彼女の故郷は、遠い奥州の街だということを、黒川が知ったのは随分前のことだ。



 一年程前から、ひと月に何度か、黒川のカフェーへと足を運ぶ女性がいた。常連、という程頻繁に顔を見せるわけではないけれど、一年も経てば覚えてしまう。足繁く通ってもらっているわけでもないので、今でも黒川と彼女の間柄は、マスターと客のまま変わらない。
 彼女の座る席はいつも決まってカウンターの左から二番目で、黒川からは丁度大きな花瓶が邪魔になって彼女が見えないことが多い。
 一度だけ、彼女は友人と一緒にここを訪れた。故郷から尋ねてきた顔馴染のようで、珍しく窓側の二人掛けテーブルに腰を落ち着けた。カウンターから近いその席にいる彼女の声は、とてもよく通って黒川の鼓膜を揺らしていた。郷土料理の話から最近の汽車情報まで幅広く他愛もない会話だった。そうしてふいに、彼女はぽつりと、山が恋しくなるの、と言った。東京には山がないからとっても窮屈よ、と彼女は笑った。山に囲まれて育ったことのない黒川は、むしろ四方から圧迫されるような気持ちになるのではないか、と推測するけれど、実際に見たことがないのでわからない。



 それからまた、何度か彼女は一人で来た。季節も変わって、秋めいた色合いに街が衣替えした頃、彼女はまたやって来た。



「ごめんください」

 遠慮がちだけれど、芯のある凛とした声が響く。はい、と黒川は返事をして、彼女がいつもの位置に座るのを待った。けれど予想に反したことに、彼女は窓際に向かっていき、いつか友人と座った席に落ち着いた。

「・・・・待ち合わせですか?」

 普段、黒川は余計な会話を取り入れることをしない。常連とはそれなりに会話が弾むことがあるものの、基本的にあまり話すことを良しとしない。祖父が作った雰囲気を、引き受けている。
 けれど思わずそう黒川が声をかけてしまったのは、いつもと違うところに彼女が腰かけたのと、それから黒川自身が何となく彼女のことが気になっていたからだった。声をかけられて、驚いたようだった。曇りのない黒い瞳が、驚きで揺れた。

「いいえ、ただ何となく」

 何故そんなことを、と目が訴えかけている。黒川は一つお詫びの礼を入れてから、「いつもカウンターにいらっしゃることが多いので、気になって」と素直に告げた。

「・・・・よく、覚えていらっしゃいますね」
「あまり人の出入りが激しいところではないですから、こうして何度も来て頂いていれば自然と覚えます」
「そういうものですか」
「そういうものです」

 彼女は少しはにかんだように笑い、珈琲を注文した。

 昼時を過ぎた店内は、人もまばらだった。給仕に遅めの昼食を取らせるため、今は黒川一人が出ている。珈琲を煎れながら、窓際に座る彼女に黒川は目を向けた。じっと窓の外を見つめて動かない。硝子窓を叩きつける雨と彼女が妙に自然で、そう言えば彼女がやって来る日は雨の日ばかりだ、と黒川は記憶の糸を辿った。
 お待たせしました、カップをゆっくりとテーブルに置く。



「雨の日が多いですね」



 いつになく、黒川は饒舌だった。彼女がそうさせるのかもしれないし、雨のせいかもしれない。彼女から少し距離を置いて、黒川は同じように窓の外の雨に向き合う。

「・・・・雨の日は、どうも故郷を思い出してしまって」
「東京ではないのですか」

 知っているけれど、白々しく黒川は彼女に尋ねた。はい、と小さく頷いて、彼女はそっと珈琲を口に含んだ。

「ここよりもずっと北から来ました」
「奥州?」
「はい。羽前です」

 懐かしい呼び名だった。明治になり、廃藩置県が行われて久しいため、今ではそう聞かない地名だ。黒川の思考を読み取ったのか、彼女は、小さく、すみません、と言った。

「どうも、昔からの癖で。母も祖母も、皆まだ、羽前と言うものですから」
「あ、いえ。故郷を、思い出す、か」

 黒川は生まれてこの方、東京を離れたことなどない。育った家もこのすぐ近くにあった。だからあまり、故郷を思い出して懐かしむことがない。
 東京は、大きな街だ。数多の人が、西から南から、そして北から東京を目指して上京する。カフェーの常連にも、故郷から出てきた人はたくさんいた。前へ前へと進む明治の今の世に、過去を振り返る者などあまりいない。けれど、上京してきたものは皆、たまにどこか物寂しげな表情をして見せた。置いてきた思い出と家族と友人と、色々なものを思い出すのかもしれなかった。
 彼女の表情も、とてもそれによく似ている。

「雨が降ると、東京が知らない街のような気がしてきて、ふとした瞬間に故郷に見えることがあります。こんなにも家やお店が立ち並ぶようなところなど、まったく無いはずなんですけど」

 それで、多分、外に出てしまう。

 そう言って彼女は何かを追い求めるように、その白い手で窓硝子に触れた。

「似ているんです」

 窓硝子にほぼ額を触れるように彼女は言った。硝子に反射して映る表情は、ぼんやりとしている。



「貴方は、私が置いてきた、故郷の友人に、とても」



 突然の告白に、適当な相槌を打つこともできず、黒川は押し黙った。友人、という言葉がやけに違和感を誘い、もしかしたら恋人なのかもしれない、と思った。
 窓硝子の向こう側に在る雨の世界は、鮮明ではない。彼女はその先に、きっと故郷を見ているに違いなかった。

 マスター!入口が豪快に開けられ、顔馴染の常連客がやって来た。逃げるように、黒川は失礼しますと一礼すると、彼女に背を向けた。





 背を向ける直前に交わした視線が、いつまでも纏わりついて離れなかった。





雨の向こう側




END


雨の日って、どうも感傷に浸ってしまうような。

12年10月06日


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