記憶はない。散って薄茶色になってしまった桜の花びらの上を歩く。 「桜見たかったなあ」 「・・・・この間飛鳥山に花見しに行ったとか言ってただろ」 「んー、そういうのじゃなくて、こう、日常でさ」 「そういやこの前も言ってたな」 「仕方ないけどね、仕事忙しかったし」 働く女性の地位なんて、あってないような状態だ。未だに女性が働くことを良く思っていない人は五万といるし、実際そういう人によく出会っては嫌な顔をされる。それでも私は働き続けるつもりだし、雇ってくれた上司には感謝をしている。そういうわけで、女学校時代の友人が、夫と花見にいっただとか、友達同士で上野に行っただとか、そういうのを羨むつもりはない、と思ってはいるのだけれど、それでもやはり桜を見てお茶をたてるくらいのことはしたかった。 ほとんど会話らしい会話もせずに、東京駅に着く。ごちゃごちゃとした人の合間を縫って目的の汽車を探す。と、言っても私はただ前を行く三上の後ろについていくだけだったのだけれど、案外すぐに見失いそうになって、途中から必至だった。 目的の汽車にたどり着き、ひどく緊張した面持ちの、新人らしい車掌に切符を見せて汽車へと乗り込む。小さく区切られた客席の番号をひとつひとつ確かめながら進んでいくと、数個目で私たちの席は見つけられた。発車間近だったようで、私たちが荷物を寄せて席に落ち着いた頃に、笛の音が鳴り響いた。 ガタン、とひとつ大きな音が鳴る。 ゆっくりと、汽車が走り出した。 あっという間に田園地帯になった。背景に聳え立つ山は何なんだろうと思いながら、流れていく風景をただひたすらに追う。「ねえ、どこ行くの」もう何度目になるかわからない台詞を、惰性で三上に投げかけてみても、最初と同じく無言しか返ってこない。 「もう少し楽しそうにしたらどうなの」 「あ?別に楽しくないなんて言ってないだろ」 「そうじゃなくて・・・・ああ、もう面倒だなあ、何なの、私が準備に手間取っていて外で待たせたことがそんなに気に食わないの?でも別に私迎えにきてなんて言ってないし、この場合私は悪くないと思うの。どうなの?」 「だから、別に怒ってねえし」 そうして三上は瞼を閉じた。せっかくの旅行なのに、せっかくの誕生日なのにこの扱いはよろしくない。けれどそこで甘えるほど子供でもないし、そんな三上の素っ気ない態度を受け入れられるほど大人でもなかった私は、結局言い返すこともできずに、同じように目を閉じる。寝てしまおう、これ見よがしに思いっきり顔を逸らして、私は眠る体勢へと入っていった。 一定のリズムで揺れる汽車に、始めこそ不快感を覚えていたけれど、そのうちそれが心地よくなってきて、気づいたときにはすでに私はまどろみの世界にいた。現実と非現実の境界線が曖昧になり、汽車に乗っていることはわかっているのだけれど、目の前に誰がいるのか上手く認識できない。ただひたすらまっすぐ進む汽車の中で、私はじっと窓の外を見る。視界には、何も映らない。真っ白な空間が広がっている。ふわふわとした気持ちで私はただただ窓の外に広がる世界を見つめていると、ふいに名前を呼ばれたような気がした。 、と呼ぶ声は誰の声なのかわからない。わからないから、振り向かない。そうしていると、また、と声がこだまする。ああ、どこかで聞いた声だ、と認識はするのだけれど、声の主はわからない。仕方なしに、肩ごしに振り返ろうとしたところだった。 「、」 ガクン、と世界が落ちるような気がして、そこでようやく私は現実世界に意識を引き戻した。ぱっと目を開けると、いつの間に起きたのか、三上がいる。そういえば今私は三上と旅をしている最中で、そうして夢の中にいたことを思い出した。うまく覚醒しない頭を無理やり繋げて、なに、と返事をすると、窓の外を指さされる。 桜だった。 満開の、桜が流れていく。 「桜!」 思わず汽車の窓から身を乗り出した。青空の下に広がるのは、紛れもなく東京で見ることの叶わなかった満開の桜と青空だった。日本人の心を揺さぶる、淡い桃色が、視界の端から端まで駆け抜けていく。「すごい!きれい!」はしゃぐ私に、三上は一言、誕生日おめでとう、と言った。 「え?」 驚いて振り返る、けれど視界に入ったのは、目を瞑る彼。 ああそうか、と私は一人笑顔になる。 今年は満開の桜を見損ねた、と徹夜明けで働かない頭を何とか回転させて私が愚痴ると、桜は北上していくんだ、と黒川が答えたのは、つい最近のことだ。仕事帰りに三上と待ち合わせてカフェーに寄り、マスター相手に不満を言っていた。隣で聞いていた三上はまったく興味を示さなかったので、私は黒川と盛り上がったのである。てっきり話の内容なんて聞いていなかったのだと思っていたけれど。 目を瞑ったまま、眉間に皺を寄せて、きっと照れているであろう三上に、「ありがとう、亮」と呟く。微動だにしない彼を視界の端で捉えたまま、走り去る桃色に、再び目を向ける。 風が、強く吹く。 春が、行く。 桜前線、通過 END 浅海レナさんへ。 12年06月04日 |